時代の変わり目には、強烈な個性を持った人物が現れます。
南北朝を駆け抜けた一人の武将・・・バサラ大名・・・佐々木道誉!!
バサラとは、婆裟羅とは、奇抜な衣装と振る舞いで、注目を集め、古い権力や秩序をものともせず、常識破りの行動をする者たちを指す言葉です。
道誉は、鎌倉幕府に仕えながら裏切り、後醍醐天皇につきまた裏切り・・・
一方で、茶の湯や生け花など、新たな文化を育てる傑出した千里眼の持ち主でした。

琵琶湖の東に位置する滋賀県米原市・・・中世には、近江国と呼ばれ栄えた場所です。
鎌倉時代後期の1296年、佐々木道誉は、近江国の有力御家人・佐々木氏の四男に生れました。
若くして鎌倉幕府に出仕し、最高権力者・北条高時にも認められる存在でした。
27歳で検非違使に任じられ、都の治安を守る仕事についています。
そんなエリート御家人・道誉に転機が訪れます。

1331年、後醍醐天皇が幕府打倒を掲げて挙兵・・・
笠置山に籠りますが、1か月で鎮圧・・・捕らえられ隠岐の島に流されました。
この時、後醍醐天皇の護送役となったのが道誉でした。
都から隠岐の島に向かう十数日の間、道誉は後醍醐天皇から幕府を討つ理由を聞かされたともいわれています。
天皇の挙兵は、幕府に不満を抱く各地の武士たちに決起を促しました。
都に近い河内国では、楠木正成が挙兵・・・後醍醐天皇も隠岐の島を脱出、これに対し、幕府は足利尊氏を大将とする鎮圧軍を派遣します。
道誉の子孫の家の伝えによると、道誉は進軍してきた尊氏を近江でもてなし、後醍醐天皇から討幕の綸旨を受けたと告げ、尊氏と共に天皇側に寝返ってしまいます。
尊氏は、京都の六波羅探題に攻め込みます。
この時の道誉の働きを、今に伝える場所があります。

米原市蓮華寺・・・
1333年、尊氏に敗れ鎌倉に逃げる北条仲時ら六波羅探題の軍を道誉が差し向けたといわれる軍勢が襲撃・・・蓮華寺に追い込みました。
弓矢も尽きてしまい、鎌倉まで到底行くことはできない・・・
ここで自害して果てるしかない・・・全員、刺し違えたり、切腹をして自害をして果てました。
その時、境内が血の海になったといわれています。

1333年5月、鎌倉幕府滅亡・・・。
まもなく、後鳥羽上皇による建武の新政が始まります。
道誉の功績が認められ、「雑訴決断所」の幹部に抜擢されます。
しかし、建武の新政は、早々に暗礁に乗り上げます。
太平記によれば、後醍醐天皇は、公家や仏門、お気に入りの武将ばかりを優遇・・・
京都二条河原には、痛烈な批判の落書が掲げられました。

”この頃都に流行るもの
     夜討 強盗 謀綸旨
        何でもありの世界になってしまった・・・”

新政が始まって2年後・・・1335年、北条氏の残党が、信濃で蜂起し鎌倉を占拠!!
足利尊氏は討幕軍を率いて京都を出立・・・道誉も従軍し、鎌倉奪還に成功します。
尊氏はそのまま鎌倉に居座り、天皇の許可を得ずに恩賞を与え始めました。
尊氏の勝手なふるまいを知った後醍醐天皇は、尊氏を朝敵として討伐軍を派遣・・・
この時、道誉は尊氏に天皇方と戦うことを強く促します。

”武家の棟梁になる人がおらず、心ならずも公家に従ってきたが、尊氏様が立つと知って付き従わないものはいないだろう”by道誉

1335年12月、道誉は、天皇の討伐軍と駿河で激戦!!
弟は討ち死に、自らも痛手を負いました。
すると、即座に天皇方に降伏・・・寝返ってしまったのです。

6日後、道誉は、天皇方として戦場に立ち、足利軍と対峙・・・
ところが、他の戦場で足利が有利の報せを聞くと、すぐに足利方に寝返り後醍醐天皇の軍勢を散々に蹴散らしました。
尊氏軍は、大勝利の勢いに乗って京都まで攻め上り、遂には後醍醐天皇を退位させます。
その後、後醍醐天皇は吉野に逃れ、南朝を創設。
寝返りを繰り返し、強い者につく道誉のふるまい・・・そこにこそ乱世を生き抜く渡世術がありました。
道誉は、自分の利益、恩賞を与えてくれる君主であれば誰でもよかったのです。
当時は、現代に比べると裏切りが恥という感覚は希薄でした。
”返り忠”といって、無能な主君を裏切ることはいいことのような観念すらありました。
1336年11月、京都に足利幕府が開かれます。
道誉は、若狭や近江などの守護を歴任・・・幕府の中心人物の一人になっていきます。

足利尊氏が幕府をひらいて4年後の1340年、秋・・・
道誉の行動が、都中の物議を呼びます。
「太平記」に一部始終が書かれています。
”誰もが驚く栄達を遂げた佐々木道誉殿
 一族郎党引き連れ、レイの婆裟羅ないでたちで、鷹狩りをした帰り道の事・・・
 ふと通りかかった寺のモミジの美しさに目を奪われ、
 「おい、あの枝を折ってもってこい」と、家来に命令いたします
 ところが、この寺は上皇様の弟が住職を務める門跡寺院・・・
 境内には僧兵がいて、枝を折った家来を見つけるや、殴り倒し、けりまわし、寺の外へ放り出してしまいます
 道誉殿は激怒!!
 「どんなに偉い寺だか知らぬが、この道誉の身内に手を挙げた者は許さん!!」
 その晩のうちに300あまりの兵を引き連れ、寺を焼き討ち!!
 寺の宝物まで奪い取ってしまったのです
 
事件を知った公家が、日記に・・・
 「言語道断の悪行・・・天魔の仕業か・・・!!」と記したほどの大事件
 焼き討ちされた寺の本山である比叡山延暦寺は、幕府に詰め寄り仏門を冒涜した道誉親子を死罪にせよと要求いたします
 実は、道誉のように振る舞う婆裟羅大名は、他にも居りました
 美濃守護・土岐頼遠は、天皇の兄である金剛院様の行列に行き会い、馬から降りるように求められたことに怒って「院だと??犬なら射よう」と、矢を射かけてしまいます
 その為、死罪にされたのでございました
 天皇家に近い門跡寺院を焼き討ちにした道誉にも、重い罰が下されると思いました
 ところが・・・下されたのは、上総国への入るという軽い処分でございました
 しかも、上総に向かう道誉は、一族郎党を引き連れ、道々に遊女や酒まで用意し、およそ罪人にこうとは思えぬありさまだったといいます
 その上、一行は全員が、サルの毛皮を腰に巻く異様な出で立ち・・・
 太平記はサルを神の使いとして尊ぶ比叡山を嘲ったのだと記しております”

処分から4か月後、足利尊氏は道誉を呼び戻し、政治に復帰させます。
どうして佐々木道誉の処分はこんなに軽かったのでしょうか?
実は、道誉は幕府にとって欠かせない存在でした。

1357年に完成した准勅撰連歌集「菟玖波集」
2190句もの連歌を収めた連歌集を紐解くと・・・天皇や公家、僧侶に交じって道誉の詠んだ句が81も載せられています。
連歌とは、和歌の上の句、下の句を何人もで次々と詠み連ねていく形式の歌です。
今も連歌の作法はそのままに残されています。
発句が詠まれ・・・詠まれた句の判定をするのが宗匠です。
評価し、採用不採用を決めていきます。
上の句に、参加者が即興で考え披露します。

菟玖波集に、道誉は、

今年なほ 花を見するは命にて 

と、句を詠んでいます。
これは”いたずらにこそ昔ともなれ”に続いたものです。
道誉は、一瞬一瞬を生きて、楽しんできた人でした。
道誉の邸宅に、公家や僧侶が集まり、連歌を早朝から1日かけて詠まれました。
休憩には、御馳走や菓子、酒が振る舞われました。
歓談することでより親密な関係を築ける場所でした。
この宴会こそが重要なカギでした。
武士と公家が融合するツールとして、積極的に導入していっています。
宴会を政治利用し、文化でもコーディネートしたり、プロデュースしたりする・・・
色々な仕掛けをこしらえたり、華美にしたり、趣向をこしらえたり・・・
道誉は一番抜きんでていました。
そこで行き交う情報を得ることで、共感、合意を持っていくような手法はあります。
菟玖波集を編纂した朝廷のじ津力者・二条良基も、道誉の能力を高く評価していました。

「道誉が連歌に熱中していた頃は、誰もが道誉の風情をまねた」

道誉は、幕府から武家申詞という役職に任ぜられています。
これは、幕府の求めを朝廷側に伝える重要な窓口です。
その仕事は、幕府の御家人たちへの所領安堵や処罰、公家の官職任免などの人事、寺社に対する政策など、あらゆる分野におよんでいました。
この時、朝廷側の窓口は、内大臣・勘修二経顕・・・道誉とは昵懇の間柄でした。
たとえ、門跡寺院に火を放つ大事件を起こしても、道誉は幕府にとってなくてはならない人材でした。

1350年、幕府が開かれて14年後・・・幕府は未曽有の危機に見舞われていました。
征夷大将軍の尊氏と、政治を主導していた弟・直義の対立が全国規模の内乱に発展・・・観応の擾乱です。
直義は、後醍醐天皇が開いた南朝と結び、尊氏打倒の綸旨を授かります。
諸国の有力守護が直義に従い、形勢は一気に直義有利に・・・!!
この時道誉は、敗北寸前の尊氏親子を説得・・・尊氏が南朝に降伏するという離れ業で、直義追討の綸旨を獲得!!
劣勢を挽回し、直義を打ち破りました。
観応の擾乱は、2年ほどで終息・・・
しかし、幕府が安泰となることはありませんでした。
将軍・尊氏が、戦いで受けた傷がもとで他界・・・
尊氏を継いで二代将軍となったのは、28歳の息子・義詮でした。
太平記では、周囲の口車に乗りやすい付和雷同型の人物だったとされています。
そんな義詮を補佐し、実際の政を行う評定衆・・・幕府最高の政務機関です。
評定衆に名を連ねたのは、足利一門の細川清氏、仁木頼章、守護大名の土岐頼康、そして佐々木道誉など、有力守護や足利一門が7名ほどが任命され、合議制で政務を行いました。
ところが、その評定衆内で、激しい勢力争いが行われることとなります。

1359年、仁木義長兄弟が6か国の守護職を兼ね、評定衆内で権勢をふるうようになります。
他の守護の土地を奪い、評定衆と口論するなど軋轢を起こしました。
周囲との対立が高じて、遂に将軍・義詮を軟禁・・・
道誉は機転を聞かせ、義詮を救出・・・他の評定衆と共に、仁木を京から追い出しました。

代わって権勢をふるうようになったのが、幕府No,2の細川清氏!!
道誉が娘婿に与えようとした加賀の守護職を横取りし、さらに道誉が孫に与えた摂津守護職の返上を求めるなど、道誉の力をそぎにかかります。
太平記には、清氏が将軍・義詮を呪う祈祷を行っていると密告!!
実際、清氏は討伐されることとなります。
有力な足利一門を追い落とす道誉・・・
この頃、武家権勢道誉法師と恐れられていました。
そんな道誉の前に、最大の敵が登場します。
足利一門の斯波高経です。
一門の中で、足利将軍家に匹敵する格式を誇り、幕府草創期には後醍醐天皇側の有力武将・新田義貞を討ち取るなどの功績をあげていました。
道誉は、高経の3男に娘を嫁がせるなど、二人の仲はもともと悪くはありませんでした。
しかし、細川清氏が失脚すると、高経は幕府内の自分の立場を強化・・・
4男をNo,2将軍執事の位につけると、その父として実権を握りました。
その外、次男を九州探題、五男を侍所頭人、孫を引付頭人に任命、幕府の要職を、一家で独占してしまいました。
主導権を握った高経は、幕府を意のままに動かしています。
全国の守護に将軍の屋敷の造営費を負担させたり、諸侯に課す税金を倍増させるなど強引な政策を推し進めます。
強健的な政治を独断で進める斯波高経・・・
その勢いの前に、道誉も手を打てないでいました。

高経をどうする・・・??
権勢をふるう高経とどう向き合うべきなのか・・・??

1366年3月、道誉に一通の招待状が届きます。
送り主は斯波高経・・・高経は、公家や守護たちを将軍御所に招いて盛大な花見の宴をしようと企画・・・
斯波一族の権勢を世間に見せつけようとしたのです。
この時、道誉も花見に参加すると返答・・・
ところが、道誉は高経の思いもよらぬ行動に出るのです。
将軍御所から10キロほど離れた京都大原野・勝持寺・・・
ここで道誉は、高経主宰の宴と同じ日、かつてないほどの盛大な宴を開いたのです。

その様子が太平記に記されています。

”花見の宴は型破りの一言・・・
 道には毛氈を敷き詰め、寺の高欄には金箔を施しておりました
 背の高い桜の木の前に大きな真鍮の花瓶を置き、桜の木を生け花に見立てたとてつもないスケール感、
 さらには、巨大な高楼を用意し、大量の名香を一気にたかせこの世のものとは思えない香が漂ったと申します
 宴には、道誉殿が流行らせたというお茶や生け花も持ち込まれ、道誉殿の元には次々とお客様が訪れ等のでございました

一方、高経主宰の花見には、人は集まらず、将軍の屋敷で宴を開いた高経の面目は丸つぶれとなったのです”

その腹いせに、高経は後日、道誉の仕事の不手際を攻め、摂津守護職を召し上げています。
高経は、道誉の挑発に乗ってしまったのです。
すると道誉は、主だった守護を味方に率いて、
「この管領、天下の政務に叶うまじ!!」
仕事に史上を挟む高経のような人物は天下の政など到底担えないなどと、義詮に進言。
将軍・義詮は、高経を京都から追放します。
道誉は、高経を排除することを決断したのです。
道誉は、義詮、義満にも仕え、幕府の重鎮であり続けます。

道誉が本拠地とした滋賀県甲良町・・・言い伝えでは、道誉は一帯の荒れ地を開墾、ため池を作り、河川の治水工事に力を注ぎ、領民たちの暮らしと安全を守りました。
開拓された豊かな農地が、京都で活躍する為の財源となったといいます。

道誉の善政は長く伝えられ、戦国時代に織田信長が勝楽寺を焼き討ちした時には、道誉が設置した御本尊を領民が隠し守ったといいます。
道誉70歳・・・古希の祝いに描かれた肖像画・・・そこに、自筆でこんな言葉を残しています。

”浮き沈みの激しいいろいろなことがあった人生だった
 しかし、私は世間の噂など気にしない
 私のすることは、理解されなくていい”

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