ゼロ年代のサブカル
2013/02/04 18:23
3人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:わびすけ - この投稿者のレビュー一覧を見る
サブカル批評の21世紀初頭における水準点だと思う。浅田彰などの人を煙に巻く難解な用語もないし、平易にすぎる気もしないでもないが、最近のユリイカで満足できない人向けだと思う。
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2011 9/13読了。WonderGooで購入。
一時なにかと話題になっていた宇野常寛の批評本。SFマガジンに連載されていたものが、文庫化されていたのを見かけて購入。
っていうかなんで文フリに出入りしてしかも主に批評本買ったり読んだりしてたのに自分はこれを読まずにいたのかっていうね。
当時から話題になってたけど扱う作品のジャンルが広い+口が悪いけど言いたいことがはっきりしていてざくざく書いてるのが面白かった(たまに表現重複してくどく感じたけど)。
とりあえず『池袋ウェストゲートパーク』を読もうと思ったり。
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ここ最近の社会の流れがクリアになる著書。自分自身の立ち位置を自覚できたりもしたり。文庫版がでた今こそ読むべき。
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第1章「問題設定」
碇シンジでは夜神月を止められない。2001年の「9.11と小泉改革」以降、世界はバトルロワイヤルの時代に突入した。90年代の「引きこもり」思想への反省から生まれたゼロ年代の「決断主義」を克服するためにはどうすればいいのか。
第2章「データベースの生む排除型社会」
歴史や国家という大きな物語が消滅し、情報の海であるデータベースから各人が好きな情報を読み込んで「小さな物語」を生成する時代。小さな物語は究極的には無根拠である。それゆえに自分たちの正当性と棲み分けを守るために他の物語を排撃する。
「『あの人は~だ』と人物像を抱くとき、それ(キャラクター)は特定のコミュニティ(小さな物語を規定する共同性)の文脈によって決定された位置のことに他ならない。(中略)キャラクターとは、小さな物語(人間関係)の中で与えられた位置=役割のようなものにすぎない」
「あなたの自己像=キャラクターが成立するためには、それを承認してくれる物語=共同体が必要なのだ。」
第3章「『引きこもり/心理主義』の90年代」
バブル経済の崩壊と冷戦終結によって「モノはあっても物語のない」世界に対する絶望が生まれた。世界がつまらないとき、世界ではなく自分の心を変えることでやりすごすという「引きこもり/心理主義」的傾向が90年代後半に拡大していった。
第4章「『95年の思想』をめぐって」
人は「物語」(意味)から逃れられない。物語のない時代に物語を与えようとしたのがオウムだった。オウムを克服するために様々な思想が提出された。しかしそれらは早急な物語を求める人々には受け入れられず、時代の流れに敗北した。
「『セカイ系』とは『結末でアスカに振られないエヴァ』である。凡庸な主人公に無条件でイノセントな愛情を捧げる少女(世界の運命を背負っている)がいて、彼女は世界の存在と引き換えに主人公への愛を貫く。主人公は少女=世界によって承認され、その自己愛が全肯定される」
第5章「戦わなければ、生き残れない」
小さな物語が乱立する世界では自分たちが信じる物語も他の共同体から見れば発泡スチロールのシヴァ神に過ぎない。自分たちのシヴァ神の真正さを証明するために他の物語たちとのバトルロワイヤルに強制的に参加させられるのがゼロ年代という社会。
第6章「私たちは今、どこにいるのか」
95年から00年までが大きな物語の失効という社会の変化に怯えていた引きこもりの時代であり、01年以降はその後に乱立した小さな社会同士が衝突しあう時代となった。このバトルロワイヤルを克服する方法を模索しなければならない。
第7章「宮藤官九郎はなぜ『地名』にこだわるのか」
「郊外に生きる僕らには物語がない(誰も与えてくれない)」という絶望に対し、『木更津キャッツアイ』は「日常の中の豊かさをめいっぱい満喫する」ことで、郊外的な中間共同体での物語を可能性に溢れた世界へと変貌させた。
第8章「ふたつの『野ブタ。』のあいだで」
決断主義を体現する原作版『野ブタ。』にドラマ版『野ブタ。』は日常の中の小さな物語という回路で���峙した。ドラマ版の修二は彰や信子との関係から、ゲームに勝利するだけでは獲得できない「入れ替え不可能なもの」があることを知る。
「木皿泉がこのドラマ化にあたって課せられた使命は、原作小説では終わりのないバトルロワイヤルの中でやがて擦り切れて、惨めに敗北しながらもゲームを離脱することのできない器用貧乏な少年を救うことだ」
木皿泉がもうひとりの修二に与えた可能性は、ゲームに勝利するのではなく、無数に乱立するゲームをその下部で支えるものに目を向けること。ドラマ版では、ゲームの勝利では購えない(有限であり、入れ替え不可能な)関係性の共同体を獲得するという可能性が提示されている。
第9章「解体者としてのよしながふみ」
生きる意味が見出だせない時代だからこそ人々は誰かを所有し、同一化することで超越したものを手に入れようとする。そのような呪縛によしながふみは『西洋骨董洋菓子店』において友人でも仕事仲間でもないゆるやかなつながりによる日常を提示する。
第10章「肥大する母性のディストピア」
「高橋留美子作品の根底に流れるのは、凶暴なまでに肥大した母性である。まるで『私の胎内から出て行かないで』とでも言うように、ヒロインがその母性を拡大させて欲望の対象となる男性を、ふたりの物語を盛り上げる共同体ごと飲み込んでしまう」
「当初浪人生として登場した五代青年は大学に進学し、就職して響子に相応しい男になるべく努力する。ここで注目すべきは、本作における五代青年の成長とはあくまで『響子を幸せにする』ことに自己実現の回路を限定していく過程として描かれることだ」
「当初はモラトリアムの象徴として登場したはずのアパート(一刻館)に『成熟』を経ても半永久的に住み続けるという結末は、男性の自己実現の回路が女性のテリトリー(胎内)から一歩もはみ出ない範囲で完結することを意味する」
第11章「『成熟』をめぐって」
従来の社会像が崩壊し、生きる意味や価値観を社会や歴史が提供できない世界では「成熟」は原理的に存在できない。「新教養主義」は特定の価値観を示すのではなく、子供たちが様々なコンテンツに触れて試行錯誤できる環境を整備することを目指す。
第12章「仮面ライダーにとって『変身』とは何か」
疎外感の暗喩でありエゴの強化であった「変身」は平成仮面ライダーシリーズにおいて入れ換え可能なものとして描かれ、『電王』ではコミュニケーションの手段となった。もはや精神的外傷はその人物のアイデンティティとはなり得ない。
第13章「昭和ノスタルジアとレイプ・ファンタジー」
昭和ノスタルジー作品の「当時の負の面も分かっている、それでもあの頃は良かった」という態度は「安全に痛い自己反省」に過ぎない。それはセカイ系作品が少女への暴力を反省しつつもその行為自体を否定しないことと同じ構造を持つ。
第14章「『青春』はどこに存在するか」
「矢口史靖作品はなぜ、青春映画の新しいスタンダードになり得たのか。(略)矢口的『青春』像には特別な『意味』が求められない。ただ、つながり、楽しむだけでいい―そんな端的な祝福が世界を彩るのだ」
「ハルヒが求めているのは実のところ、日常に内在するロマンである」「物語の中でハルヒは少しずつ気づきはじめている。草野球や夏合宿や文化祭のステージが、未来人や宇宙人や超能力者との出会いと同じぐらい、いや、それ以上に自分にとって素晴らしいものであるということを」
第15章「脱『キャラクター』論」
ケータイ小説はプロット(物語のあらすじ)が肥大した小説。物語は説明と会話によって進行する。余計なものを後景化することで物語自体が純化されている。登場人物は劇中の「~する/~した」という行為によって、その位置=アイデンティティを獲得する。
「文体、つまり文章『表現』の生む空間によって強度を生んでいる一部の純文学や、劇中に登場するキャラクターを消費者に所有させることで強度を獲得する小説=ライトノベルとは違い、ケータイ小説は物語そのものが、余計なものを後景化することで純化されている」
「比喩的に述べれば現実のコミュニケーションはライトノベルではなくケータイ小説的に決定される。たとえ個人が自身にどのような自己像を抱いていようが、周囲からはあくまで彼/彼女が取ったコミュニケーションによって人物像が評価・決定される」
「あなたがそのコミュニティで低位に置かれるのは、あなたが『そんな人間』だから、ではない。あなたがそのコミュニティの人間関係において、相対的に不利な位置=キャラクターを政治的に与えられているからだ」
「あなたが自身の思い浮かべる『こんな私』という自己像を誰かに承認してもらおうとしている限り、そしてそんな人間関係こそあるべき姿と考えている限り、おそらくあなたはどこへ行っても変わらない」
「しかし共同体における位置=キャラクターが、特定の共同性=小さな物語の中で与えられた位置のようなものにすぎないと正確に把握し、その書き換え可能性に挑めばそのかぎりではない」
第16章「時代を祝福/葬送するために」
現代における成熟とは自分とは異なる誰かに手を伸ばすこと。ひとつの物語=共同性への依存から、複数の物語に接続可能な開かれたコミュニケーションへ。超越性は世界や時代から与えられるのではなく、日常の中から自分の力で掴み取るもの。
『ラスト・フレンズ』の宗佑は社会的・精神的弱者である美知留の「父になること」を願う。しかし宗佑の共依存関係へのロマンティシズム(セカイ系=決断主義)は彼の無自覚な暴力性によって破綻を迎える。傷付いた美知留を受け入れるのはシェアハウスでのゆるやかな共同体だった。
「純愛という名の共依存的ロマンティシズムによって幕を開けた(略)ゼロ年代という時代は『恋愛』から『友情』へ、『あなただけ』から『みんな』へ、少しずつ、しかし確実に共依存的ロマンティシズムが孕む決断主義的な暴力を解除していった」
特別ロング・インタビュー「ゼロ年代の想像力、その後」
文庫化にあたり追加収録されたもの。4万字超の語りおろし。2008年の単行本版発売以降から3.11後までのサブカルチャーを中心とした社会情勢の変遷について総括している。
空気系作品は「壁と卵」は完全に断絶しているという前提から生まれてきたもの。そこでは「壁」つまり世界の構造の問題は問われない。あくまで「���」同士の関係しかない世界が描かれる。恋愛や成長が排除されるのは「壁」のことを描かざるを得ないから。
mixiは棲み分けの快楽を追求するシステムであり、twitterは不特定多数の人々との乱数的なコミュニケーションが追求されている。twitterの流行はコミュニケーションの過剰が生じていることの裏付けではないか。
AKBは「誰々はこんなキャラだ」「こんなことを言っていた」とファンたちがネット上に書くことで巨大なデータベースが蓄積されている。そこから集合知的にメンバーのキャラクターが確立され、秋元康はそのキャラクターを二次創作してPVやドラマを作る。
公演プログラム、選抜制度、総選挙といったAKB48というゲームをプレイすることによって、プレイヤーであるアイドルたちの魅力が引き出されていく。秋元康の創り上げたゲームをプレイしていないと「不動のセンター」前田敦子は輝かない。
原発は自分たちで産み出したにもかかわらず制御できずに暴走してしまうシステム。核兵器のトラウマからゴジラが作られたような物語化はできない。しかし目に見えない大きな力、構造はイメージ化しないと社会で共有できない。これが震災後の文学の課題になる。
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アニメ・漫画をはじめとして、ドラマ・ゲームまで広範囲。
東さんなり大塚さんなり誰かしらのこの手の批評をかじった経験のあるひとはわりと素直に読めるかと。
(ただし、読める行為が素直になるだけで、展開してる論そのものに頷けるかは別の話。)
後半のインタビュー部分において作者のスタンスをざっくり説明してるので先にこっち読んだほうが実は分かりやすいかもと思いました。
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2000年前後の若者達のマインド変遷を、当時彼等から支持を得たコンテンツを通じて読み解こうとする批評本。
自分とは異文化のエリアも、俯瞰で観察して、自分の意見を持って理解する事の大切さにも気付く。
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文自体は読みやすかった。大枠はかなり共感できたけど、所々独りよがりになっている印象。
そして一回読んだだけじゃ僕には理解しきれない。もう一回読まないと。
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90年代後半の碇シンジ的想像力(「社会が何もしてくれないからひきこもる(何を信用していいかわからない、人を傷つけるかもしれない)」)がセカイ系に落ちていく過程、その後0年代の「無根拠であることを前提として」あえて、それを選んで行動していく決断主義とそれが孕む問題を『エヴァ』や『反逆のルルーシュ』や『野ぶた。をプロデュース』などをテキストにしてわかりやすい理論を展開している。
90年代後半から現在に至るまでの変遷を学べればいいと思って手にした作品だったけど、それ以上に自分が何にどれほど影響を受けて、どういう価値観で人と関わってきたのかがわかってしまった。
私は今のままだと淘汰される側の人間だなぁ。
佐藤友哉と舞城王太郎読んだときに感じる、どことない後ろめたさの原因がはっきりとわかりました。
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とにかく分析対象が広範にわたっている。アニメ作品だけではなく、TVドラマや特撮ヒーローまで、そう言われればまさにその通りだ、と思わされる部分が多い。あとは、批評ってこういうものだろ、というこだわりがたくさん見られたのもおもしろかった。
ゼロ年代の批評(とか言われるもの)における、大枠を完成させたのは東浩紀氏、枠を修正しつつ細部を詰めたのが宇野常寛氏、そういったイメージを受けた。決定的に異なるのは、「コミュニケーションしよう度数」かと。
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西尾維新や舞城や佐藤はゼロ年代の代表的な作家だし那須きのこだってメフィスト・ファウスト群である。ゲーム的リアリズムにおいて世界はキャラクターを追求しレイプ的男性主権の仮想空間の跋扈が市場に拡大する。ポストモダンはもはやポストポストモダンに吸収され排出される。まるで文化を切り捨てるように空回りする政治と戦争はもっともゲームに似ており、その境遇を意識する庶民は官僚を憎む。今ではゲーム盤のコマよりRPGのザコ敵にすらなれない消費者はもがき戦うのだが結局は勇者に斬られ殺される。それが幸せかという次元は側溝に投げ入れるとして、・・・生き残った兵士は想像力を働かせることで次なる闘争にサヴァイブしようとする。地球のようにただ流動する世間は隣人の顔すら知らないアパートの住人的に匿名で攻撃を行う。アノニマスを武器にしなければ生き残れないからだ。単純な残虐性に犯されているだけ、というフロイト的解釈を可能ではある。誰かが死んでも放置する世界には想像力と暴虐性が付きまとい死神によってDEATH NOTEを所有する世代の担い手が失意と絶望に対して鉄槌を振り落とす。まるでただの殺人事件の如く。
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周りの評価はいまいちだったので、あまり期待しないで読んだ。
けども、思っていたよりよかった。
①説得力
まず、文章が論理的でわかりやすい!
最後まで飽きず、とどまることなく、一気に読める。
わかりやすさはおもしろさ。すばらしい。
①東浩紀批判としての効力
ここでの著者さんの東浩紀さん批判は、
1.作品のとりこぼし
2.「動物化」イクナイ&古い
に大別できる感じ。
ですが、わたしはどっちも、なるほどと思いつつでも…という印象でした。
まず1に関しては、ひとつのことを論じようとするには、取りこぼれてしまう作品があるのはぜんぜん仕方なくないかしらというあれです。
たとえばこの『ゼロ想』にだってわたしの大好きな角田光代がぬけてるんですよ!
ディズニーランドもぬけてるし、セックス&ザシティも、プラダを着た悪魔も抜けていて、
そしてこれらはゼロ年代に(もしくはそれ以前から)大ヒットしているわけです。
「母性」を論じるにあたって、高橋留美子のところはとてもとても面白かったのですが、ここだけ取り上げる作品古くない?『めぞん一刻』って・・・。
すごく面白いところでもあるので、その肥大した母性がどこにどうでたのか、著者さんはスイーツ文化をめんどくさがらず勉強するべきでした。
そして著者さんがどうしてこんなに同時代的作品を網羅できるかのような幻想を抱いてしまっているのかというと、
社会と作品をあまりにも単純に結び付けているからかもしれませんね。
ということで、2になるわけですが。
わたしは『動物化するポストモダン』は、あくまでも「オタク」界隈の文化圏に向けた本だと思うんです。
そういう風に見れば、とりあげる作品の幅の狭さはむしろ必然的だし、「オタク」界隈というのは虚構が人間性を説明するのに必ず必要になってくる、特別な世界だと思うんです。
だからあんなに人間の生き方と虚構を短絡的に結び付けてもよかった。
しかし『ゼロ想』はそうじゃない。
島宇宙を飛び越えるとき、著者さんに抜けてしまったのは、
「虚構」というものが各島宇宙間でもつ強度の違いの感覚ではないでしょうか。
そしてたとえば「リア充」が「オタク」を嫌悪するのはその文化の細部というよりは「虚構」の偏重なそれ自体で、たぶん「リア充」から見れば宇野さんも充分「オタク」にすぎないのです。
これでは失恋をしてしまいそうです。
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批評本と言うものを読むのは非常に苦痛な作業です。
この本ならそんな事は無いかと思って読んだのですが、非常に苦痛でした。
批評は、あくまで批評家の考えた解釈と持論であり、どんなに論理的に書かれていても正しい事の証明は出来ないものなので中々読むのは大変でした。
ただ、この本の中での批評は、非常に的確でなるほどと唸らせられるロジックに溢れていると思いました。
時間と体力があるなら読んでみてよいのではないかと思います。
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# メモ
- 「データベースから生成される小さな物語の共同性は、排他的な性格を帯びるのだ」
- キャラクターは物語とその共同性から無縁ではいられない。
- 95年の思想。アスカに振られるシンジ。価値の宙吊りに耐えて生きる。
- 「何かをすることで人を傷つけるくらいなら何もしない」引きこもり/心理主義。セカイ系。「95年の思想」の堕落形態。
- 「闘わなければ生き残れない」サヴァイヴ系=バトルロワイアル系(DEATH NOTE)。ゼロ年代的決断主義。決断主義の必然性とその克服。→ゲームに参加しつつこれを止める方法の模索(LIAR GAME)。
- 宮藤官九郎と「終わりある日常」の豊かさ。
- 『野ブタ。』とバトルロワイアルの離脱可能性。
- 母性の重力。
- 成熟。子供の試行錯誤に必要な環境を用意する新教養主義。
- ゼロ年代の想像力の変遷を象徴する週刊少年ジャンプと平成仮面ライダーシリーズ。正義と成熟の問題系。
- ポストモダン状況が進行するなかで問われる〈決断主義〉への態度。
- 仮面ライダーの「変身」は疎外感の暗喩。
- 『アギト』の食事シーン。「生きるっていうのは、おいしいってことなんだ」。社会や歴史から切断された日常の中から物語を引き出し、楽しんで生きるという態度。
- 昭和ノスタルジーとセカイ系レイプ・ファンタジー
- 「決断主義の生む「誤配のない再帰的共同性」の閉塞(と暴力)を乗り越えることを志向する作品が、(…)宮藤官九郎や木皿泉、あるいはよしながふみの挑戦であった」
- ケータイ小説。脱キャラクター。物語回帰/物語純化。
- 「〜である」型のアイデンティティ(キャラクター)を他人に押し付けるのは「空気の読めない」キャラクター的実存。
- コミュニケーションの中で共同体の中の位置を獲得する「〜する」型の書き換え可能なアイデンティティ。モバイル的実存。
- 「決断主義という不可避の条件を受け入れ、動員ゲームから可能な限り暴力を排除する運用」→アーキテクチャ(環境)の社会設計。ある種の設計主義。
- 「現代における成熟とは他者回避を拒否して、自分とは異なる誰かに手を伸ばすこと--自分の所属する島宇宙から、他の島宇宙へ手を伸ばすことに他ならない」
- 「どう誤配と柔軟性を確保し、開かれたものにしていくか」
- 「現代では、超越性を公共性が保証することはありえない。「生きる意味」も「承認欲求」もすべてはひとりひとりが、コミュニケーションを重ね試行錯誤を繰り返し、共同体を獲得する(あるいは移動する)ことで備給していくしかない」
- 「家族(与えられるもの)から擬似家族(自分で選択するもの)へ、ひとつの物語=共同性への依存から、複数の物語に接続可能な開かれたコミュニケーションへ、終わりなき(ゆえに絶望的な)日常から、終わりを見つめた(ゆえに可能性にあふれた)日常へ--現代を生きる私たちにとって超越性とは世界や時代から与えられるべきものではない。個人が日常の中から、自分の力で掴み取るべきものなのだ。そしておそらく、この端的な事実は時代が移っても変わることはないだろう」
- アイロニカルな没入から、アーキテクチュアルな��入へ。
# 考察
- 宇野は「日常の中に意味を見出すことが倫理的だ」という立場で、國分功一郎『暇と退屈の倫理学』と似ている。
- 宇野は「人が生きる上で物語は必要だ」という立場を取り、「物語からデータベースへの移行」を論じる東浩紀を批判する。
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ゼロ年代のオタク系サブカルチャーを振り返る上では読んでも損はない一冊。
「大きな物語」が失墜し「小さな物語」のデータベースに生きる私たちにコミュニケーションの重要さを謳っている本書は、何事もネガティブに反応する厭世的なセカイ系少年少女に、「世の中すてたもんじゃねえよ」と言っているようだ。
ゼロ年代が終わって読みかえしてみると、まあそれもそうだったかもな、とも思う。
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リトルピープルの時代とのつながりも、巻末のロングインタビューで触れられていた。
高橋源一郎の講演会に行ってみたり、東浩紀や宇野常寛を読んでみたり、「批評」を仕事にしている人たちが羨ましくなった。
そんな気持ちにさせられるぐらい、魅力的な本だった。
言葉を武器にするんだったら、人の精神揺さぶるぐらいできないと、ね(自戒も込めて)。