漢文調の聖書はよい。
2017/02/09 21:12
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投稿者:徹徹 - この投稿者のレビュー一覧を見る
漢文調の聖書はいいです。文章にリズム感があります。現代語の文章以上に簡潔に語りかけられる感じです。
文語訳の美しい響き
2015/05/06 21:05
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:弥生丸 - この投稿者のレビュー一覧を見る
文語訳の文庫化が嬉しいです!聖書の文語訳を見つけるのが、今まで難しかったので。
まだ読了していませんが、文語訳の響きが美しく、惹きつけられます。「狭き門より入れ(いれ)」「盲人もし盲人を導かば」などの言葉は、アンドレ・ジッドの『狭き門』『田園交響楽』を想起させます。
文語訳聖書を読めば、外国の文学作品を、一層興深く読めるかもしれません。
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恩師・鈴木範久先生・解説『文語訳 新約聖書 詩篇付』岩波文庫、読了。(仕事柄何度も読んでいるけど)大正改訳(「詩篇」は明治訳)が待望の文庫化。「狭き門より入れ」等々……最も人口に膾炙されたリズム感ある名訳は、近代日本の文学・思想界に最も影響を与えた。巻末の解説も充実。お勧めです。
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クリスチャンではないので、散文詩のように読んでいる。優れた訳文はこの古い書物に新たな彩りと臨場感を与えている。古い物語や古い言葉にはやはり意力があると感じた。フリガナがついているので、文語が苦手な方も安心。
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The Gospel of Luke
ルカ伝福音書
第二章
『何故われを尋ねたるか、我はわが父の家に居るべきを知らぬか』
第四章
『「人の生くるはパンのみに由るにあらず」と録されたり』
『「主なる汝の神を拝し、ただ之にのみ事ふべし」と録されたり』
『「主なる汝の神を試むべからず」と云ひてあり』
『主の御霊われに在す。これ我に油を注ぎて貧しき者に福音を宣べしめ、我を遣はして囚人に赦を得ることと、盲人に見ゆる事とを告げしめ、圧へらるる者を放ちて自由を与へしめ、主の喜ばしき年を宣伝へしめ給ふなり』
『われ誠に汝らに告ぐ、預言者は己が郷にて喜ばるることなし。』
『黙せ、その人より出でよ』
『われ又ほかの町々にも神の国の福音を宣伝へざるを得ず、わが遣されしは之が為なり』
第五章
『懼るな、なんぢ今より後、人を漁らん』
『わが意なり、潔くなれ』
『人よ汝の罪ゆるされたり』
『健康なる者は医者を要せず、ただ病ある者、これを要す。我は正しき者を招かんとにあらで、罪人を招きて悔改めさせんとて来れり』
『たれも新しき衣を切り取りて、旧き衣を繕ふ者はあらじ。もし然せば新しきものも破れ、かつ新しきものより取りたる裂も旧きものに合はじ。誰も新しき葡萄酒を、ふるき革嚢に入るることは為じ。もし然せば葡萄酒は嚢をはりさき漏れ出でて嚢も廃らん。新しき葡萄酒は、新しき革嚢に入るべきなり。誰も旧き葡萄酒を飲みてのち、新しき葡萄酒を望む者はあらじ。「旧きは善し」と云へばなり』
第六章
『人の子は安息日の主たるなり』
『幸福なるかな、貧しき者よ、神の国は汝らの有なり。
幸福なる哉、いま飢うる者よ、汝ら飽くことを得ん。
幸福なる哉、いま泣く者よ、汝ら笑ふことを得ん。
人なんぢらを憎み、人の子のために遠ざけ謗り汝らの名を悪しとして棄てなば、汝ら幸福なり。その日には、喜び躍れ。視よ、天にて汝らの報は大なり、彼らの先祖が預言者たちに為ししも、斯くありき。
されど禍害なるかな、富む者よ、汝らは既にその慰安を受けたり。
禍害なる哉、いま飽く者よ、汝らは飢ゑん。
禍害なる哉、いま笑ふ者よ、汝らは悲しみ泣かん。
凡ての人、なんぢらを誉めなば、汝ら禍害なり。彼らの先祖が虚偽の預言者たちに為ししも、斯くありき。
われ更に汝ら聴くものに告ぐ、なんぢらの仇を愛し汝らを憎む者を善くし、汝らを詛ふ者を祝し、汝らを辱しむる者のために祈れ。なんぢの頬を打つ者には、他の頬をも向けよ。なんぢの上衣を取る者には下衣をも拒むな。すべて求むる者に与へ、なんぢの物を奪ふ者に復索むな。なんぢら人に為られんと思ふごとく人にも然せよ。なんぢら己を愛する者を愛せばとて、何の嘉すべき事あらん、罪人にても己を愛する者を愛するなり。汝等おのれに善をなす者に善を為すとも、何の嘉すべき事あらん、罪人にても然するなり。なんぢら得る事あらんと思ひて人に貸すとも、何の嘉すべき事あらん、罪人にても均しきものを受けんとて罪人に貸すなり。汝らは仇を愛し、善をなし、何をも求めずして貸せ、然らば、その報は大ならん。かつ至高���の子たるべし。至高者は恩を知らぬもの、悪しき者にも仁慈あるなり。汝らの父の慈悲なるごとく、汝らも慈悲なれ。人を審くな、然らば汝らも審かるる事あらじ。人を罪に定むな、然らば、汝らも罪に定めらるる事あらじ。人を赦せ、然らば汝らも赦されん。人に与へよ、然らば汝らも与へられん。人は量をよくし、押し入れ、揺り入れ溢るるまでにして、汝らの懐中に入れん。汝等おのが量る量にて量らるべし』
『悪しき果を結ぶ善き樹はなく、また善き果を結ぶ悪しき樹はなし。樹はおのおの其の果によりて知らる。
善き人は心の善き倉より善きものを出し、悪しき人は悪しき倉より悪しき物を出す。
聴きて行はぬ者は、基なくして家を土の上に建てたる人のごとし。流その家を衝けば、直ちに崩れて、その破壊、甚だし』
第八章
『種播く者その種を播かんとて出づ。播くとき路の傍らに落ちし種あり、踏みつけられ、又そらの鳥これを啄む。岩の上に落ちし種あり、生え出でたれど潤沢なきによりて枯る。茨の中に落ちし種あり、茨も共に生え出でて之を塞ぐ。良き地に落ちし種あり、生え出でて百倍の実を結べり』
『きく耳ある者は聴くべし』
『なんぢらは神の国の奥義を知ることを許されたれど、他の者は譬にてせらる。彼らの見て見ず、聞きて悟らぬ為なり。譬の意は是なり。種は神の言なり。
隠れたるものの顕はれぬはなく、秘めたるものの知られぬはなく、明かにならぬはなし。然れば汝ら聴くこと如何と心せよ、誰にても有てる人は、なほ与へられ、有たぬ人は、その有てりと思ふ物をも取らるべし』
『わが母、わが兄弟は、神の言を聴き、かつ行ふ此らの者なり』
第九章
『旅のために何をも持つな、
いづれの家に入るとも、其処に留れ、
人もし汝らを受けずば、その町を立ち去るとき証のために足の塵を払へ』
『人もし我に従ひ来らんと思はば、己をすて、日々おのが十字架を負ひて我に従へ。己が生命を救はんと思ふ者は之を失ひ、我がために己が生命を失ふその人は之を救はん。
我と我が言とを恥づる者をば、人の子もまた己と父と聖なる御使たちとの栄光をもて来らん時に恥づべし。』
『ああ信なき曲れる代なる哉、われ何時まで汝らと偕にをりて、汝らを忍ばん。』
『おほよそ我が名のために此の幼児を受くる者は、我を受くるなり。我を受くる者は、我を遣しし者を受くるなり。汝らの中にて最も小き者は、これ大なるなり』
『狐は穴あり、空の鳥は塒あり、されど人の子は枕する所なし』
『死にたる者に、その死にたる者を葬らせ、汝は往きて神の国を言ひ弘めよ』
『手を鋤につけてのち、後を顧みる者は、神の国に適ふ者にあらず』
第十章
『途にて誰にも挨拶すな。孰の家に入るとも、先づ平安この家にあれと言へ。もし平安の子、そこに居らば、汝らの祝する平安はその上に留らん。もし然らずば、其の平安は汝らに帰らん。
汝らに聴く者は我に聴くなり、汝らを棄つる者は我を棄つるなり。我を棄つる者は我を遣し給ひし者を棄つるなり』
『此等のことを智きもの慧き者に隠して嬰児に顕したまへり。』
『多くの預言者も、王も、汝らの見るところを見んと欲したれど見ず、汝らの聞く所を聞かんと欲��たれど聞かざりき』
『マルタよ、汝さまざまの事により、思ひ煩ひて心労す。されど無くてならぬものは多からず、唯一つのみ、マリヤは善きかたを選びたり。此は彼より奪ふべからざるものなり』
第十一章
『なんぢら祈るときに斯く言へ「父よ、願くは御名の崇められん事を。御国の来らん事を。我らの日用の糧を日毎に与へ給へ。我らに負債ある凡ての者を我ら免せば、我らの罪をも免し給へ。我らを嘗試にあはせ給ふな」』
『求めよ、さらば与へられん。尋ねよ、さらば見出さん。門を叩け、さらば開かれん。すべて求むる者は得、尋ぬる者は見出し、門を叩く者は開かるるなり。』
『更に幸福なるかな、神の言を聴きて之を守る人は』
『今の代は邪曲なる代にして徴を求む。されどヨナの徴のほかに徴は与へられじ。
汝の目正しき時は全身、明からん。されど悪しき時は、身もまた暗からん。この故に汝の内の光、闇にはあらぬか、省みよ。もし汝の全身、明くして暗き所なくば、輝ける灯火に照さるる如く、その身全く明からん』
『汝らの内は貪慾と悪とにて満つるなり。愚なる者よ、外を造りし者は、内をも造りしならずや。唯その内にある物を施せ。さらば、一切の物なんぢらの為に潔くなるなり。』
『禍害なるかな、教法師よ、なんぢらは知識の鍵を取り去りて自ら入らず、入らんとする人をも止めしなり』
第十二章
『蔽はれたるものに露れぬはなく、隠れたるものに知られぬはなし。
いかに何を答へ、または何を言はんと思ひ煩ふな。聖霊そのとき言ふべきことを教へ給はん』
『何を食はんと生命のことを思ひ煩ひ、何を著んと体のことを思ひ煩ふな。生命は糧にまさり、体は衣に勝るなり。
尽きぬ財宝を天に貯へよ。かしこは盗人も近づかず、虫も壊らぬなり、汝らの財宝のある所には、汝らの心もあるべし。』
第十三章
『神の国は何に似たるか、我これを何に擬へん、一粒の芥種のごとし。人これを取りて己の園に播きたれば、育ちて樹となり、空の鳥その枝に宿れり』
『力を尽して狭き門より入れ。我なんぢらに告ぐ、入らん事を求めて入り能はぬ者おほからん。』
第十四章
『凡そおのれを高うする者は卑うせられ、己を卑うする者は高うせらるるなり』
『饗宴を設くる時は、寧ろ貧しき者・不具などを招け。彼らは報ゆること能はぬ故に、なんぢ幸福なるべし。正しき者の復活の時に報いらるるなり』
『人もし我に来りて、その父母・妻子・兄弟・姉妹・己が生命までも憎まずば、我が弟子となるを得ず。また己が十字架を負ひて我に従ふ者ならでは、我が弟子と為るを得ず。
汝らの中その一切の所有を退くる者ならでは、我が弟子となるを得ず。』
第十六章
『小事に忠なる者は、大事にも忠なり。小事に不忠なる者は大事にも不忠なり。
僕は二人の主に兼事ふること能はず、
汝ら神と富とに兼事ふること能はず』
第十七章
『汝等みづから心せよ。もし汝の兄弟、罪を犯さば、これを戒めよ。もし悔改めなば之をゆるせ。もし一日に七度なんぢに罪を犯し、七度「くい改む」と言ひて、汝に帰らば之をゆるせ』
『命ぜられし事をことごとく為したる時「われらは無益なる僕なり、為すべき事を為したるのみ」と言へ』
『神の国は見ゆべき状にて来らず。
視よ、神の国は汝らの中に在るなり』
第十八章
『幼児のごとくに、神の国をうくる者ならずば、之に入ること能はず』
第二十章
『カイザルの物はカイザルに、神の物は神に納めよ』
『神は死にたる者の神にあらず、生ける者の神なり。』
『学者らに心せよ。彼らは長き衣を著て歩むことを好み、市場にての敬礼、会堂の上座、饗宴の上座を喜び、また寡婦らの家を呑み、外見をつくりて長き祈をなす。其の受くる審判は更に厳しからん』
第二十一章
『汝等わが名の故に凡ての人に憎まるべし。
汝らは忍耐によりて其の霊魂を得べし。』
『起るべき凡ての事をのがれ、人の子のまへに立ち得るやう、常に祈りつつ目を覚しをれ』
第二十二章
『汝等のうち大なる者は、若き者のごとく頭たる者は事ふる者の如くなれ。』
『われ言ふとも汝ら信ぜじ、又われ問ふとも汝ら答へじ。然れど人の子は今よりのち神の能力の右に坐せん』
第二十三章
『エルサレムの娘よ、わが為に泣くな、ただ己がため、己が子のために泣け。視よ「石婦・児産まぬ腹・飲ませぬ乳は幸福なり」と言ふ日きたらん。』
『父よ、彼らを赦し給へ、その為す所を知らざればなり』
第二十四章
『ああ愚にして預言者たちの語りたる凡てのことを信ずるに心鈍き者よ。キリストは必ず此らの苦難を受けて、其の栄光に入るべきならずや』