戦争と若者と力石
戦争と青年団
昨年秋から続けてきた
「戦争と若者と力石」シリーズ、一旦、終わります。
ですが、このテーマはまた発信していきます。
日露戦争で亡くなった223名の若者たちの木像です。
常昌院(兵隊寺)=静岡県藤枝市岡部
力石という石のブログなのに、
なんで戦争のことを書くのかと思われた方もおいでかと思います。
今までも折に触れお伝えしてきましたが、今一度…。
力石は何の変哲もないただの石っころです。
地蔵さんみたいに目鼻がついているわけではありません。
のっぺらぼうの、丸い、ただ重いばかりの、本当にただの石です。
でもこの石、江戸時代から昭和初期頃まで、
全国の若者たちが一人前の男になる証しとして、
日夜懸命に担いだ石なのです。
しかし、時代が人力から動力へ、
そして娯楽の多様化などで戦後急速に廃れていきました。
そして今では人々からすっかり忘れられ、
神社の片隅や路傍や個人宅に放置されています。
ほとんどの人が、もう、「力石」という名前さえ知りません。
イチョウの巨木の根元に置かれた力石豊積神社=静岡市清水区由比
ここでは一人前の証しとして大太鼓を若者がたたく
「お太鼓祭り」が行われます。
そうした石を探し歩いているうちに、
かつて力比べに使ったこの石が、戦争とも関わっていたことを知りました。
氏神様の境内に集まって、
「この石を担げたら、徴兵検査で甲種合格間違いなし」と祈願しつつ、
懸命に石を担いだ若者たち。
戦争で真っ先に最前線に送られたのは、日頃、力仕事に従事したり、
重い力石を担げるような、そんな若者たちだったのではないでしょうか。
今もご自宅に力石を大切に持っている方が、ポツリとおっしゃいました。
「叔父さんはあの峠を越えて出征していったんだよ。
でも戻っては来なかったサ。
送り神峠っていうんだよ、あそこ」
出征する叔父さんを「送り神峠」で見送ったFさん宅の力石=富士市
東京へ調査に出かけた折り、力石が置いてある墓所を見ました。
いずれも、二十歳そこそこの若者のお墓でした。
こんな大きな石を担げたのですから、さぞ壮健な若者だったことでしょう。
若者が生前愛用した力石に文字を刻み、ここへ置いたのは、
きっとご両親だったに違いありません。
石を息子と思い、毎日、会いに来ていたのかもしれません。
力石は墓碑に寄り添うように、そっと置いてありました。
力石には、昔の若者たちの汗や涙、喜び、悲しみがいっぱい沁みこんでいます。
それだけではなく、
こんなふうに、戦争の影もしみ込んでいたのです。
好きな女の子に、力持ちであるのを見せたいがためにがんばった、
そんな微笑ましい思い出と共に、重い歴史も刻まれていたのです。
たかが石っころと思われようが、力石もまた、歴史の立派な証人。
それを石は無言のうちに私に教えてくれました。
「うぶどうなたの力石」 鹿児島県大島郡与論島の「よろんかるた」
そんなことを皆さまにも知っていただきたくて、
「戦争と若者と力石」を書きつづってまいりました。
歴史はくり返すといいます。
だからこそ、歴史から学ばなければいけないと、私は思います。
二度と戦場に若者たちを送ることのないように…。
次回からはまた、楽しい力石のお話です。
※画像提供/「よろんかるた」清野土平 「力石”ちからいし”」高島愼助
岩田書院 2011
「戦争と若者と力石」シリーズ、一旦、終わります。
ですが、このテーマはまた発信していきます。
日露戦争で亡くなった223名の若者たちの木像です。
常昌院(兵隊寺)=静岡県藤枝市岡部
力石という石のブログなのに、
なんで戦争のことを書くのかと思われた方もおいでかと思います。
今までも折に触れお伝えしてきましたが、今一度…。
力石は何の変哲もないただの石っころです。
地蔵さんみたいに目鼻がついているわけではありません。
のっぺらぼうの、丸い、ただ重いばかりの、本当にただの石です。
でもこの石、江戸時代から昭和初期頃まで、
全国の若者たちが一人前の男になる証しとして、
日夜懸命に担いだ石なのです。
しかし、時代が人力から動力へ、
そして娯楽の多様化などで戦後急速に廃れていきました。
そして今では人々からすっかり忘れられ、
神社の片隅や路傍や個人宅に放置されています。
ほとんどの人が、もう、「力石」という名前さえ知りません。
イチョウの巨木の根元に置かれた力石豊積神社=静岡市清水区由比
ここでは一人前の証しとして大太鼓を若者がたたく
「お太鼓祭り」が行われます。
そうした石を探し歩いているうちに、
かつて力比べに使ったこの石が、戦争とも関わっていたことを知りました。
氏神様の境内に集まって、
「この石を担げたら、徴兵検査で甲種合格間違いなし」と祈願しつつ、
懸命に石を担いだ若者たち。
戦争で真っ先に最前線に送られたのは、日頃、力仕事に従事したり、
重い力石を担げるような、そんな若者たちだったのではないでしょうか。
今もご自宅に力石を大切に持っている方が、ポツリとおっしゃいました。
「叔父さんはあの峠を越えて出征していったんだよ。
でも戻っては来なかったサ。
送り神峠っていうんだよ、あそこ」
出征する叔父さんを「送り神峠」で見送ったFさん宅の力石=富士市
東京へ調査に出かけた折り、力石が置いてある墓所を見ました。
いずれも、二十歳そこそこの若者のお墓でした。
こんな大きな石を担げたのですから、さぞ壮健な若者だったことでしょう。
若者が生前愛用した力石に文字を刻み、ここへ置いたのは、
きっとご両親だったに違いありません。
石を息子と思い、毎日、会いに来ていたのかもしれません。
力石は墓碑に寄り添うように、そっと置いてありました。
力石には、昔の若者たちの汗や涙、喜び、悲しみがいっぱい沁みこんでいます。
それだけではなく、
こんなふうに、戦争の影もしみ込んでいたのです。
好きな女の子に、力持ちであるのを見せたいがためにがんばった、
そんな微笑ましい思い出と共に、重い歴史も刻まれていたのです。
たかが石っころと思われようが、力石もまた、歴史の立派な証人。
それを石は無言のうちに私に教えてくれました。
「うぶどうなたの力石」 鹿児島県大島郡与論島の「よろんかるた」
そんなことを皆さまにも知っていただきたくて、
「戦争と若者と力石」を書きつづってまいりました。
歴史はくり返すといいます。
だからこそ、歴史から学ばなければいけないと、私は思います。
二度と戦場に若者たちを送ることのないように…。
次回からはまた、楽しい力石のお話です。
※画像提供/「よろんかるた」清野土平 「力石”ちからいし”」高島愼助
岩田書院 2011