仏教では「あらゆる執心を離れた境地」を理想視しますが、問題はそれに辿り着く過程なのです。例えば平安王朝文学辺りを読んでも、深く仏教に帰依しながら「自ら愛憎まみれの業の深い人生を送った末にその境地に辿り着くのでなければ意味がない」と考える人生観を窺わせます。
人間は周りがみんな持ってるのに自分だけ買ってもらえず、「大人になってテメーの金で買え」と言われたものに人生を支配される(執着するか超絶アンチになるかは個人差あり)というのは全国の親御さんには覚えておいて欲しい
— 三枝零一 (@saegusa01) 2021年2月19日
あと、この状態になった子供(成人)を見た親はだいたい「こうならないように○○(ゲームなど)を排除したのに何故こうなったのかわからない」と不可解なことを言う、というのも追記
— 三枝零一 (@saegusa01) 2021年2月19日
そういわれても、じゃあ子供の欲しがっているものはすべて与えるのが正しいのか? というのも違いますし。
— アキ (@a__k_i) 2021年2月19日
子供と話し合って判断すりゃいいとおもいま
— fusipuro (@fusipuro) 2021年2月19日
ほんとそれ。だからなんだかわかりませんね
— まるまる (@manny0184580350) 2021年2月19日
マルコムXの名言を思い出します。「何人たりとも誰かに自由を与える事は出来ない。自ら掴み取った者だけがそれを手にする」。今調べてみたら、原義とは随分とニュアンスが異なっている様ですが、若い頃にこの言葉に出会ってから「究極の自由は専制の徹底によってのみ達成される」ジレンマと併せ、この形で座右の銘にしてきました。
それを正く知る事と、それを実際に生きる事の間に横たわる深淵?