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「時には魔帝と」「時には野望児と」「時には妖僧と」…という具合に全十章の章立てに沿って、「ばさら大名」こと佐々木道誉(どうよ)が南北朝の混乱期をひらりひらりと生き抜いてゆく。
南北朝時代といえば、一三三三年の鎌倉幕府滅亡から室町幕府による全国統一までの約六十年間を指す。この間、皇統は後醍醐天皇の南朝と光明天皇の北朝とに分かれ、複雑な政治抗争、数々の合戦が巻き起こったが、北朝を擁する足利尊氏の室町幕府の側に次第に政権が収斂されていき、南北合一が果たされることになる。いわゆる『太平記』に描かれる軍記絵巻でお馴染みの時代である。
そこはしかし、御馴染みとは云いつつも山田風太郎氏の書く小説であるから一筋縄ではいかない。魔帝・野望児・妖僧・神将・人獣…と、混乱の極みを見せる日の本六十余州において、佐々木道誉が巡り会う人々の誰も彼もが、規格外の妖しさや非道さ、支配欲、権力欲を有する者たちなのである。
権力のありどころとバランスは年々刻々変転する。南朝の後醍醐帝は、武士の台頭する世になって久しい十四世紀の時代を天皇親政・皇統支配の昔に返そうと企図し、鎌倉幕府を打倒、建武の新政を開始する。足利尊氏は鎌倉幕府方でありながら、後醍醐帝側に寝返り、六波羅探題を解体、北条氏も六波羅探題と共に滅亡させる。しかし、天皇が政治を執り行う建武の新政に失望した彼は、あらたに光明天皇という傀儡天皇を擁立し、北朝を奉じる。後醍醐帝は吉野に追いやられ、捲土重来を期することに。そして事実上、日の本六十余州の支配者となった尊氏のもとで、今度は尊氏の家臣である高師直(こうのもろなお)・高師泰(こうのもろやす)兄弟が京洛に幅を利かせ、豪奢な邸宅に無理やり奪ってきた貴族の姫君たちを住まわせ、悪逆の限りを尽くす。その高兄弟は尊氏の弟・足利直義(ただよし)と対立を深め、高兄弟は権力の中枢から追い落とされるのだ。南朝・北朝のせめぎあいは、実のところ、南朝と足利政権の対立であり、その情勢の中で足利政権内部でも権力闘争が頻発している。最終的には足利尊氏・直義兄弟までもが相争い、兄の尊氏が弟の直義を滅ぼすに至る。
では、最後まで南朝の後醍醐帝について戦っていた楠正成とその一族郎党が、背反と下剋上が常となっている国情の中で、烈忠の臣という名にふさわしい働きを為したことについてはどうか。異形の人間達がうごめく南北朝にあって、南朝の為に変わらぬ忠誠を誓い続け、戦い続けた楠正成もまた、一種異様な執念を燃やす人外の神将のように描かれている。山田風太郎氏は楠正成をして佐々木道誉に対し、このように言わしめている。
「正成は、たとえみかどが天魔鬼神でおわそうと、必ずお護りして死ぬものと覚悟を決めておるものです。……私は決してマトモな男ではありませんぞ」
正成の眼の奥底からも、狂気の青い光が浮かび上がって来る。
面白いことに佐々木道誉は、この血で血を洗う動乱期を不思議なほど軽妙に渡り歩いている。彼は自らを「ばさら」をもって任じ、連歌・立花・香道・茶をよくし、申楽(さるがく)を保護し、女を愛した。この作品の中の彼は、自分の「ばさら」としての生き方を���くためには、日本が統一されず、混沌とした状況下にあるのが最もふさわしいと考える。政治権力がどこかの一点に集約され、日本の国情が安定を見れば、自分のような勝手気ままで自由奔放な伊達者は、いずれ頭を押さえつけられる形になるからである。旨いものを喰い、自由に幾人もの女を抱き、華美で奢侈な衣類を身に纏い、芸術を愛好し、申楽や白拍子など道々の者と交流する為には、権力というものが絶えず流転し、他の競争者達がそれをわき目も振らずに追いかけている状況が望ましかったのだ。よって、南北朝の混乱期は彼にとってはむしろ、自分の主義を表現しやすい、生きやすい時代であったのかもしれない。ゆえに物語の最後の最後、足利尊氏の孫・足利義満によって天下が再び太平の世を迎えた時、佐々木道誉は、少年将軍・義満が後に世阿弥となる究極の美童にして天才申楽師・鬼夜叉と共に舞を舞うさなか、ついにどうとばかりに倒れ、この世に別れを告げることになるのである。
実はこの将軍義満、天皇親政の世を目指したまま無念のうちに没した後醍醐帝の魂魄がのり移った存在なのだが、この世のものとは思えないほどの美しさを持つ鬼夜叉を召し、道誉の眼前、舞の所作の中でこの鬼夜叉と媾合を行って見せるのである。道誉もまた、この鬼夜叉という美しい少年申楽師を愛で、自邸に何度か招いたことがある。ただ、道誉はこの鬼夜叉を一個の芸術美、芸術の結晶と見て、けっして性愛の対象とはしなかったのだ。だが、ここにきてその鬼夜叉は将軍義満によって、はかなくも花を散らされ、蹂躙されたのである。これはいうなれば、道誉が志向した「ばさら」における美への蹂躙であった。彼が生涯貫き通した「ばさら」的生き方、美的生き方の全否定であった。
「あっぱれでござる!将軍家こそ、いやはや日本一の大婆沙羅、道誉、これにて……」
もはや、彼の生きる舞台は将軍義満の出現と共に失われてしまったのであった。
山田風太郎氏が南北朝時代を作品化するにあたって、そこに登場する後醍醐帝や足利尊氏・直義兄弟、高師直・師泰兄弟、僧・文観、楠正成一党ら、あらゆる人物をおどろおどろしたエネルギーを持つキャラクターに仕立てたことには、なにかワケがあるような気がする。その疑問を解決するのに、同氏が太平洋戦争を経験した世代であることを考慮に入れるのもいいかもしれない。
氏は東京医科大学在学中の一九四七年に推理小説『達磨峠の事件』で作家デビューを果たす人だが、かれの十九歳から二十三歳までの時期が戦時中に当たっている。学生として色々なことを学び吸収する時期に、彼はあの酷い戦争を経験しているわけである。戦争という地獄は、氏に人間の残虐性や獰猛性、あるいは嗜虐性といったものまでも見せつけたであろうし、また権力への妄執や、権謀術数によって浮沈をとめどなく繰り返す支配者層の愚かさをもまざまざと露呈したであろう。人というものは、ひとたび足を踏み外せば、即座に魔界の住人となりうるということを、氏は身をもって体験したのではないだろうか。彼が描く歴史小説がどろどろとした魔界の如き世界であるのは、その裏で、この世の現実そのものが魔界と隣り合わせであることを示唆するものだからだと私は思う。ここまで考えると、楠正成の��正成は、たとえみかどが天魔鬼神でおわそうと、必ずお護りして死ぬものと覚悟を決めておるものです。……私は決してマトモな男ではありませんぞ」という言葉も、お国の為にと狂信に近い愛国精神を抱いて、あたら若い命を散らせた軍人・兵士たちの姿に重なるような気さえするのである。
佐々木道誉は言う。
「どうも私には、あのみかどが、みかどとして出現なされて以来、人間界の魔棺をあけられて、そこからおびただしい婆沙羅の星がいっせいにこの地上に飛び出してきたような気がするが、ここにおわす方々もみなまた然り―――」
その魔棺の蓋は、いまだ閉じられてはいないのだろう―――。
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「バサラ大名、佐々木道誉」
絢爛妖美の時代絵巻。
時代小説ではあるが、
すらすらと読める。
室町に生きる彼らを、
だれが救ってくれようか。
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山田風太郎の忍者物は猥雑さを含む破天荒娯楽作品になると思うが、ほのぼの好みの私にっとっては一時的ブーム物というイメージ。それでも、結構読んだかも(笑)
個人的には評価出来ない作家も、一部で絶賛されてる場合がある。大藪晴彦なんて、天才とか・・理解出来ず(^^;)・・・山田風太郎も忍者物以外でいい作品があるらしく、期待したが・・太平記はちょっと・・わりと面白かったが、平面的なイメージ。好みなんだろうなぁ~
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鎌倉末期から室町時代までを生きた、佐々木道誉(ささき どうよ)を描く。
1319年〜1367年を扱う「太平記」は、まさにこの時代、リアルタイムで書き続けられており、この作品は山田風太郎世界が全開の「魔界太平記」とも言えようか。
将軍方(北朝)対、天皇方(南朝)の南北朝が60年にも渡る争いを繰り返し、戦国の世に匹敵する、あるいはそれ以上に天下は乱れて、民衆を苦しめた。
登場人物全てがあちらこちらと手を組み、寝返り、入り乱れること、作者自身も「筆舌に尽くしがたい」と描写するくらいややこしい。
全ての事件に道誉が何らかの形で関わっており、彼が時代を動かしているような錯覚さえ抱く。
しかし、道誉は派手に立ち回って注目を浴びながらも、政治的には影に徹し、顔の広さを生かしては敏腕ネゴシエイターとなり、時には自ら毒を盛った。
道誉は乱世が好きである。乱世の中でこそ存分に婆沙羅を楽しみ、彼は輝いた。
いちおうの立場を足利方に置くが、後醍醐天皇の魔帝ぶりにも魅入られる。
彼を動かすのは彼自身の美意識である。
武士として出陣する一方で、芸能や美食を愛し、公卿とも親交を深めて優雅で煌びやかな雰囲気をまとうその姿は、泥臭い坂東武者たちとは一線を画す。
幕切れは鮮やかで、夢幻の芝居を見ているよう。
足利家は三代義満の世になった、また新しい文化が花ひらくであろう。
「時には魔帝と」
「時には野望児と」
「時には妖僧と」
「時には神将と」
「時には人獣と」
「時には隠者(いんじゃ)と」
「時には狼群と」
「時には鬼魁(きかい)と」
「時には大将軍と」
「最後に魔童子と」