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投稿者:ぶたたぬき - この投稿者のレビュー一覧を見る
現在の葬式事情を詳らかにした本。そんな印象。
著者は常々、葬式が資本の論理、つまり金儲け主義に侵されている現状に疑問を呈している。この著書の中にも、その主張がいかんなく発揮されている。
宗教に根差した儀式は、その国の文化の反映でもある。
日本文化が変化しているわけではなかろうが、葬式に関しては明らかに変化しているようだ。
それは家族のあり方の変化や都市と地方との違い、それに「葬式仏教」の現在への疑義もあるのだろう。
仏教とは結局、個人の悟り、我執からの解脱を重視することからも、俗人にはどうしても縁遠いものになりガチである。
それが葬式のあり方にも反映しているのかもしれない。
この著書を読んでいると、そんなことを考えさせられる。
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今の葬式って禅宗が始めたのかー、知らなかった。
基本的な論旨は同意なんだけど、残された生者の側から見た葬儀の意味について、もっと深く掘り下げてほしかったなあ。そこがないと、一般の人たちに向けた説得力はいまいち欠けるように思う。
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死とどう向き合うか、葬式とどう向き合うか、というよりも、
宗教とどう向き合うか、仏教とどう向き合うか、という話だったように思う。
かつて死は今より身近にあって、いつもそばで私達を見ていた。
元々は、いかに肉体の苦しみを和らげるか、ということが医療の目的であって、いかに精神の苦しみを和らげるか、ということが宗教の目的だった。
それらは「死を遠ざけること」と「死の恐怖を克服すること」のためにあるのではなくて、「死を受け入れること」のためにあった。だから医療と宗教は密接で、寧ろ同義だった。
けれどいつの間にか、医療の目的は「死を遠ざけること」に変わってしまった。死は忌むべき、克服すべきものとされてしまった。そして宗教と医療と死の蜜月は終わってしまった。以来、その3つは相容れがたく、けれどやはり分かちがたく絡まり合っている。
というのが、今の世界の姿なのではないだろうか。
今の日本には宗教が必要なんじゃないか、と思う。
人智を超えた災害とか、文明をたやすく破壊してしまう暴力とか、そういう圧倒的な脅威を前にして、静かに祈りを捧げる対象としての宗教が。
それをみんな薄々感じてはいて、でも宗教一般に対して20年来のアレルギー体質を持つ日本人はそれを言い出せなくて、だから国家事業と銘打ったハコモノを崇めたり、日夜魔女裁判に明け暮れて貼り付け炎上、磔、火炙り、そうやってみんなが一つの思想を持っていることを確認している。新国立競技場建設とは、21世紀の大仏建立なのかもしれない。
現代の日本に合った、新たな葬式の枠組み、新たな「死」のストーリーが必要である。
それはつまり、現代の日本人に合った新たな宗教そのものが必要とされているということなのではないだろうか。
結局、資本主義と寺壇制度が、今の日本人の宗教観と死生観をこんな風にしてしまった諸悪の根源なのではないか、という気がする。
もし日本人が、仏教ではなくて神道を選んでいたらどうだっただろう。でもそもそも神道は宗教とは言いがたい、ライフスタイルみたいなものだから、やっぱりそれでは「国家」たり得なかったのかもしれない。
しかし日本人の死生観を語るにおいては、そちらの観点もなくてはならないものだと思う。
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0葬ーーあっさり死ぬーー 島田裕巳
第1章 人を葬ることは相当に面倒である
第2章 なぜ葬儀や墓はこんなにも厄介になったのか
第3章 生老病死につけこむ資本の論理
第4章 死者が増えるから
葬儀で儲けようとする人々が次々と現れる
第5章 世間体を気にするがゆえに
資本の論理につけこまれる
第6章 仏教式の葬儀は本当に必要なのか
第7章 マイ自然葬、そして究極の0葬へ
第8章 人は死ねばゴミになる
宗教学者、島田裕巳氏による著書です。
現代における社会の動き、人の流れを
厚生労働省が示した社会のデータを証拠としてあげ、
それらが葬儀や墓へどのような変化をもたらしたかを示しています。
後半では、さまざまな葬法が紹介され、
島田氏は「0葬」を究極の葬法と示します。
葬儀を簡略化したとて、墓を建てれば金がかかる。
ロッカー型の納骨堂などが
注目されているが、骨を残すこと自体に疑問を投げかけています。
その解決法として、島田裕巳氏は
遺骨を手元に残さない、それは、火葬場で残された骨を「受け取らない」ことだと結論づけています。