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投稿者:ポンタ - この投稿者のレビュー一覧を見る
わかりやすくフーコーが理解できる。普通の学術書とは違い、高校生でも理解できる程度だ。フーコーの難解な思想を読む前に、これを読んでおくと理解が進む。講談社の知の教科書シリーズ。
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投稿者:bk1 - この投稿者のレビュー一覧を見る
■目次
・フーコーの生涯と思想
・フーコー思想のキーワード
・三次元で読むフーコー
・知のみなもとへ——著作解題
・フーコー最後のメッセージ
・知の道具箱
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フーコー入門書。さいしょの方はよくわかったけれど、後の方の用語解説などは、どこからどうつながっていくのかわからなかった。あくまでもこれから深く読んでいくためのもの、という扱いでこれだけでフーコーの事を理解するのは難しい
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フーコーの生涯、思想のキーワード、人々とのかかわり、著作解題と言った内容。フーコーの著作と言うよりフーコーという人間の方に焦点を当てている。
かなり平易な書き方で書かれているが、最後の『フーコー最後のメッセージ』という章が、「フーコーが考えたことをもっと知りたい!」と思わせてくれる内容で印象に残った。
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フーコーが同性愛者だったり、ロラン・バルトと関係があったり!、自殺未遂を繰り返したり、薬物をやっていたりと普段習わない一面が知れた。
ひとりの人間として興味がもてるし、どうして「狂気の歴史」などを書くことになったかの動機がわかったかも(構造主義・・・?)
引用されていた「責任がありながら、果たせない自分という存在について深く考え抜くこと、おのれがすべてに依存している存在であることを自覚し、おのれの欲望のままに生きることを反省すること、他人のせいにするのではなく、己の至らなさを反省すること。」という清沢満之の全責任主義の考え方が正しいとかはともかく考えたことのない思想でおもしろい。
それにしてもパノプティコン構造は鋭い。
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「講談社選書メチエ・知の教科書」シリーズの一冊です。
まずは、教師と学生の対話形式で書かれた「プロローグ」で、捕鯨問題を手がかりにフーコーの「人間の終焉」という考え方が説明されています。日本の捕鯨を非難する環境保護団体が、反対の理由として「鯨は、知能が高くて人間に近い動物だから」と説明していたことがありました。これは、人間をすべての中心に置いて動物に優劣をつける発想にほかなりません。こうした指摘をおこなったうえで著者は、「フーコーが、「人間の死」を語ったのは、なぜだろうか?」という問いかけます。「それは、あらゆる生物の頂点に立って地球の命運を支配することができると思い込んだ「人間」認識は、けっして昔からあったものではなく、近代産業社会がつくり出したものだということを指摘したかったから」というのが、その答えです。
その後、フーコーの生涯やキーワード、テーマ別の解説、著作解題、そして読書案内などへとつづきます。『監獄の誕生』を紹介しているところでは、花輪和一のマンガ『刑務所の中』(青林工藝社)がとりあげられています。このマンガは、改造銃を所持していたことで逮捕された花輪が、刑務所での服役体験を表現したものです。著者はこの作品が、フーコーのいう「ディシプリン」の極めて克明な証言だと述べています。
また、フーコーと日本についても、一つの項目を立てて解説がなされています。日本の仏教における修道生活は、我執にとらわれる個人という領域を脱して、非個人化、非主体化へと向かうことをめざしていることにフーコーは注目していました。ここで著者は、清沢満之の主張した「全責任主義」という立場に触れています。清沢によれば、〈私〉という存在は、すべての環境の結果として生まれてきた存在です。こうしたあらゆるものの連関の中にある〈私〉は、万物に対して責任がありながら、すべての責任を果たすことができません。清沢は、責任がありながら果たすことができない自分の存在について深く自覚することで、他人を受け入れた自己としての「無我」の境地に赴くことができると考えます。著者は、こうした清沢の「全責任主義」の発想のうちに、フーコーがおこなった近代の主体主義に対する批判と通じるものを見ようとしています。
また著者は、フーコーが2度目の日本滞在時にゲイバーなどに出かけたことに触れ、また、日本の居酒屋文化に、西洋で失われた男どうしの友情(朋友愛)を見出し共感を抱いたことや、大島渚監督の「愛のコリーダ」をめぐって、男性の性器は男に属するものではなく、男女の間の絆と捉えられていることにフーコーが注目し、ヨーロッパを支配する「ファロス中心主義」が日本では存在しないと語っていたことが紹介されています。ただ、日本の居酒屋文化に関しては、ホモソーシャルの問題を無視することができず、単純にそこでの男どうしの交流と絆の結びつきを称揚するわけにはいかないように思います。
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フーコーの思想をあの手この手で立体的に解説している。読みやすいが、同じ文章がそのまま繰り返されるような内容的重複がやや目につく。思想自体の詳しい解説と言うよりは、伝記に近い印象。
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フーコーの著作や思想、生涯についての概説本。
特定の「コレ!」というテーマがある人ではない?
いろいろと思索がある人のようで、なんとなくまとまりがないというか、複雑な内容です。
考えていることも、生活も。
同性愛者として、それがゆるされない社会での生きづらさなどが思考の根幹にはあったのかも?
p.75
十八世紀末以前には「人間」なるものは存在しなかったのである…それはに二百年足らず前に知(学問体系)という造物主がおのれの手で作り出した、まったく最近の被造物なのである(『言葉と物』より引用)
p.97(サルトルとの対立)
社会学者のピエール・ブルデューは、どんな職業についているひとでもこんな風に社会から認められたいな、というイメージを持っているのだが、サルトルは、まさにどの知識人にとってもこのように認められたいと願っている「知識人」のイメージを作り出したのだ、と述べています。フーコーは、このような、マス・メディアで器用にコメントして喝采を浴びる「職業タレントとしての知識人」を嫌ったのです。
p.122
フーコーは『監視と処罰-監獄の誕生』のなかで、試験とは、個人の能力を量として測定し、資格を与え、階層序列を決める権力の儀式であると規定しています。また、十八世紀に、学校の中で「順位」によって個人の配置(成績順、席順)が行われる形式が生まれたために、教師による一人ひとりの生徒の管理と全員いっせいの勉強の強制が可能になったとも書いています。
p.148(『臨床医学の誕生』)
序文のなかで、フーコーは、現代医学の出発点を、十八世紀末の数年間の時期に設定して、いかにして個人のまわりに新しい関係をつくりだす「まなざし」が生まれたかを探求することが目的だと述べています。
p.152(『言葉と物』)
フーコーは最初に、有名なヴェラスケスの「侍女たち」という絵画の分析から始めています。この絵には、中心となる人物が不在なのです。…この絵には、単一で独立した人間という主体が見出せません。自分のまなざしで観察し、見た世界を表現するという人間がいないのです。…近代でいう、すべてをコントロールする主体としての人間というものがこの絵には存在しないのです。
※
フーコーの思想のキーワードの一つが
「ディシプリン」
『監獄の誕生』で触れられているパノプティコンに見られるような、監視社会において、規律や規範を内在化するもの。
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■985, 2019.10.26
・常識あるいは通念を疑う(起源を問う)ことと、学問を楽しいものにする、といったふわっとしたことしかわからず。具体的な部分としてはパノプティコンによる「権力の自動化」の解説があった。
・フーコーの伝記的な部分が多い。同時代の他の思想家とこの時期に仲がよかったとか悪かったとか。
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■細目次
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