今回は、2024年12月14日 (土) ~ 2025年2月16日 (日) の期間で開催されています。
国宝松本城の天守や石垣に、幻想的なプロジェクションマッピング映像が投影されます。
開催期間は3つに分けられ、歴史絵巻、伝統文化などそれぞれ異なるテーマが設けられます。
鑑賞に出掛けた12月29日は第1期で、テーマは「躍動する歴史絵巻」。
葛飾北斎や歌川広重による信州ゆかりの浮世絵や豪壮な天守を築いた松本城主・石川数正が描かれた屏風絵が立体的に躍動するデジタルアニメーションです。
先端技術を駆使し、天守でのプロジェクションマッピングとレーザーマッピングを融合させた迫力のある光のアートを体験できます。
動画を作成してみました。こちらもどうぞご覧ください!
松本城公園内には四角灯篭がいくつも並べられていました。
そこには歴代松本城主の家紋が描かれていました。
今回は、松本城の歴代城主を中心に、その歴史を振り返ってみようと思います。
松本城の前身は、1504年に築城された深志城だとされています。
信濃守護・小笠原貞朝 (おがさわらさだとも) が、一族の家臣・島立貞永 (しまだてさだなが) に命じて築城させたとされています。
戦国時代に武田信玄が、当時の深志城主だった小笠原長時 (おがさわらながとき) を追放して入城し、北信濃へ侵攻の拠点としました。その後、約32年間武田氏が統治しました。
1582年、武田氏は織田信長によって滅ぼされます。
そして、かつての城主の小笠原長時の弟・小笠原洞雪 (おがさわらどうせつ) が深志城に入城します。
その後、長時の長男で武田信玄に追放されていた小笠原貞慶 (おがさわらさだよし) が、徳川家康や旧臣の支援を受けて深志城を奪還し、深志城から松本城と改名しました。
そして、城と城下町の整備に取り掛かりました。
1590年、小笠原貞慶とその子・小笠原秀政 (おがさわらひでまさ) は、豊臣秀吉の小田原攻めで軍功を挙げ、讃岐国 (さぬきのくに) に領地を賜ります。
しかし、貞慶は、豊臣秀吉に追放されていた尾藤知宣 (びとうとものぶ) を保護したことで秀吉の怒りを買い、松本城下を含む領地をすべて没収されてしまいました。
1590年、徳川家康の家臣・石川数正 (いしかわかずまさ) が入城します。
石川数正は古くから徳川家康に仕え、三方ヶ原の戦い (みかたがはらのたたかい) や長篠の戦い (ながしののたたかい) など、数々の戦いで武功を挙げました。
しかし、1585年、突如として数正は徳川家を出奔 (しゅっぽん:逃げ出すこと) し、豊臣秀吉に臣従 (しんじゅう) します。
豊臣秀吉にとって松本城は、江戸の徳川家康を見張るための重要な城でした。
秀吉は、松本城主であった小笠原貞慶の領地を取り上げると、腹心の家臣・石川数正を新たな城主に任じたのです。
石川数正は、貞慶が始めた城郭整備をさらに進め、家督を継いだ数正の長男・石川康長 (いしかわやすなが) の時代に天守が完成しました。
康長は、天守、乾小天守 (いぬいこてんしゅ)、渡櫓 (わたりやぐら) 天守3棟をはじめ、御殿や門、櫓 (やぐら)、堀などを建設し、松本城の基礎を築きました。
現在、私たちが知る国宝松本城は、この時期に整備されたものです。
江戸時代に入ると、石川康長が城主の座を奪われ、小笠原氏が入城。その後、戸田氏、松平氏、堀田氏、水野氏が城主となり、城郭や城下町を整備します。
石川数正が入城してから、1867年 (慶応3年) に「大政奉還 (たいせいほうかん) ※ 」が行われるまで、松本城の城主は6家が続きました。
徳川将軍家と深いつながりを持った家々が城主となっています。
最後の城主となった戸田氏は約145年間の長きにわたって城主を務めました。
石川氏 (1590年~1613年)
小笠原氏 (1613年~1617年)
戸田氏 (1617年~1633年)
松平氏 (1633年~1638年)
堀田氏 (1638年~1642年)
水野氏 (1642年~1725年)
※戸田氏 (1726年~1868年)
松本城の歴代城主の家紋は次の通りです。
石川氏 「笹竜胆 (ささりんどう)」
小笠原氏「三階菱 (さんがいびし)」
戸田氏 「はなれ六星 (はなれむつぼし)」
松平氏 「丸に三つ葉葵 (まるにみつばあおい)」
堀田氏 「黒餅竪木爪 (くろもちたてもっこう)」
水野氏 「丸に花沢潟 (まるにはなおもだか)」