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いやー、面白かった。特に第Ⅲ章「希望」を考えるはすごくなるほどと。目指すべき方向性は全く同感。私ももっと勉強せねば。
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「思想地図」はもちろんNHK「ニッポンのジレンマ」で事足りる。とはいえ、濱野氏のアーキテクチャについての思想(の変遷含め)はあと何年間かは追い続けるべき。
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まず宇野常寛も嫌がっていたとおり、
タイトルは失敗だったと思う。
悪い部分をあげつらうよりも、
良い部分を数えた方が建設的であるのは当然だろう。
しかし、
それを「希望」というワードに閉じ込めた瞬間に、
意味合いがずれてきてしまうように思う。
これでは凡百の「希望」話と同じ読まれ方をされてしまうのではないかな。
要するに、
「あー例の希望話ね。はいはい」という風に、
読者の姿勢を読む前に限定してしまい、
書かれていることをミスリードする危険がある(これ自体がミスリードかもわからんが)。
せっかくいいこと書いてあるんだから勿体ないと思う。
特に日本のITは萌芽の時から「ひろゆき的」なのだ(キリッ)、
という説明はかなり興味深い考察だった。
つまり日本のネット技術は、
最初からコミュニケーションのために発達したものだということである。
だからニコニコ動画や2ちゃんねるが流行るのは、
むしろ日本のIT業界においては当然の出来事で、
議論し合う場としての梅田望夫的なweb概念というものは傍流でしかない。
だとしたら、
「日本的なるもの」を肯定的に捉え直し、
日本と海外の「モード」の違いを理解して、
それをどう上手くコントロールしていく仕組みを設定するかが大切なのである。
そうした未来のビジョンが「母」的な社会というのはすごく賛成。
しかしながら、
なんとなく彼らの言説には、
決定的な足腰の弱さを感じてしまうんだな。
なんでだろ。
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宇野常寛って文章力で人を引き付ける力がある。
これがすでに希望である。
宇野や濱野が未来を託すソーシャルメディアを具現化する理念を持つ
グリーンアクティブも、発足会見を行った。
自然、文化、経済、政治を小さなネットワークでつないでいく「リトルピープル時代」の活動は、うまく行くかどうかはわからない。いまだ、ビッグブラザー的な力でつぶされるのかもしれない。個人の内面にある大きなものへの幻想の前に理念が折れるかもしれない。
でも、そういう変化を含めて吟味し続けていく姿勢こそ、われわれに問われているものなのであろう。希望論とは、覚悟でもあろうと思う。
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90年代半ばの思想シーンを駆け足で振り返りながら、震災以後の日本のありかたを批評・思想の面から検討。
ソーシャルネットワークの可能性や、日本型のコンテンツ生産・消費、あるいはコミュニティーのあり方など、東浩紀が「思想地図」でこれまで検討してきた内容を踏まえた議論が行われる。
少ないページ数で幅広い議論が行われて、現状の見取り図としてはとてもわかりやすいものになっている。
ただ、この本のテーマである「希望」への提示についてはまだ弱いという印象。「思想地図」で提示された内容にかぶるところが多い。独自の提示の部分は、東浩紀にツイッターでボロクソ言われていたけれど、それもしかたないと思えてしまう程度にまだまだ練られていない。ブレストとしてはいいのだろうが、「希望論」と言えるところまでもっていくにはもう少しといったところか。
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今までの社会構造の矛盾や限界に対して、大変共感できる整理と今後の方向性を打ち出している事に感銘を受けた。この考え方に立った何らかの試みを実現したいと思う。
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文化系トークラジオLIFEにて聞いた話が多いです・・・だって出演者だもの。
この半年くらいのは、『希望論』を元ネタに構成していたか、それとも希望論はLIFEのまとめじゃないのか?ってくらいに。
*
拡張現実・・・・「現実」と異次元にある「虚構」としての仮想現実から、
「現実」の上にコンピューターから引き出された情報を重ねる「拡張現実」、Augumented Realityの時代へ
cf.Twitter、フォーススクエア等々のチェックイン機能
日本のインターネットにおける「繋がりの社会性」実現への機能の偏り
・・・村井純→ひろゆきへの「正当」、顕名を前提とする議論の場としてのネット空間(アメリカ西海岸的)と、匿名を前提とする集合的暗黙知生成の場としてのネット空間(日本、2チャンネル的)。
2チャンネル的、ニコニコ動画的な匿名のネット空間から集合知を生成するためのアーキテクチャ
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3.11以降の「希望」のあり処はインターネットというか、ソーシャルネットの中にある。SNSが作る新しい「公共性」と「拡張現実」。「革命」から「ハッキング」へ。
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現実はクソゲーすぎるんだ(p.194)
どうせ日本人がなかなか集団主義的な心の習慣から脱却できないのなら、むしろそれを前提にして制度設計をしていくしかないんじゃないの(p.179)
あと、イジメは固定的集団で起きる。コミュニティを流動的にして、それに対するマナーのリテラシーを学ばせるべき。って3つが共感できた。私にとってはちゃんと希望論やった。
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ゼロ年代の想像力やアーキテクチャの生態系の焼き直し感がちょっとあるのと、ひろゆきと梅田をあたかも両極のごとく語ることがそもそもナンセンスであるのと、それに関連して別次元の物事を一緒くたにしてしまっていることで全体としてまとまりがイマイチであるのと、わたしと小鳥と鈴と…
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宇野常寛さんと濱野智史さんの対談。
うーん、むずかしい…。こういう文芸評論系の文章はいまだに全然馴染めない、ということがわかった。
ただ、日本独自の進化をすることが大事、という発想はおもしろかった。
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理想の時代→虚構の時代ときて、拡張現実の時代にさしかかってる今、新たなサービスや文化がどんどん生まれてきて、そんな中でどのように生活していくのか興味深いと思った。
<いま、ここ>の現実を多重化する、ゲーム化、聖地巡礼など遊びや文化にはハッキリ見られるようになってきたが、その他に社会にどのような変化がうまれてくるか、楽しみ。
また、現代において自己承認が「個人individual」じゃなく、「分人dividual」断片的で確率的なものでしかあり得なくなったというのも興味深い。その時代に合った自分を作ってゆて、悩みすぎず生きやすく生活した方が良いのだなぁと思った。
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ここ数年よく見る宇野君、濱野君の仲良しホモホモコンビに対談本である。
宇野常弘の本は読んだこともあるし、中身にも結構共感はできるのだけれど、濱野智史の方はニコ生で見た程度だ。
内容の方はニコ生の対談番組をテキスト化したようなもの。
今、彼らが何を考えているのかを追いかけたい人にとってはおもしろいのだろうけど、結論だけを知りたい人にはこの本を読む必要はないと思う。
でも、こういう考えがまとまるまでの流れみたいなものを世に出すべきだと個人的には思う。
では、バイちゃ!
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東日本大震災によって既存の枠組みに対する絶望感が生まれる中、日本人はどこに「希望」を見出したらいいのか?
戦後日本の社会構造、日本におけるインターネットの発達史などを紐解きながら、2010年代の「希望」へとつながる萌芽を探っていく本。
実世界とコンピュータがより密接につながりリアル空間を広げてくれる「拡張現実」という概念は、世界中で着実なムーブメントを起こしている。
(例:Facebookを通じた実名による社会交流の拡大、ネット選挙による政治活動の多様化)
もちろん、日本でもこういうムーブメントは起きている。
しかし、この本ではそれ以上に、日本からスタートした、特有の動きにも注目している。
例えば、
現実のコミュニケーションがその一部をゲーム化する「ソーシャルゲーム」
「繋がりの社会性」的な無内容なコミュニケーションを起点にしたネットワーク
(友人との雑談を重視したmixiやLINE、2chのまとめサイト)
などなど。
欧米では、個々人が相互に自律的に判断する能力を持って「契約」を結ぶ個人像が前提となり、TwitterやFacebookのような個人全面押し出し形、世の中には意味を持たせなければならない、みたいな発想のサービスが発展してきた。
一方、日本ではソーシャルゲーム、mixiやLINEみたいな、個人がそこまで自己主張するわけでもなく、一見すると中身の無いようなサービスが発展している。
でも、そういう無内容に見えるコミュニケーションこそ、日本人の根底に息づくものであり、もし日本に「希望」を見出すなら、むしろそういったところから突破口を広げ、日本らしさに根ざしたムーブメントを起こさなければならない。
…というふうな感想を抱きました。
インターネット普及から2011年までのの日本情勢が簡潔にまとまっており、新しい枠組みを作っていく上でのヒントが詰まっているのではないかと思います。
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宇野さん・濱野さんがこれまで主張してきたことの再録+α版。1章は原発の議論+『リトルピープルの時代』を基にした宇野さんパート。2章は濱野さんによる情報社会論の捉え直し。個人的にはここが胸熱。濱野さんがなんで『アーキテクチャの生態系』で日本社会論にこだわったのか。それは日本的な(ひろゆき的な)ネット空間を分析しなければ、日本独自の「フロンティア」が見えないから。このパート、普通に情報社会論の基礎的な流れの確認としても読めるし、そこに+αで濱野流の情報社会論の日本的な捉え直しもあって熱い。「梅田望夫的(アメリカ的)」と「ひろゆき的(日本的)」という括りは実感としてはすごく納得で、日本の土壌を受け入れた上で外発的にではなく、内発的に(宇野の言葉だとハッキングで)変えていくしかない。
ただ疑問もある。日本的、ガラパゴス的、匿名的ネット空間に可能性がある―というのはどうしてなのか。確かに、日本のネット文化・土壌を受け入れた上で希望を語る、議論を展開していくしかない―というのはわかる。でも、日本的な環境「だからこそ」希望がある、というのはどうしてなのか。もう少し言及がほしい。
そして、この本にある最大の問題。果たして、この本に収められている言葉は、どこに届いているのだろうか。ハイコンテクストで、これまでに思想の言葉に触れていなければ、いやむしろ具体的に『リトルピープルの時代』『アーキテクチャの生態系』を読んでいなければ、はっきり言ってわからない議論だったのは間違いないと思う。この本を市場に放り投げた時、購入者は思想地図界隈を好む読者に限られるだろうし、例え「誤配」が起こって他の読者に読まれたとしても、おそらく宇野さん・濱野さんの言葉はその読者には届かない。排除されてしまうはず。
思想地図界隈のマーケットなんて(東さんが前にLife現代思想の回で言っていたけど)せいぜい3万人くらい。多く見積もっても数万人程度。そこへ向けたところで、規模は果てしなく小さい。
宇野さん・濱野さんの議論が悪いというわけじゃない。むしろ、抜群に本質的でクリティカル。だからこそ、その議論は多くの人に届けるべきだし、その届ける努力がみられなかったのはもったいない。徹底的につけられた注釈そのものがハイコンテクストで、思想地図界隈の「外側」にいる読者には絶対にわからない。そのあたりの「議論」ではなく「姿勢」(思想系の言葉でいうならば、コンスタンティブではなくパフォーマティブな側面)について2人はどう考えているのだろうか。
また、議論が極めてレトリカルだったのも気になる。いや別にレトリックを用いることは悪い事じゃない。問題は議論が具体例に落とし込まれたとき、途端に弱くなることだ。おわりに濱野さんが「その具体的な提言となると、稚拙さも目につくものだろう」と告白しているように、抽象的なレベルにとどまっているという指摘は回避できないはず。その意味において宇野さんがいう「文芸評論家だから」というロジックは言い訳にしかならない。だからこそ、具体的な構想をレトリックで片づけるのではなく、現実の実務的な、届く言葉で方てほしかったし、語るべきだと思う。そのあたり、多分宇野さんも濱野さんも自覚していると思うし、今後の課題なんじゃないかなと思う。