私も気になる金持ちの家の中
2019/01/28 16:36
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投稿者:ふみちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
金持ちの家の中というのはなかなか見ることができないし、それも有名人の家の中というとなおさらなのだが、この作品に登場する西さんはとにかくこの家の中が見たくてしかたがなくて、とうとうそこの家族と友達になってしまって侵入に成功してしまうのだが、この人が嫌な人ではなくて、ちょっと変わっているけど愛すべき人として描かれている。大けがをしてまでもその家の浴室をのぞいてみたいなんてとにもかくにも変わった人なのだが、私も好きかもしれない西さん。でも、私も昔、とても気になっていた洋館があったのが、とても西さんのような行動はとれなかった。あの家には、一体どんな人が住んでいたのだろうか。
柴崎友香の小説には不思議な雰囲気のものが多いが、ここに収められたものにはその感じがより強くする
2019/01/21 18:06
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投稿者:まなしお - この投稿者のレビュー一覧を見る
不思議な小説群である。柴崎友香の小説には不思議な雰囲気のものが多いが、ここに収められたものにはその感じがより強くする。特に「春の庭」では、唐突に語り手が変わる。それが不自然ではなく感じられるのが面白い。
中々心が持っていかれなかった
2018/02/12 15:42
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投稿者:もちっこ - この投稿者のレビュー一覧を見る
初めて手にした作者です。賞をとられたそうなので読んでみようと思った次第で。。。
受賞作を含めた短編で、建物に関連する話でした。「春の庭」は、そこまで家にこだわりかと疑問を投げ掛けてしまうぐらいの執拗さ。登場人物の性格・性質がこうだから芥川賞なのかと深読みしてしまいました。
読み進めていても心が入り込めず、情景は想像しやすいのですが話の流れもいまいち。
私が未熟なせいか良さがわかりませんでした。
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投稿者:ねこまる - この投稿者のレビュー一覧を見る
芥川賞受賞というのに惹かれて買ってしまったが、文章、描写は別に嫌ではないものの、内容に全く入り込めず、読後も「どうして賞を取ったんだろう」と思ってしまった。
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投稿者:イシカミハサミ - この投稿者のレビュー一覧を見る
終始ピンとこなかった。
おそらくは自分が登場人物にばかり目を向けてしまったからだ。
この物語はうつりゆく建物の話だ。
個人的には、建物なら、終わってしまった物語のほうが興味がある(廃墟)
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【心が解き放たれる芥川賞受賞作!】アパートの住人の好奇心が、堆積した時間と記憶をひもといていく芥川賞受賞作「春の庭」はじめ、街の息遣いが聞こえる小説集。
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とてもよかった。思わずほっと息を下ろしてしまうような安心感と、内側から満たされるような温かさ。柴崎友香の小説はどれも読んでいると、「世界は私に開かれていて、受け入れるのを待ってくれている」という感覚になるが、今作は特にそれが強かった。この小説世界に生きられたら……。この作品から受ける感触は本当に温かく、包み込まれるような感じさえする。よく考えたら登場人物たちは、おそらくたいして満足いく生活や人生を送っていないのだが。そこそこの年齢で結婚もしていなければ、友人知人も仕事場の関係しかなく、収入も多くない。そんな生活でも「縁」によってこれだけ支えられているし世界と繋がっているんだよ、というメッセージを感じる。縁とは「その時その場所にいることそのもの」なのだなあと。ある時のある場所を写した写真集というモチーフにそれが端的に表れていると思う。今回とみに感じたのは、繋がりが時間的にも空間的にも宇宙的広がりを持つと同時に精神の内部にまで浸透するような感覚。それは解説にあった人称の入れ替わりや俯瞰視点の導入が効果覿面だったのだと思う。それらの手法の使い方に過去作品と違う工夫を感じた。この作品で芥川賞なのもとても納得できる。歴史でも科学でも物語でも、関係のなさそうな物事が実は繋がっているということに感動しない人はいないと思うが、それは特別なことではなく、凡庸な私たち一人一人の存在や生活の営みもその例に漏れるものではないんだよというのが柴崎友香の一貫して伝えようとしていることなのではないかと思い至った。
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芥川賞受賞作ということで柴崎さんの作品を初めて手に取りました。
「春の庭」は水色の家を中心にそれを好きな人とアパートの住人との
日々の日常生活模様が淡々と描かれていています。
読解力の不足なのか想像力が乏しいのか
何が伝えたいのかよく分からず、心に響くものがなく、
頭にも特に残ることなく終わってしまいました。
ただいくら身内の物の形見と思っても
太郎がすり鉢と乳鉢をいつまでも持っていたのが薄気味悪かったです。
主人公の太郎が途中でわたしになったり、
視点も太郎から違う人へと変わったりと
一人称から二人称になったりと変化するので少しややこしかったです。
それが文章のトリックなのかとも思いましたが。
「糸」、「見えない」、「出かける準備」も
ある建物を中心としてそれを取り巻く人々の日常が描かれていましたが、
情景は事細かく描かれているので想像しやすいのですが、
人の心情や行動などがあまり描かれていないので
心にピンと伝わるものが無かったです。
つい何かが始まる気配があるとこれから何かが起きるのかと思い
それを期待しながら読み進めますがそれが無く淡々と過ぎていく。
こんな感じが現実の日常というものかとも思いました。
何とか理解しようと同じ個所を何度か読み返してみたりしたのですが、
あまり伝わるものがなくて、まるで国語の教科書でも
読んでいるかのようで肌にあまり合わなかったようでした。
このような独特な世界感が芥川賞それとも純文学というものかとも思えました。
柴崎さんの作品は他にもまだあるので、他の作品を読んでみたら
また印象も変わるかと思うのでその機会を楽しみにしたいと思います。
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たとえば、ドキドキとかワクワクとかそういうものを求めて読むとがっかりするかもしれないけど、なんとなくけだるい午後に午睡の合間に読むのにはうってつけかも。
世の中の、がつがつした人たちから距離を置いて生きている、普通だけど少し癖のある、そんな人たちの物語。
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淡々と進む日常の中で「春の庭」をめぐる小さな冒険がはじまる。でも、何も起こらず、変わらない。時間が流れても、取り残されたものは太郎と春の庭だけだった。
芥川賞らしい起伏の少ない話。
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『ソーセージマフィンは、予期したとおりの味だった。ハッシュポテトもミルクも、過剰でもなく不足でもなく、それは快適ということだと、わたしは思った』―『出かける準備』
柴崎友香の作品で一番好きな作品はやはり「きょうのできごと」ということになるなのだけれど、これはジャームッシュの「ナイト・オン・ザ・プラネット」という映画を彷彿とさせる設定のオムニバス的作品だ。但しジャームッシュの映画には必ず出てくるとても個性的な人物が登場したりはしない。ただゆるゆると過ぎてゆく一日の中に流れる輻輳的な物語(それは毎朝の混み合った電車の中にもあるに違いない物語)の描き方が似ていると思うのだ。そんな非日常ではない日常を描いた作品は、様々な批評で何もない物語というラベルを貼られてしまっていたけれど、映画やドラマのようなできごとが起こらなくても一人ひとりの頭の中はその都度立ち上がる思考や気付きで充分に満ちているということを改めて実感させてくれる作品だ。保坂和志が柴崎友香の作品を批評して、優れた動体視力、という言い方をしていたが、まさにその通りと思う。なにしろ「カンバセイション・ピース」の保坂和志が言うのだから、間違いは無い。
そういう動体視力に裏打ちされた文章は読み手に色々な思考を促す効果があるようで、柴崎友香の作品を読んでいると思いが彼方此方の脇道に入っていってしまう。そのせいか、この「春の庭」は単行本が出た時にも読んでいるけれど、文庫本で読み直して見ても、不思議と新鮮な印象がある。そして、単行本には含まれていない三篇と併せて読むと、またしても柴崎友香とジャームッシュの相関が見えてくる。この作品に対峙するのは「コーヒー&ジガレッツ」というやはりオムニバス。エピローグの唐突感、切り離されてはいるけれど、中空を漂い続けるモーメンタム。その感じがジャームッシュのこの作品とよく似ている。ジャームッシュは物語を説明的に語らない代わりに登場人物の語りや、小道具に意味を託したりするのが上手いと思うが、柴崎友香も登場人物に内面を細々と語らせたりはしない代わりその人物が見ている景色を描くことで何かを伝えようとする。その映像的手法は、言葉に成り切らない感情を巧みに描写するように思う。人は見たいものしか見えないということを柴崎友香はよく解っているのだと思う。
最近、貼られ過ぎたレッテルに敢えて挑戦するような作品も手掛けている柴崎友香だが、ひょっとすると「春の庭」は最も柴崎友香らしい作品として残るのかも知れない。もちろん、どんな作品を書いてもこの作家の個性は常にそこにあるのだけれども。
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表題作、とてもよかった。西さんがすごく可愛くて、水色の家への異常な執着もとてもリアル。あと巳さんが西さんと主人公が部屋にいるのを見てニヤニヤするのも好き。なんか、西さんと主人公ができちゃったらいいなーと思わされる。2人の出会い方や仲良くなり方、でも特別に親密にはならない距離の置き方が、すごく愛おしい。
最後に姉の視点が紛れ込んでくるのはよくわからなかったが不快ではない。堀江敏幸先生の解説もなるほどと腑に落ちる。一昔前、卒業証書にサインしてくださいと頼んだら、それはやめておきなさいと忠告してくれた堀江先生。
他には最後の短編もしみじみとよかった。最後らへんの友達へのモノローグが急にどどどっと流れてくるところ、感情の激流ってそういう感じだよなーと思う。
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何気ないことが気になって仕方がないという経験は誰しもあろう。しかし何気ないものを追って、ここまでシュール且つ人間味あふれるドラマを作りだした経験はそうないはず。庭の眺望。しかも「春」という限定付き。発想がいい。
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難解な作品だな、というのが感想。
途中までは何も起こらない、だけど何も起こらない故の面白さみたいなものが感じられて、スイスイと読み進められたのだが、作品の終盤近く、視点が三人称から「太郎」という登場人物の姉に唐突に変わってからは、作品の様相がガラリと変わってしまったように感じられた。
視点どころか、過去・現在といった時系列も入り組んでしまったように感じる。
しかも視点は姉に変わっているはずなのに、いつのまにか三人称、つまり変わる前の状態に戻ってしまっているようにも読める。
ネットで検索してみると、この視点の変化については色々な意見が出されているのだが、「これだ!」という解釈は(当然のことながら)出されてはいない。
少なくとも、作者は何かの意図をもってこういう書き方をしているのだから、単純に「読者を驚かせるための効果」などという軽視の仕方は出来ないだろうと思う。
いずれにしても、この視点が変化してからの二十数頁が存在するおかげで、僕にとってこの作品は「何がなんだかよく判らないけれど、何かが間違いなく存在している」魅力ある作品となった。
そういう意味でも(少なくても僕という読者にとっては)この視点の変化は必要不可欠だったことになる。
書き忘れそうになったけど、第151回芥川賞受賞作品である。
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(もののやりとりは図形的? 太郎は中継地点?)
ままかり:沼津→太郎→巳さん
コーヒードリップ:巳さん→太郎→会社
ごぼうパン:会社の社長→太郎
写真集:西→太郎
鳩時計:西→太郎→沼津
手作りクッキーなど:実和子→西→太郎
毛蟹:沼津→太郎→西→実和子
引っ越しの家具:森尾実和子→西と太郎(ソファだらけの部屋)→わたし(姉)に緑色のソファ
美術展の招待券:会社→太郎→巳さん
姉→弟、二段ベッドの窓からオレンジの明かりを見て寝入る云々。
犬を埋める挿話……沼津と太郎と。
折あるごとに父を思い出している。巳さんは父と、西は姉と重ねられている?
部屋の名前、人の名前にも法則? 近隣地図は?
十二支……回帰と、それぞれの人生の一回性
西の風呂場への執着→太郎の庭の穴への執着。と欲望・執着の連鎖。何が埋まっている?
すり鉢と乳棒と、トックリバチの巣は、水色の家の庭に埋める。掘り返したら石ばかりだった。
立ち退きと取り壊しが決まっているからこその、太郎ー巳ー西の交流。最終的には誰もいなくなるのだ。
春の庭というわりには一年くらい季節が推移している。
宮沢章夫的「時間のかかる読書」ができる。あるいはドストや春樹がよくターゲットになっている「謎とき」か。