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「時間とは何か」という問いに対して,言語学の観点から接近する試み。時間の意味についてはメタファーでしか語り得ないと指摘し,「流れる時間」,「時は金なり」,「時間に追われる」といった言い回しに働く意識を分析する。
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難解…。モモの実例はわかりやすかった。「時は金なり」「功利主義」を表すのが「灰色の男」、「時は命なり」を表すのが「モモ」。
現代人は「時は金なり」から「時は命なり」へ価値観をシフトする必要があると、筆者はシンプルで力強いメッセージを送ってくれているのだが、この結論に至るプロセスが非常に難解。
言語学的なアプローチは、言葉の対となるメタファーを一つ一つ整理していくため、とても時間と手間がかかっている…本書の考え方を借りれば、命がけのアプローチといっても差し支えない。
真木悠介の時間形態の話はおそらく「気流の鳴る音」かと思う。読みたくても読めていない本のうちの1冊だから、今年チャレンジしてみたい。
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時間表現を精査して、人が時間をどのように認識しているかをモデル化していく。
時間を川の流れのようなものとイメージし、主体はその川の中にある。(河畔に立つというモデルもある。)
その場合、未来と過去はどちらにあるか?
実はどちらもある。
今から数日経った日を指して言う言い方に「○日後」といえると同時に、「○日先」とも言えるからだそうだ。
ここで私の目から鱗が落ちた。
自分自身はこれまで川の中にいて上流を見ながら、その方向を未来だとしか思っていなかったからだ。
ちなみにこの時間のモデル、青山拓央さんの『心にとって時間とは何か』にも出てくる。
割とこの話題では普遍的なモデルなのだろう。
時間を巡るメタファーを慎重に検討するくだりは、人によってはまだるっこしく思うかもしれない。
でも、最終章まで読み進めると、ある感動が沸き起こる。
言語学者(特に日本語学界隈?)は、現状を淡々と記述するひとが多い気がする。
が、瀬戸さんは、時間が、金や資源をメタファーにしている現状を憂えている。
そして、「命」を新しいメタファーにし、表現のみならず概念も刷新していくべきだと主張する。
優れた表現者が、そういう認識を共有し、作品を作ってくれたら、たしかにそういう方向に変わっていけるかもしれない。
そして、そんな方向に変わっていくのもすてきだな、と思う。