つちとりば。 大学病院ヨコ、金大医学部の敷地内です。 正面ショットがこんな感じで、柵が…残念。 このあたりの土を使い瓦を焼いたり、 土居や堤防としても使用したり。 土質がよかったのでしょうね。 【藩政前期から、このあたりの土を取って瓦を 焼いたところからこの名がついたといわれ、 また、土居や堤防を築くときにも使われたと いわれる。かつては土取場を冠する町が 三町あった】
嫁坂すぐ近くにある新坂。 嫁坂に比べると見通しが良く、とても道幅が 広く感じます。 車が通るから当たり前ですが^^; 平日昼間だったので、人影はまばら。 まちしるべに光が当たり、とてもいい感じに 輝いてました。 【加賀藩前期、嫁坂のあとにできたので この名がついた。昔は小立野新坂、 笠舞新坂とも呼ばれた】
とびうめちょう。以前の地名は石引、 2000年4月1日に町名復活しました。 辰巳用水と土塀、松の木が当時の景色を 残しているのでしょうか、見事です。 【前田対馬守長種にはじまる藩の老臣一万八千石 前田氏の下屋敷(家中町)があったところで、 同家の家紋「角の内梅輪」にちなみ、明治2年 この名がつけられた】
宝永2年5月9日。辰(午前7時)過ぎから文左衛門は源太左・瀬左・友弥・加兵・曽右とともに松軒屋敷へ出かけ、石曳きを見物する。それからいかつ(伊勝)山宗寿のところへ道中酒や食事をとりながら出かける。宗寿は外出中だったが、飯などを炊かせて休憩する。未半(午後2時)前、宗寿が帰ってきたので、また酒や食事を用意してもらう。とても楽しみ、戌(午後7時)頃に帰る。
二十人坂の名の由来は、二十人町と同じく 鉄砲足軽二十人が住んでいたから、のようです。 ゆっくり散策してみたいあたりです。 涼しくなったら^^;
このあたり、複雑に坂や橋が絡み合っています。 近くに二十人坂という名前もありますが、 名前の由来は同じような感じなのでしょうか。 【藩政のころ、鉄砲足軽二十人をこの地に 住まわせたことから、小立野二十人町、 小立野足軽町二十人町などと呼ばれた。 明治四年、付近の町を加えて二十人町となった】
大学病院前に広がる石引広見。 市内何ヶ所か広見がありますが、 ここが一番広いのでしょうね。 眺めが良くて気持ちいいです。 戸室石を金沢城へ運ぶ時、このあたりは 休憩場所だったのかな。 石引、まだまだ奥が深そうです。
長町でまいどさんにもらった古地図。 長町、東山、石引が載っています。 古地図で散策もおもしろそう。 確かアプリもあるようなので、散策はアプリで、 家でじっくりはこの地図がいいかな。
石引あたりをウロウロしていて見つけた果実! 大きさはグレープフルーツくらい、 ずっしりとした重量感の実がたわわに なっていました。 食べられるのか、どんな味がするのか、 そもそも名前は何なのか??
がめざか、です。 今にも雨が降り出しそうで、 傘を持ってなかったのでまちしるべの写真だけ 撮って退散。 坂を堪能するのはまたあとで、です。 「弁当忘れても傘忘れるな」肝に銘じます。 【加賀藩初期、この付近は深い谷であったが 戸室石をはこぶため埋めて、次第に坂の勾配を ゆるくした。 がめ坂の名の由来は明らかでない】 一番気になるのは、名前の由来です。 なぜ、がめざか?