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投稿者:やっこ - この投稿者のレビュー一覧を見る
この本は、鈴木大拙の、なんとしても仏教の精髄を伝えたいという想いに貫かれているように感じました。
彼の霊性に触れたといってよいのかもしれません。
しかし、書かれてあることを理解しようとすれば、論理の矛盾の突破、命懸けの体験を必要とするので、そのような体験がなければ分かりにくいだろうなと思いました。
仏教という大建築を載せている大支柱の一つは大智、もう一つは大悲。
2020/08/28 21:00
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投稿者:三分法 - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書の題名である「仏教の大意」の意味は、大智と大悲が仏教の精髄であるということである。大智は般若、大悲は大慈ともいう。ここで「大」というのは数量ではなくて絶対無限とか無量という意味である。大智と大悲は両両手を携えて行くといわれ、大智大悲の心は霊性の心であるといわれている。本書の最初に、われらの世界は一つではなく、二つの世界だ。二つの世界の一つは感性と知性の世界(差別・分別の世界、我を根拠としている世界、対象的世界)、もう一つは霊性の世界(無差別・無分別の世界)とある。分別するのが知性だから、知性の流行するところには必ず二元性が現れる。この二元性のゆえに苦が生じ、不自由な世界が随伴してくる。分別の世界を超越して霊性の世界に到達するために、霊性の動きに目覚め、いったん感性や知性を否定する、そうすると初めて感性や知性(分別)を動かしている者の根源に到達する。すると感性や知性に縛られていないということを自覚する自由な境地に至る、という。これを体得した人として、本書においては禅者(禅匠)、妙好人などの実例が語られている。たとえば、妙好人の讃岐の庄松については、知性的分別の世界に住んでいなかった。それかといってこの世界以外にも出ていなかった、二つの世界は一つであった、と紹介されている。
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コトバがほとんど心に入ってこなかった。ーー目の前に広がる大自然に無感情に佇む自分。大自然に囲まれて空気美味しいはず、、、心癒されるはず、、、という思い込みが頭にあるものの、身体がほとんど反応しない状態のようだ。彼の著作に直接触れる前に、彼の教えについての初級者向けコンテンツから入ろうと思った。
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仏教について初めて読んだ書籍
難しい。でも感覚的に分かるところも多い。
用語を落とし込むにはまだまだ知識が足りないけど、もっと勉強したいと思う内容
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仏教の大意
著:鈴木 大拙
紙版
角川ソフィア文庫 H104 4
知の巨人、鈴木大拙(1870/11/11-1966/07/12)が著した、仏教の集約の書(入門書ではない)です。裏表紙には、日本的霊性と対をなす名著とあります
仏教を英語で世界に広め、本書でも、その引用は仏典のみならず、聖書や、西洋哲学にも及びます。臨済禅を極め、円覚寺より、大拙の居士号を得る
李登輝総統の書に、大拙の名がありましたので、本書を手に取った次第です
英語で "The Essence of Buddhism" とあります
150頁の小書であるが、その内容は恐ろしく複雑であり、比喩や説話が多く、行ったりきたりしましたが、大拙のいう大意を得るにはいたりませんでした。
複雑な論理、智にがんじがらめになった現代において、仏教の理情の矛盾の上に成り立っている考え方は、今日行き詰まっている状況を打開する一つの考えになるのではないかと思いました
気になったのは以下です
大智
・我々の世界は1つではなく、2つ。感性と知性の世界、そして、霊性の世界です
・人生の不幸は、霊性的世界と、感性的分別的世界とを2つの別々な世界で相互にきしりあう世界と考えることからでる。渾然たる一真実の世界に徹せんことを要します
・無差別、無分別の世界を霊性の世界といっておきます。伝統的には、涅槃、菩薩、成仏、極楽往生などといいます
・知性は差別や分別の世界では物事の理解に欠くべからざる道具なのですが、無差別界にはいることとなれば、その必要性を失うこととなります
禅者が智を殺せというのはこの理です。殺すとは、それを超えるの義でありまして、ここではじめて存在の根源に触れることになります
・仏教は、真っ裸になることを要求します。
・仏教の根源義は、対象界を超越することです。この世界は知性的分別と、情念的混乱の世界であるから、ひとたびこれを出ない限り、霊性的直覚を体得して絶対境に没入することができません
・仏教、それを会得しようとするには、一旦は知性の領域を逸脱しないといけないのです。知性は分別をその生命とするのですから、何でも二つに分けないと承知しないのです。
・我執分別の念は、人間我のある限り取り除かれないものです
・思を尽くして度量しても仏智は測れぬ、仏智とは霊性的自覚のことです
・人間苦、これは業につながれているということです
・業の問題で、無分別と分別という矛盾
業が人間の生命そのものだとすれば、業を逃れるということは死するという義にほからならない。しかし、業繁苦からの解脱がないと、霊性的生活はないのです
・死んで生きなければならぬということ、業に繋がれていながらこれを離れること、ここに人間の運命の不可思議があるのです
・業繁の自覚と離業の努力は祈りという形で意識せられる。論理的にいうと祈りはまた、絶対矛盾である
・仏教のみならず、すべての宗教は、知性を排斥します
・知性は分析し総合するといいますが、いずれも限定性の対象を持っているので��絶対の自由ではありません。分析も総合も合目的性の上での話である
業繁からでてくる一切の煩悩、憂愁、不安は霊性的自覚の域に入りくることによって、解消させられる。行かんと要すればすなわち行き、住せんと欲すれば、すなわち住す。これが自由です。不可思議解脱です
・3本の線
①物理・自然的線
②知性・道徳的線
③霊性的線
知性・道徳的線から、物理・自然的線へ還るわけにはいかないが、霊性的線からは、物理・自然的線へは移ることができる
霊性的線の特異性は、絶対的受動性、または、絶対的憑依です
・霊性には霊性としての領域があって、それは、知性の分野を犯すものではない
両者の交差の円融無礙なのを、無分別の分別、分別の無分別という
・般若経の至るところに、「AはAにあらず、故にAなり」という論理が説かれてある
・不昧因果は、因果は因果にはあらず、故に因果なり
大悲
・仏教という大建築を乗せている二つの柱がある
①般若、または、大智
②大悲、または、大慈
智は悲から出るし、悲は智からでるので本来1つであるが、分別智では2つに分れる
大悲は生きた人格であるが、霊性的自の上に現れるので、神格とみてもよい
悲と智とは一丸となっているので、見る人からは、悲とのみ映ることもあり、智とのみ映ることもある
・華厳思想
事:個、特殊、具体、原子など、分別、差別という これを 色という
西洋では、形体(フォーム)という
理:事に反するもの、全、一般、抽象、原理という これを 空という
西洋では、質料(マター)という
色即是空空即是色 色がなければ空がなく、空がなければ色もない
円融無下 理と事は相互に鎔融する
・同時互即:華厳的宇宙観、法界観という
十面の鏡を、東西南北の八方と上下とに据え付けている喩えが使われる
・華厳経は、唐の法蔵、賢首大師の時代に頂点に達する
華厳の教えは、十に分割するのがならわしになっている、十全、すなわち完全な教えと言う意味である
・華厳の世界観を4つに分けることができる
事法界、理法界、理事無礙法界、事事無礙法界である
法界が4つあるというわけではなく、4通りに見られるというのである
・華厳の直観は2つある
①感性的、知性的直観 概念的、静態的、空間的
②霊性的直観 生命そのものの中に飛び込むから、空間的、時間的
・大悲心は、華厳の法界を動かしているものにほかならない
仏教者はこれに人格的相好を与えて具体化をしている。阿弥陀如来も人格化の1つです
・二元的対象の世界にいて、分別的論理の圏外に出ることができないと大悲の事事無礙法界に透徹することはできない
・人間はただ道徳だけで、生きていけないものである
・阿弥陀の側では48願、衆生の側では、不断の念仏と懺悔、宗教の本質はこれで尽きているのです
・何かわからないが、それだけのものでなくて、人間を超えた、そうして人間にもっとも関係の深密��何者かがなくてはならないという感じ、それに対するあこがれが、我々の方にあるのです
・分別面では二元論的対象の世界から離れられないので、すべてが、然り、と否とに領分されるのです
事事無礙法界では、あれも、これもで、いずれをも取り入れて、同時互即させます。
・衆生を苦しみから救うことが、とにかく、当面の大問題です。ここに菩薩道がある
・菩薩の大悲心なるものは、絶対で無限で無目的的であるが、それはただ、抽象的に概念的に一般的にしかいわれるのでなくてお、一事一物の上に、時間的空間的にもっとも具体的に動くということです
・日本の仏教では、禅は大智の面、浄土系は、大悲の面を代表するといっていいでしょう
・地に平和、天に栄光。浄土の荘厳と同じく、いずれも大悲心の発露にほかなりません。今後の世界を救うものは、この大悲心なのです。そうして大悲は、また大智でなければなりません。
目次
序
第一講 大智(1~7)
第二講 大悲(1~8)
解説 若松英輔
ISBN:9784044002244
出版社:KADOKAWA
判型:文庫
ページ数:160ページ
定価:600円(本体)
2017年01月25日初版発行