治承四年九月二日、相模国の住人大庭三郎 景親《かげちか》が、 福原へ差し向けた早馬のもたらした報告は、新都を着々建設して、 平家独裁の政府を樹立し一門繁栄の夢をむさぼろうとした平家にとって、 驚くべき報告であった。 「さる八月十七日、伊豆国の流人前右兵衛佐頼朝、 舅《しゅうと》の北条四郎時政を味方に引き入れ、 伊豆国の目代《もくだい》和泉判官兼隆《いずみのはんがんかねたか》を 八牧《やまき》の館に夜討かけ討ち果しました。 その後、土肥《どひ》、土屋、岡崎などの兵、 合せて三百余騎と共に石橋山に立て籠りましたが、 景親、平家に心を寄せる味方一千余騎を引具して石橋山に押し寄せ 激しい攻撃を加えまし…