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2015年は戦後70年目であることから、戦争にまつわる色々な企画や特集が組まれることだろう。
一方で体験者はいずれも齢を重ね、そして亡くなっていく。この先、本人から直接話を聞く機会はどんどん減っていき、当時のことを知る術が書籍や映像といったメディア、そして当時の戦跡に赴くことに限定されていくのは、仕方がないことなのだろう。
その中でも、本人の体験談に次いで、当時の人々の生々しい感情を受け手に伝えることができるのは、やはり“怪談”である。
時を越えて伝えられた、感謝と謝罪の想い。
死してなお、家族や友人を労り助けようとする戦死者たちの想い。
死してなお、“戦時下”を生き続ける人々の苦痛と悲哀。
身内、そして自身の肉体を失った者達の無念。
殺した者へ向けられる、殺された者達の怨みや憎しみ。
そして、生き残った者達の、謝意と、苦痛と、罪悪感。
これらは、自主規制によりある程度以上の生々しさや気持ち悪さを排除したテレビ番組や書籍、展示ではとても伝わらないものだ。
戦争にまつわる怪談にしろ、震災にまつわる怪談にしろ、多くの人々が亡くなった事象に関わる怪談というものは、一般的な怪談のそれとは大きく異なる。本物の戦争や震災に関わる怪談は、恐怖を抱かせる話というよりも、むしろ生存した方々、亡くなった方々双方への「鎮魂慰撫」、そして「出来事の忘却をしない・させない・許さない」という要素が強い。
生者は現在を、そして未来を生きているが、死者は過去を生きている。死者を蔑ろにすることは、過去を蔑ろにすることと同じだ。“怪談”というツールが有効な限り、“戦争”という過去を、“戦後”という刃物で分断することはできない。
そしてそれは過去を生きる死者への「鎮魂慰撫」であり、これから未来を生きる生者が抱く「戦争を忘れない・始めない」という祈念のきっかけになる。少なくとも、私はそう信じている。