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古井由吉の小説はいつも新しい発見に満ちている
2016/09/05 19:48
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:まなしお - この投稿者のレビュー一覧を見る
相変わらず難解な文章である。特に難しい言葉で書いているわけではないのだが、表現の仕方に違和感がある。今までに読んだことのないような表現で文章が書かれている。でもこのようなことは自分も経験したことがある。そのようにも思わせるのだ。このようなことは自分も経験したことがある。でもこのように言葉として表現されたことはなかった。だから、古井由吉の小説はいつも新しい発見に満ちている。
「人生」と「色気」
2010/06/13 20:22
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:king - この投稿者のレビュー一覧を見る
去年の暮れに出た「人生の色気」は買うまで小説だと思っていたら語り下ろしの本だったのに驚いた。で、この「やすらい花」のほうが「白暗淵」以来二年ちょっとぶりになる古井由吉の連作短篇集。同時に「群像」誌のほうで新連作が始まっているのは恒例のことになるだろうか。
古井は東京大空襲を体験したことが強いインパクトとしてある作家で、たいていの連作にはひとつくらいそこらへんのことを題材にしたものがある。前作では冒頭のものがそうだし、今作では「涼風」や「瓦礫の中で」がそうだ。しかも、ただ戦災を語るのではなく、そうした死に満ち満ちた状況のなかで、男女の交わりを目撃したという体験があり、死と性の密接な絡まり、あるいは、死に近づくほどに性が昂進していくのが古井作品の一つの大きな特徴でもある。つまり「人生=死」と「色気=性」なわけだ。
そのあたりのことは「人生の色気」でこう語っている。
僕は作品でエロティックなことをずっと追ってきました。その一つの動機として、空襲の中での性的経験があるんですよ。爆撃機が去って、周囲は焼き払われて、たいていの人は泣き崩れている時、どうしたものか、焼け跡で交わっている男女がいます。子供の眼だけれども、もう、見えてしまう。家人が疎開した後のお屋敷の庭の片隅とか。不要になった防空壕の片隅とか……。P61-62
もうひとつ。
死と性のイメージが切り離されると、関係の粘着性がなくなるものです。ある人の奥さんが亡くなって、お通夜に行って、その母親にふっと色気を感じたりします。そこで何かがつながって、業というものが出てくるわけです。P117
今作でまた印象に残るのは死んでいく人物の背中、だろうか。とにかく人が死んでいく、あるいは死に近づく(病院が頻出する)なかで、「生け垣の女たち」の老人や「朝の虹」の男のように、死んだ者について回想するという構成をもつ作品がある。彼はどんな人物だったのか、なぜそうしたのか、何故死んだのか、というような謎が死者の顔を隠して、ただ、死んでいった、というその背中ばかりが浮かび上がってくる。古井には「背中ばかりが暮れ残る」という短篇があるけれど、まさにそういうしかない印象を残す。
中世説話を深読みしてみた「牛の眼」なんかも面白い。全体的にやや静かな印象がある本となっている。
上でも引用した「人生の色気」は、さまざまな相手を同席しての聞き取りを編集して、誰かに話かけているような一人語りという塩梅になっている。自身の四十年の作家人生を振り返り、幼少期の体験からはじまって、同世代の「内向の世代」についての話や、その他文学、社会、性などなど、上にも少し引用したような古井由吉らしい視点が面白い。これもお勧め。
「人生の色気」
Close to the Wall
持続について
2010/09/26 01:29
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:わたなべ - この投稿者のレビュー一覧を見る
あいかわらず緩やかに連関した短篇を集めて一冊にしたもので、こういうスタイルは仮往生伝試文から白髪の唄で一時期峠をなして以降の連鎖的な短篇創作とでもいった感じでここ数年持続しているのだが、そもそも作家生活の初期の頃から一貫したモチーフ、たとえば空襲のなかでの群れ、あるいは群れの中での人間と性、そもそも群れとしての男性と女性であるとか、土地の根から外れた男女の新世帯を現代の創世神話のように描くそれ自体明治期以降の文学者たちに課せられたかのような「生活の創世」とか、あるいは無音のざわめきとか無明の光とか生きていることが、そのままで死んでいることであるといった印象的なフレーズの反復であるとか、まあ撞着と逆説を組み合わせてほとんど神秘主義(哲学)的な、しかしベースにはむろんざらっとした現代的感触、それをまあ都会的孤独とか世界の断片化とか、そういうふうに言っても良かろうと思うのだが、もちろんそこには、ドイツ語の翻訳経験を媒介にしてその上で日本語の文学の歴史(その経験の層)に遡行して言葉のフェティッシュな様相を現代に再導入する、というか、いわば文学が発生しない現代という磁場に、日本語文学の経験の層から「ことば」の呪言的な力を呼び起こして作者流にいえば「色気」をさぐる、とでもいった錬磨された文章によって艶めきを与えられてはいるのだが、しかし、単に文章の洗練、レトリカルな部分を越えて、最近ではもっとあからさまに、中期の作品群(たとえば「聖」三部作)のようにジャンル的な枠組み、物語のある種の類型に沿って、ほぼ通俗的といって差し支えないような物語の「決めた」展開、あるいは「決め台詞」的な文章、といったものがほとんどその技法を誇示するが如くというよりもむしろ手の内を舌を出して暴露するようにあっけなく提示されるのだが、このあっけなさは何か、と訝らずにはいられないのだけれども、もちろん一般に、否定に否定を重ね、そのことによっていわば負の弁証法を発揮して超越を呼び込むのが神秘主義というものの仕組みであってみれば、古井の撞着の技法は、むしろもっと意地悪とさえいってよく、否定の空白の、その空白に耐えられない人間の「性(さが)」とでもいったようなものが、ぽつりぽつりと、残響のように溢れる、といった体のもので、たとえば沈黙のうちで流れる声は、どこか他所から流れてくるようで、実は内からのものであり、さらにそれは超越ではないので、古井の書く声の響きは、おそらくは神秘ではなく、むしろ神秘の不可能としての自我の放漫さにあるのではないか、と思ったりもする。
ともかくほとんどいちゃもんのような疑義をのぞけばほぼ絶賛のうちにありながらほぼまったく作家論的に分析の対象とされている様子の見えない最近の古井由吉である。「批評」がほとんど流行語のようになっている昨今なのだからもう少し彼を語る言葉があって良さそうなものなのだが、ある意味でこの持続の息の長さに真っ向からつきあえる「時間」が、現在の「文芸誌」にもっとも欠けているものなのかもしれない。
この老人の性と生へのあくなき執着を見よ
2010/05/27 23:03
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:あまでうす - この投稿者のレビュー一覧を見る
一羽の胡蝶によって夢見られた酔生夢死の奇譚が、耳を傾ける人とてなく、とつとつ語り継がれております。そのさま在原業平のしどけなき恋物語を、あるときは漂泊の詩人西行法師の高雅な法話を、またあるときは耳無芳一の流麗な琵琶さばきを聴くがごとし。
いかにも面妖な食わせ者のこの老人は、古今東西いかなる風体のいかなる存在・非在のものにも軽々と身をやつして、囁くがごとく、啼くがごとく、またあるときは嗤うがごとく、風のように浮かび、水のように流れる物語のやうな独吟を臆面もなくわれわれに送ってよこすのです。
この端倪すべからざる風癲老人はまだ生きておるのか、もうとっくの昔に死んでしまっているのか、生きながらに死んでいるのか、それとも死んでいながらなお生き延びておるのか、されさえも定かならず、彼岸と此岸、男と女、仙人と童子の領域を自在に往来しながら一種の悟りごとき箴言をのたまい、弱法師の能面をつけて風雅の踊りをひとさし舞ってみせるのです。
古典文学の精華と現代文学の「これまでの蓄積」がほどよく熟成された見事な作品ではあるけれど、「いったいそれがどうしたの?」と尋ねたら、どこからも誰からも返事がなさそうな、そんな虚しさも内蔵する珠玉の短編集、であります。
それにしてもこの老人が小説の登場人物に仮託して描き出す、性と生へのあくなき執着にはほとほと感嘆せざるをえません。
ああ、この古狸め!
♪なにゆえぞ広告を商う君(われ)の顔卑しき 茫洋
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