コンラッドの魂の旅の記録だ。
2009/06/11 19:57
8人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:野棘かな - この投稿者のレビュー一覧を見る
極限状態に置かれた続けた人間の精神はどのようになるか。
海外に行くと文化や生活環境の違いは大変よねなんて悠長なレベルではない。
未開の土地に分け入る、未知の土地を船は進む。
山頭火の「分け入つても分け入つても青い山」を思い出し真似をして
「分け入っても分け入ってもそこは闇」だったなんて言ってみたりする。
現代におけるゲーム「クルツを追いかけて」をクリアするかのように足跡をたどり執念深く追い続けるマーロウ。
しかし、出会えたクルツは、終わりのない絶望と恐怖と物欲という亡霊に見入られ、精神のバランスを失い自身魔物と化していた。
人間としての尊厳を失い、象牙という物質にフォーカスし、強欲な魔物クルツはすでに自分を地獄に落としこんでいたのだ。
※「この世界における己の魂の冒険に、すでに自から審判をくだしてしまっているこの非凡人の傍へ、もう僕は行く気がなかった」
訳者中野氏のコンラッド小伝より
1957年にポーランドで生まれ、由緒ある家柄で、父はシェイクスピアをはじめ英仏文学のポーランド訳書などを相当にだしていたそうで、生活もむしろ貴族的だった。
ところが、ポーランド分割など混乱の中、父親は北ロシアに流刑となり、両親に伴われ北ロシアに強制移住させられたのはコンラッドが5歳の時だった。
なれない生活で両親は相次いで亡くなり、1969年コンラッドは孤児になった。
幸い母方の叔父という人に引き取られたが、17歳の時、にわかに大学進学をやめて、自ら進んでフランス船の船員になった。
それから、イギリス船に乗ったことで、イギリスに上陸し、英語に接し英語を学び、以後、イギリス船員として地位もあがり、ついには船長にもなる。
1894年まで、37歳にまで16年にわたる海上生活がつづき、東洋の海峡植民地から、遠くはオーストラリアまで足跡はのび、またその間にアフリカの奥地コンゴー河の上流まで行っている。
1886年に帰化手続きをとって、イギリス国籍をとる。
イギリスでは「ポーランドから流れてきた」という表現がある。
チッという舌打ちをするような息の入った拗音付きのあまりいい感じではないニュアンスで言われていたと記憶する。
ポーランド生まれのイギリス人、それも英語で小説を書くまでになったコンラッドだが、そこまでの道程の大変さは想像に難くない。
この本を読み始めてすぐにコンラッドの真意がわかったような気がした。
これはコンラッド私小説であり、彼の心の記録だと感じだ。
この「闇の奥」を書くことで、浄化されたコンラッドは、そののちは本当の意味での安定した作家人生を送ることができたと。
海上生活の終わりごろから、創作欲の動きに驚かされるようになったというが
それは、自身の船員としての存在の耐えられない軽さに辟易し、DNAに刻まれた記憶通りに、書くことに目覚めていったのだと私は思う。
本当の自分に気がつき、これこそ自分の存在の軽さ(重さ)を確認する手段だと作家への道をまっすぐに迷うことなく進み始めたコンラッド。
若いうちはいろいろなものをみてさまざまな体験をすることが必要だと本の中でも話している通り、それを体現し、大人の男としての進化の道筋、大人の男になるための道程、男としての魂の成長を続けたコンラッド。
そして、船をおりるとそれまでの見聞や体験をもとに、本当の自分の望む道を歩き始める。作家への道、それも、彼の魂の旅なのだから、終わりのない旅だ。
意外に、思ったよりすんなりと読めたが、やはり様々な想像や妄想を掻き立てるコンラッドのフレーズに少し疲れたみたいだ。
このあたりでコンラッドとの戦いを一時休止としたいのでこの書評を書いた。
しかしながら、もう次に読みたいコンラッドの本は決まっている。
だって、私は大人の男コンラッドに憧れているから。
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わたしはこれが好きだ・・・とか、こういう傾向のものが・・・というのが「わたし」を知らない人にとって何の意味があるというのか。かといって、誰か有名な誰かが何かを言ったとか引用する気はさらさらにない。書評なんて自己矛盾的に、永久機関が動くはずがないようにそこに無駄にあるだけだろう。私はそういうわけで直感しか信じないが、一生の何処まで「気」が殺がれずにあるかワカラナイのでなるべくいいものに出会いたいなと儚い希望は捨てないで行こうと思っている。コンラッドと共に行けた闇の奥は運のいい場所であった。
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居場所を喪失した上流貴族の、植民地主義を利用した自己優位権力確認のハナシ。西洋近代的理想自我を自明として完全知に魅せられ、おそらくはそれに駆り立てられ、未知=「闇」を支配しようとしてコンゴ奥地に入り込むが、その自明の存立基盤すら成り立たない「未開」の「闇」に飲み込まれたまま、ひたすら己の超越力と意志の悪夢にしがみついて、じっと死を待っている畏怖。
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やっぱりヴィクトリア文学の妙なエンタメ性は好かないなぁと思います。
人種差別的とかポストコロニアルの幕開けとかそういう瑣末な後付はまぁいい、でもこの本に描かれる闇とは端的に言ってしまえば、
特異な環境におかれた人間が容易に変わってしまうってこと。
なんとなく、想起するものが俗っぽいけど、
カイジとかSAWとか、そういうものと、重奏低音は同じな気がする。
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闇は反転して、光と思われていた西欧文明がその奥に立ち現れて来る。闇の奥とは暗黒大陸アフリカのことではなく、西欧植民地主義なのだ。マーロウの地獄巡りとクルツの死のメタファーが面白い。コッポラによって換骨奪胎され「地獄の黙示録」となった。
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「羊をめぐる冒険」が「地獄の黙示録」をベースに書かれたとされ、「地獄の黙示録」はこの「闇の奥」を基にして制作さられたといわれます。それを知った上で、もう一度「羊〜」を読むと、主人公が「闇の奥」を読むシーンが描かれていることに気が付きます。
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「英語で書かれた20世紀のベスト100」に選出されているそうだけど、
これを★4とか5に評価したら
それは見栄を張ることになってしまうので正直に★3。
『地獄の黙示録』がこれを元に作られたとは知らなかった。
なるほど。
さらに『羊をめぐる冒険』が『地獄の黙示録』をもとに書かれ
中に『闇の奥』が出てくるって?
ふーむ。
読んでいて気持ちが暗くなる。
コンラッドの実体験を元にしたと言うのだからなおさらである。
舞台は植民地時代だが、
登場する白人達と今の自分たちには
もしかしたら大きな違いはないのかもしれない。
ちゃんと理解しているか自信は全くないのだけど、
暫くつきあわねばならない本なので、
再読を試みたい。
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19世紀,諸西洋籍の船舶(作品ではフランス)が“未開の地”アフリカへ渡り起こった『象牙』に纏わる出来事たち.
教科書に載った「事実」とは別の観点から眺めることで,当世の彼ら西洋人の高慢,貪婪,凶暴,盲目さが何より現実味を帯びて感じられる.
語り部のマーロウの口上は情緒に溢れ,一人の人間の感情と自意識が鮮やかに伝わってくる.彼の言動,苦悩は――私たちにはまず経験しえない,世にも哀しい侵略に向かう船上での物語だとしても――純然たる現実として,感情の深淵に強く訴えかけてくる.その愚かな高慢さまでも,我々に共感を呼ぶ不思議.
つまり私たちは誰でもマーロウになりうる.アフリカという原始の闇の世界,そして,人心の奥底に潜む闇は,21世紀の我々に対しても強い共感と教訓を投げかけてやまない.
どう見ても誤訳な瞬間も見受けられるが,訳者あとがきの腰の低さには噴く.
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レポートのために読んだ本。オリエンタリズムやポストコロニアリズムの文脈で語られるけれど、思ったよりも直接的な批判ってしてないのね。アフリカの人達を土人とか言ってるし。
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舞台は1890年代のアフリカ。
船乗りマーロウはアフリカ奥地に出張所を持つイギリスの貿易会社に就職する。
最奥部の出張所を預かる、腕ききの象牙採集人クルツが病に伏しているという噂が流れ、マーロウはクルツの迎えに赴く…。
この小説はアフリカから戻ったマーロウが仲間の船乗りである「私」に語ってきかせる、というかたちで進められる。
クルツの存在も常に伝聞・噂のかたちを取ってあらわれる。
人から人へ語り伝えられ、そのイメージはふくらみ、ゆがみながら変化していく。
クルツの言葉はマーロウによる翻訳と解釈を経て読者に届く。
クルツ自身は切れ切れのイメージを作品の各部に浮遊させながらも、自身は空白、意味づけのできないものとしてテクストの「闇」の部分を担っているのではないか。
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全体としては曖昧模糊とした印象が拭いきれない。
それは独白の形で伝えられるエピソードが、きちんと話の流れに沿っているようで突如として挟まれる挿話のために、理路整然と物語を構築することを妨げているからのように思うのだけれども、それがこの小説の妙な味になっている。はっきりと確実なことは独白者の経験として語られるだけで、最重要人物であり、おそらく飛んでもない人物でもあるクルツの話は、伝聞の形でしか語られない。
だが、クルツの最期の言葉が妙に印象的に感じられるのも、こうした手法を採ったからだろう。
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「闇」は結局アフリカに限らず、どこにでもあるものだが、その「奥」まで見て来たことがあるような人間は一握りしかいないのだろう。
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かなり乱暴にまとめると「ある船乗りのアフリカ思い出話」になると思うのですが、読後には重苦しさと、言葉にできない感情が残りました。それを無理矢理文章にするとしたら、的外れかもしれませんが今のところ「人間とは本来、自然の一部であったのに、いつしか文明や経済という実体のない物に支配され不自然な存在となってしまった。かといって原始的な生活は、今の人類には恐怖や荒廃という闇でしかなく、狂気である。もう戻ることはできない」という文明批判と焦燥でしょうか。この作品は、時間を置いて再読する必要があると感じました。
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F・コッポラの映画の原作として興味を持ち、オーソン・ウェルズも映画化を企画していたと知り手に取った。
人物・言葉・風景、どれも霧がかかったように曖昧としており、読後には何とも言えないもやもやが残る。
誰もが一目を置いた男クルツは未開の密林の奥に踏み込み、その闇にのまれた。
彼の考えも、彼の言葉も、私にはいまいち読み切れなかった。ふと霧が晴れたようにクルツの輪郭が感じられる場面もあった。もう一度読み直せば更に鮮明になるかもしれないと思う一方で、闇の中ではっきり見える事はない。何度読んでも変わらない。そうも感じた。
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難解だった・・・。そもそもおれの読解力が稚拙なんだけど、テーマが抽象的なうえ翻訳のむずかしさも手伝って、ぜんぜんわからんかったです。
再読しなくちゃいけないとおもうけれど、とりあえず、今回の読書では「孤独」の重さを感じた。
自然、自然であること(おのずからしかるべく)は、少なくとも現代社会をいきる人にとっては、とてつもなく「孤独なもの=不明なもの、闇」であって、その闇は未開の自然の象徴であるアフリカの奥地だけでなく、ひとのなかにもある。
ホルクハイマー=アドルノらがいう「理性による同一化作用」と親和性がある気がしたんだが、そうすると、人は孤独=闇をもとめているということでもあるのかね。
やっぱよく分からん。もう一回よむ!