ここ最近の「食卓ナショナリズム」関連投稿から生じた疑問。
- 「シチュー丼は(白飯を基調とする日本人の食生活慣習的に)ナシだ」が「ナショナリズム」なら「シチュー丼は(世界中に同種の料理が存在する以上)当然アリだ」が「グローバリズム」なのだろうか?
- いわゆる「フランス料理」の起源は、主権国家が全国各地の郷土料理を統合して生み出した宮廷料理。
日本にも「和食」を同種の趣旨で統合しようとする動きがあるが、いずれにせよベクトル的に正反対の存在として対比されるのは各地域が対抗し合う御当地グルメや屋台食の様なリージョナリズム(地域主義)の世界と想定される。
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ならばこの観点から「グローバリズム」なる用語は如何なる意味を与えられるのだろうか?
*ちなみに敗戦直後から1960年代にかけての日本人は「工業化と洋食化」がそれだと信じていた節が見受けられる。こうして生まれた料理は日本では一般に「和食」外という認識だが、それぞれが独自進化を遂げ海外においては「(日本にしか存在しない)日本料理」に分類されている事が多い。*「日本の中華」も独自発展の結果、同種の扱いを受ける展開に。
冷蔵設備の普及は各国において「日常的に食べられる様になった特別な生鮮食品(アメリカではブロッコリー、日本では生卵や納豆)に対する特別な愛着心」を芽生えさせてきた。これも「ナショナリズム」の一種だとすれば、それに対比される「グローバリズム」とは一体如なるものか?
ところで、ここでいう「ナショナリズム」も「リージョナリズム」も「執着心」の一種。ならば当然、それに対比される「グローバリズム」とは「無関心の徹底」に該当する事になるのではないでしょうか。
「アーリア人がどうの」みたいな純血主義はもちろん問題だが、しかし、一部のリベラルのように「移民を入れまくって、『純粋な』白人とか日本人を減らしてやろう」となってくると、今度は白人や日本人といった民族や人種に対する嫌悪、憎悪、抹殺願望が表面化してきて、単なる民族浄化へと傾いていく。
— irr (@IrrTenko) 2017年5月26日
とはいえ実際の歴史を「無関心の徹底」が主導してきた事など、かつて一度でもあったでしょうか? そう見えて実は概ねそうした歴史的展開は「無関心の徹底」を装った別の執着心だったのではないでしょうか?
- その数少ない例外の一つが17世紀の大英帝国において実践が始まり、コンドルセ伯爵やジョン・スチュワート・ミルらによって理論整備され、「統計学の祖」ナイチンゲールの努力や「国土調査実現の秘密兵器」タビュレーティングマシン(Tabulating machine、別名「パンチカード・システム」)の登場によって加速した「計算癖が全人格化した世界」への移行過程といえるのかもしれない。
*こうした人々は執着心がないのではなく、それが純粋にアルゴリズム改良熱に向けられているのである。そして「第三世代人工知能」の概念は「コンピュータもまたアルゴリズムである」なる発見を経て、その延長線上に現れた。
- マンハイムはこれについて「被統治者に対する行政側の無関心は彼らに対する自由の保障でもある」「進歩主義とは、人間の平等は政治面と経済面においてしか実現しないと割り切る事である」と述べている。
*逆をいえば、そうした思考様式をニヒリズムとしか受け止められず「個別的なるものそれぞれへの執着心」を主体的に統合して新たな思考湯式を構築しようとするのが「保守主義的思考」という事になる。そしてこうした試みは概ね最終的に「ナショナリズム=(主権国家や国民国家といった)中央集権を志向するベクトル」か、あるいはその正反対の「リージョナリズム=(大貴族連合による分割統治状態や、「家父長制や奴隷制を維持する為に中央からの干渉を拒絶する」ジェファーソン流民主主義といった)分散主義を志向するベクトル」の二者選択を迫られる展開になるという。
ところで「食卓ナショナリズム」の世界には、上掲の意味合いにおける「グローバリズム(無関心)」と「ナショナリズム(中央集権的執着心)」と「リージョナリズム(分散主義的執着心)」の複雑な折衷案件というのが存在します。
- 主権国家同士の競争が歴史を動かした時代における「富国強兵=飢饉回避と人口増加」を目的とする馬鈴薯の奨励…極めてナショナリズム的(中央集権的)案件ながら特定の料理法の強要を伴わず、各地域ごとに郷土料理への取り込みが遂行された。
- 「日本民族の体質改善」を目標に掲げた大日本帝国時代における「西洋食材採用の奨励」…極めてナショナリズム的(中央集権的)案件の上、その実際の普及には軍隊における食事が大きな役割を果たしたとされる。また国民の間にも欧米列強との対抗を考える立場上「体質改善」を望む声自体は存在した。
*日本人の間にウィスキーが広まったのも、こうしたプロセスを経ての事。
後者の特徴、それは味付けの独特の甘さです。肉じゃが、鋤焼、大和煮…
「既存概念では肉や西洋野菜など到底食べられない様な味だったので、最も味を殺す味付けが選ばれた」とも「産業革命期の英国人労働者が砂糖入り紅茶を求めた様に、近代日本の労働者もカロリー補充を重視した(砂糖の値段が大幅に下がったので、料理や飲物に大量にブチ込める様になった)」とも「白飯食が広まっていく過程でオカズとして濃い味付けが求められた」ともいわれています。いずれにせよ、まさしく「文明開化は砂糖味」だったという次第。
そして「和食」の世界すら、こうした流行の影響を免れる事は出来なかったのでした。
砂糖と醤油で甘辛く煮付けた日本の食べ物。とりわけ小魚、アサリなどの貝類、昆布等の海藻類、山地ではイナゴ等の昆虫類などを醤油・砂糖等で甘辛く煮染めたものをこう呼ぶ。シソやゴマなどを加えることもある。牛肉の佃煮も目にする。ご飯と一緒に食べると美味とされる。余り物利用の保存用食品であったことから、物が有り余ってもて余すさまを「佃煮にするほど」などと表現したりする。
その由来には諸説ある。
- 江戸時代、徳川家康は名主・森孫右衛門に摂津国の佃村(現在の大阪市西淀川区佃)の腕の立つ漁師を江戸に呼び寄せるよう言い、隅田川河口・石川島南側の干潟を埋め立てて住まわせた(東京都中央区佃島)。佃島の漁民は悪天候時の食料や出漁時の船内食とするため自家用として小魚や貝類を塩や醤油で煮詰めて常備菜・保存食としていた。雑魚がたくさん獲れると、佃煮を大量に作り多く売り出すようになったといわれ、保存性の高さと価格の安さから江戸庶民に普及し、さらには参勤交代の武士が江戸の名物・土産物として各地に持ち帰ったため全国に広まったとされる。
佃島の漁民の故郷は、実は関西の佃村(現在の大阪府西淀川区佃)。
かの徳川家康が江戸に入来の際、摂津の佃村に住んでいた漁民たちを江戸に呼び寄せ、特別の漁業権を与えました。なぜ佃村の漁民か?なぜ特別待遇か?そこには大きな理由があります。
家康公が生涯忘れることのできない苦難に遭遇した際、こぞって公を助けたのが佃の漁民だったのです。
1582年6月2日早朝。明智光秀の謀反によって織田信長が本能寺で倒れた時、家康の一行はわずかな手勢とともに堺にいました。
見つかれば、信長の盟友である家康も当然標的です。
なんとしても岡崎城へもどらねば……家康一行は決死の覚悟で脱出奇策をとりました。
ところが神崎川(現在の大阪市住吉区)で足留めを食らいます。川を渡る舟が無かったからです。ここに救世主のごとく現われたのが、近くの佃村の庄屋・森孫右衛門を筆頭とする漁民たち。
手持ちの漁船と、不漁の時にとかねてより備蓄していた大事な小魚煮を道中食として用意したのです。
気候の悪い時期に人里離れた山道や海路を必死に駆け抜けねばならない一行にとって、この小魚煮がどれだけ身を助けてくれたか、ありがたいものだったかは、言うまでもありません。
以来、佃村の人々に対する家康の信任は、特別なものになりました。
後の大阪の陣に備えて、佃村の漁民に大名屋敷の台所へ出入りできる特権を与え、大阪方の動向を探る隠密の役割をつとめさせたという言い伝えもあります。
摂津の国、佃村(摂津国西成郡佃村。)現在の大阪府大阪市西淀川区。 ただし、徳川家康に連れていかれたのは、+大和田村の魚夫もふくまれますね。https://t.co/n9gxMYxxYu この逸話がなかなか面白い。 [41] https://t.co/u4GGEcXw4F
— 森崎正人(胡桃) (@hutai) 2017年5月23日
@Kimiko_Dover 本能寺の変が起きたとき、徳川家康は少ない供回りと非武装で堺に居て、明智方に狙われると非常に危険な状態だったのを、淀川の中洲、佃村の庄屋森孫右衛門らが多数の舟を出し助けたことにより、徳川様と佃の漁師・領民との縁が深まったと伝え聞いておりまする。
— 建築エコノミスト森山 (@mori_arch_econo) 2017年5月22日- 1858年(安政5年)に青柳才助が創始したとする説…当時、棒手振りだったこの人物が日本橋呉服町稲荷新道において佃島漁民の雑魚の塩煮を『佃煮』と称して販売しまたのが最初とする。
- 1862年(文久2年)に鮒屋佐吉が創始したとする説…浅草見附外の浅草瓦町(現在の東京都台東区浅草橋)に「鮒佐」を構えた下総國・船橋出身の大野佐吉が塩煮であった佃煮を独自な改良(種類ごとの素材に分け、当時まだ高級であった醤油を初めて使用するという斬新な発想)のもと現在の佃煮の原型を作ったとする。
- 日本橋の伊勢屋太兵衛が創始したとする説…菅園の書いた「空おぼえ」に「佃煮、小鯊(こはぜ)を醤油にて塩辛く煮付けたる物なり。隅田川の下流海口の佃島の名物なり。漁の都合にて外の小魚を交ぜて煮る事もあり。魚は真鯊(まはぜ)に似て少し異なり、色黒く「ダボハゼ」とも違えり。大きさ一寸(約3㎝)前後の小魚にして、各々粟粒ほどの卵を四五十つぶをいだけり。俗に「おしゃらくはぜ」と言う。小身にて子をはらむという義理なるべし。この佃煮を江戸市中にて売り始めたるは、日本橋区坂本町薬師堂の表門の向家、伊勢屋太兵衛という料理茶屋に始まる」とある。伊勢屋太兵衛は大伝馬町の木綿問屋長谷川治郎吉店の支配人で、退職後、茅場町に掛茶屋を出して「伊勢太」と名乗った。
- 大阪・住吉明神を江戸・佃島に住吉神社として分霊したが、その祭礼では雑魚を煮詰めたものを供えていた(醬油煮説と塩煮説がある)。このことから、住吉神社に雑魚を煮詰めたものを「佃煮」として供えたことに由来するという説。
住吉神社:住吉神社について
日本全国に広まったのは明治時代以降とも。
- 1877年(明治10年)の西南戦争の時には、政府軍から軍用食として多量の佃煮製造が命じられた。
- 1894年(明治27年)の日清戦争でも、多量の佃煮製造が命じられ、多量生産が行われるようになった。戦後、帰宅した兵士は戦場で食べた江戸前佃煮になじんでおり、これは一般家庭の副食となり日常食となっていった。
- そして佃煮の素材や味付けの種類が増えると共に、包装の工夫により販売や保存が楽になったことから、消費は益々ふえていった。
現在では全国各地に佃煮の産地がある。
- 小豆島は、醤油の産地でもあり佃煮が多く作られている。特に昆布の佃煮が全国一となるなど佃煮産業が盛んである。
- 広島市でも佃煮製造が行われており、1904年(明治37年)から1905年(明治38年)の日露戦争で広島が陸軍の橋頭堡となった事から軍需に支えられていたという背景があり、1898年(明治31年)に楠原政之助が広島市中区にて漬物佃煮の缶詰を製造し販売された。
- 静岡県焼津市は鰹の佃煮生産高が高く、地域によっては特徴のある製品が製造販売されている。
ただし現在一般に市販されている佃煮は、うす味、甘口で保存性は以前ほど高くは無い。真空包装の物や、要冷蔵の佃煮が多い。増粘安定剤などが加えられていることもある。
*本来の江戸前佃煮は、常温で夏でもおにぎりや弁当に入れても傷まない辛口のものが安心で重宝された。現在も数件だが、職人の技により手造りの旧来の味付けの佃煮も受け継がれている。
やはりここにも「軍隊の食事」と「白飯食の広まり」が絡んでくるのですね。そういえば第日本帝国の軍隊は当時の日本において「白飯食」を最初に採用した組織の一つでもあったのでした。そして…
この地域では、近畿とも関東とも異なる利用文化が見られる。
長崎貿易で砂糖が比較的豊富に手に入った伝統から、甘味を求める傾向が強い。混合醸造方式の比率が高く、糖分やうまみ成分などが多めに添加され、甘みが目立つものが広く好まれ、これらを「うまくち」と称することもある。
濃口醤油でも、関東地方のものに比べて色は黒く、最初に感じる香りの弱い(関東の濃口と比較して「鼻にツンと来ない」と評される)、色や香りに濃厚な風合いが好まれる傾向にある。また、甘みやうまみを多く添加したどろっとした風合いの「さしみ醤油」も使用され、とくに脂が多い刺身への「のり」が良いという特徴がある。フンドーキン醤油やニビシ醤油、富士甚醤油、チョーコー醤油、ホシサンなどのメーカーがある。
Wikioediaにはこうありますが、実は幕末期に活躍した西国諸侯のうち少なくとも一部は「長崎貿易で砂糖が比較的豊富に手に入った」のを足掛かりに国産化に成功。それまでの経済的危機から脱却して幕末に活躍する展開にを迎えました。
*最も砂糖への依存率が高かったのは、琉球王朝を俗国として従えた薩摩藩であった。
沖縄では、古来、うま味を得るためには昆布と魚や豚の出汁を利用することが多く、調味料は味噌や塩が主流で、醤油はかつて高級品扱いであり、戦後の食文化の変化に伴い、一般的に用いられるようになった。
沖縄で販売されているものはキッコーマンやヤマサ醤油等、他県産のものが多いが、県内にも赤マルソウなど、小規模メーカーはある。材料にシークヮーサーを用いた醤油も、沖縄では知られた調味料の一つとなっている。
もしかしたら明治維新後に「何でも砂糖は砂糖をブチ込んで甘くする」文化が広まったのは、それが「文明開化の味」だったからだけでなく「倒幕の味」でもあったからかもしれません。
昔 聞いた西郷隆盛の逸話で都の有名料亭で西郷が食事をしたところ、気に入らなかったので、料理人が作り直しました、するとたちまち西郷が気に入り料理人を呼寄せなぜ最初から二回目の料理を運ばなかったかを正しました。すると料理人は「最初の薄味の京料理がお気に召さなかったので、二回目は田舎料理の濃い味で作り直しました」と言ってのけたエピソードが有ります。
*漫画化などに際して、しばしば「味を濃くする=醤油と砂糖を大量投入する」と描写描かれてきたが、史実に基づくかどうかは不明。このエピソードはこの西郷を馬鹿にした料理人を怒ることなく、(言いにくい事を権力者に言えるのは凄い事だと)逆に召し抱えた事で、西郷の人間の大きさを伝えるエピソードなのですが、私的には 都会→薄味 田舎→濃味 とだけが刷り込まれた様で^^;
大阪から山口県に来たとき どこの家庭の料理も薄味なのに驚きました。昨日野崎さんが田舎料理は味が濃いと言われるが、実は田舎ほど味が薄いんですよ と、ただ飢饉とかが有るので 食糧難を経験して保存方法を知っているだけだ、と、成る程と納得しました。
豚の三枚身やアバラの骨付き肉を大きめにブツ切りにしたものを鍋へ入れた後、味付けに黒砂糖や鹿児島の味噌、生姜、そして焼酎を加え、弱火で2~3時間煮込み、柔らかくなったら出来上がりとなる。長時間煮込む事で臭みが取れ、コクが出る。さらに、残った汁には蒟蒻や桜島大根を入れて煮込み、付け合せとする。
こうした「(西洋から伝来した)バタ臭い味を(「日本の伝統」に基づいて)砂糖の甘さで置き換えた」明治料理の発想もまた「三味線現象(その異国情緒が受けて日本全土に広まった後、次世代以降に日本の伝統文化として定着する文化的流れ)」にカウントすべきなのかもしれません。そして、まさか「豚骨味」の起源もまた一緒とは…
ここでまさかの「とんこつラーメン」乱入…
主に福岡県福岡市で作られる、豚骨スープとストレートの細麺をベースにした日本のラーメン。主に福岡地方のラーメン専門店、中華料理店、屋台で提供される。
- 味付けや色合いは店や地区によって千差万別だが、基本的には豚骨主体の乳白色のスープと極細麺が特徴。豚骨を強火で沸騰させるため、骨のゼラチンなどが溶け出し濁ったスープになる。麺の硬さを注文する点や替え玉も当ラーメンの特色になっている。
- ご当地ラーメンブームなどにより福岡市とその近郊を中心にラーメン店舗が増加・定着した。ラーメンツアー企画や「らーめんタクシー」サービスなど、福岡の観光スポットとしても人気を博している。全国展開や大阪や東京に出店する店舗や、全国のラーメンのフードテーマパークへの出店、有名店の名を冠したカップ麺の販売などによって、当ラーメンの知名度は全国的にも上がった。
- 逆に当地においては、ラーメンスタジアムに参加した全国の有名ラーメン店が出店し、それらと融合する形でしょうゆ豚骨味や味噌豚骨味のラーメンが誕生、また九州内の久留米ラーメンや熊本ラーメンの影響を受けるなど、博多ラーメンもそのバリエーションを広げている。他店との差別化を図るため独自のサービスをおこなったり、独自商品を提供したりもする。
- 繁華街の有名店や長浜地区のラーメン店では深夜営業や24時間営業の店があり、宴会の二次会や三次会、宴会のシメとしてラーメン店がよく選ばれる。また博多で人気の屋台の多くで提供される。
- JR九州の博多駅や小倉駅のプラットホームでは立ち食いで提供されている。
発祥についてはいくつかの説がある。
- 1941年(昭和16年)ないし1942年(昭和17年)、中洲の福岡玉屋近くの博多川沿いで森堅太郎が屋台「三馬路」を開業。清湯(透き通ったスープ)の豚骨スープに平麺のラーメンを提供した。1946年(昭和21年)には中華料理を学んだ井上清左衛門が中洲や柳橋で屋台「博多荘」を開業し、清湯の豚骨ラーメンを提供。また同年には博多駅近くで津田茂が屋台「赤のれん」を開業。当初はうどん屋台だったが、奉天(現在の瀋陽市)で食した白濁豚骨スープの麺「十銭そば」をヒントにラーメンを提供するようになる。
*ちなみに奉天で中国人が提供した「十銭そば」は、アイヌ民族の伝統的な汁物料理・オハウをヒントに考案されたとする説もある。- 1946年(昭和21年)に「赤のれん」(現在の赤のれん節ちゃんラーメン)の津田茂と「博龍軒」(馬出中央商店街)の山平進が合作で作り上げたとする説がある。津田は中国で食した豚骨スープを工夫して再現し、山平がかん水で麺を打ち上げコラボしたのが現在の博多ラーメンであるとする説。
- 福岡県久留米市の1947年(昭和22年)創業の屋台「三九」で偶然の結果、白濁豚骨スープが誕生。「三九」はこのスープを用いてラーメンを供するようになる。これが豚骨ラーメンの始祖となり久留米ラーメンが生まれる。やがて鹿児島を除く九州各地に影響を与え、このスタイルが伝わり博多ラーメンになったという説。
おもに福岡市中央区長浜の店舗や屋台のラーメンを指して、長浜ラーメンまたは博多長浜ラーメンと呼ぶ場合がある。
- 1955年(昭和30年)、現在の博多区築港本町にあった魚市場が長浜に移転、「福岡市中央卸売市場鮮魚市場」となる。それに伴い、「元祖長浜屋」「一心亭」など市場ラーメンの屋台も長浜に相次いで移転した。
- おもに市場関係者向けであった長浜ラーメンの特徴は、競りの合間に食すため、素早く茹でられる極細麺、麺だけの追加注文の替え玉、豚骨を主な原材料としながらも、思いのほか軽めに炊かれたスープ、などととされる。
- 屋台でも店舗でも、各テーブルに『ラーメンのタレ・かえし』(主に替え玉でスープが薄まった時に入れる)『紅しょうが』『胡麻』が用意されており、客がこれらを用いて自分の好みで味や風味の調整を自由にできるスタイルになっている事が、食べ方の主流である。
元来、博多ラーメンと長浜ラーメンは別物であったが、近年はそのジャンル分けは難しくなっており、地元の比較的若い世代層ではほぼ同義語と捉えられている。長浜地区は「福岡」にあたり、「博多」には含まれないが、同じ福岡市中心地のラーメンである。
あれ、ここでいう「田舎風濃厚味と都会風あっさり味のイメージ的対比」って「ジビエ(狩猟文化)とベジタリアン(農耕文化)の複雑怪奇な対峙」とも重なってくる?
ちなみに九州北部は平安時代、太宰府衰退が 博多商人台頭を招いた土地でもあります。というより、それ以前に「九州北部の中華王朝代理人化が畿内にヤマト王権の起源たる纒向豪族連合を発足させた」歴史的経緯も存在したりして…
フランス料理にも「グラタン料理の起源は国王直轄地だった辺境のドーフィネ地方」とか「そもそも卵や牛乳を伝統的食材としてきたのは(中央集権化により流通網が発展する以前の時代から、それを地産地消してきた)田舎料理」といった、様々な暗黒面が存在したりします。
要するにナショナリズムは「地域文化への無関心」を特徴とするグローバリズムに対抗すべく「リージョナリズム(個別的なるもの=地域文化への執着心)」を積極的に取り込んできたという事なのでしょう。