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なんだかんだ読めたけれど、読む必要があるのかどうか謎。
仮面ライダー平成版のあらすじ知らなかったから、衝撃をうけた。
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正直なところ村上春樹、ウルトラマン、仮面ライダーから時代をみるのだが、この3作品群としっかり触れあっていないので、深くは読み込めなかった。
大きな物語=ビッグブラザーが失墜し、価値相対的な自己目的化した生産消費活動に移行した。それがリトルピープルの時代。ぐらいな表層的な理解に留まる。他の宇野評論にも触れて理解を深めようと思う。
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たとえば「映画」はとても能動的な観客を想定したメディアだ。対してテレビはとても受動的な視聴者を想定したメディアだと言える。これは先ほどの比喩に当てはめるなら、映画は市民、テレビは動物を対象にしたメディアだということになる。
しかしインターネットは違う。インターネットはユーザーの使用法で映画よりも能動的にコミットする(自分で発信する)こともできれば、テレビよりも受動的にコミットする(通知だけを受け取る)ことも可能だ。もちろん、その中間のコミットも可能になる。こうして考えたときインターネットは、初めて人間そのもの、常に「市民」と「動物」の中間をさまよい続ける「人間」という存在そのものに適応したメディアだと言えることになる。p543
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オーウェルが「1984」で表したビッグ・ブラザーが壊死し、村上春樹が「1Q84」で表したリトル・ピープルの時代となった。宇野氏は前者としてウルトラマン、後者として仮面ライダーを取り上げてそれぞれの時代の批評を展開する。
宇野氏はリトル・ピープルの時代を以下のように定義した。
『かつて「壁」と呼ばれたものを人格のイメージで表現し、そして物語としてその正当性を説明することが難しくなった、共有できなくなった世界が到来した時代のことだ。』
しかし、宇野氏自身が『正義はひとつではない――かつてはこの前提に基づいて「あえて」ひとつの正義を仮構すること(ビッグ・ブラザー的想像力)が求められた』と書いているように、ビッグ・ブラザーの時代にもリトル・ピープルの時代と同様に複数の正義があった。その中のひとつに光をあてて物語としていただけだ。
時代の変化に伴って物語の語り口の視点が変更されただけであり、それをもってそれぞれの物語をビッグ・ブラザー的、リトル・ピープル的と区分するのには違和感があった。
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宇野氏をJ-Waveの"THE HANGOUT"で知り、興味を持ったので購入し、通読してみた。
ポップカルチャーは時代を写す鏡であることを、本書を読んで改めて認識した。
ただし「リトル・ピープル」というものがいったい何者であるかが、今ひとつクリアでなかった。私の理解力の無さに起因するものかもしれないが、氏自身がリトル・ピープルなるものをはっきりと掴んではいないのではないかとも感じた。
あるいは仮面ライダーはともかくとして、村上春樹やジョージ・オーウェルを読まないと、本書の本質には迫れないのかもしれない。
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ポストモダン論なのだと思いますが,ウルトラマンも仮面ライダーもとくに詳しくない私にはピンとこない部分が多く,読み解けませんでした。まだ私には読むのは早かったです。
ポストモダン論では東浩紀の『動物化するポストモダン』がスッキリしているように個人的には感じ,そことの差異を取り出そうとしましたが,なかなか難しかったです。
仮面ライダーを観たくなりましたので,仮面ライダーを観た後にもう一度読み直したいと思います。