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投稿者:江湖之処士 - この投稿者のレビュー一覧を見る
フェノロサ、岡倉天心が再発見した奈良大和の文物について、天心が東京帝大で講義をした、その講義ノートである。この講義を受けた和辻哲郎は天心が「君達はまだあの仏像を見ていないのか、それは幸せだ」と語ったと記している。あの仏像を見るというすさまじい感動をまだ味わい得るからだ。今我々が当然の様に自分達のルーツとして語る大和。それが再発見されてあまり間が無いと知ることは自分達の相対化に大きな意義を持つだろう。
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(2005.09.24読了)(2005.07.29購入)
天心の著作は、英文で書かれているものがほとんどなので、天心の文章に接する事は、なかなかできないのですが、この本も天心が講義したものを受講者が書きとめ、後世に伝わったというものが大部分で、天心自身が書いたものは、10ページ足らずの「日本美術史論」(未完)のみということです。
「日本美術史」240ページ、「日本美術史論」10ページ、「泰東巧藝史」90ページ、別表40ページ、という形で構成されています。
「日本美術史」は、1890年から3年間講義したものということです。遺された筆記録も、この3年間のいずれかの年に記録されている。
文部省時代に古社寺宝物調査をしているということなので、その時の体験を交えながら、日本美術の特徴、独自性を述べています。自分の目で本物を見、調査している強みを十分活かしているようです。
時代区分を設け、各時代の特徴を述べるとともに、その時代の代表的人物の紹介もしています。
●書き出し
「世人は歴史を目して過去の事蹟を編集したる記録、すなわち死物となす。これ大なる誤謬なり。歴史なるものは吾人の体中に存し、活動しつつあるものなり。畢竟古人の泣きたるところ、古人の笑いたるところは、すなわち今人の泣き、あるいは笑うの源をなす。」(まず、歴史を学ぶことの必要性から入っています。)
●東洋画と西洋画の違い(33頁)
「東洋の画は始めより書と同一の起源を有し、なお今日におよべり。西洋にてはギリシアのごとき彫刻をもって主とし、画はこれに従って発達せり。ゆえに西洋画は陰影をもって主としたり。しかして十四五世紀にいたりて、絵画始めて彫刻を離れて独立するを得たり。ゆえに西洋は彫刻とともに進み、東洋は書とともに進めり。されば東洋は西洋の陰影に代わって線の大小をもってす。諺にいわく、書をよくするもの画をよくすと。ゆえに筆力は東洋絵画の基本となり、もって今古に通ぜるものというべし。」
●中国六朝時代の絵の評価方法・謝赫の六法(43頁)
「第一、気韻生動とは思想の高尚なる点を指せるものなるべし。これを第一に置けるは、画の主意は気韻にあるを述べたるなり。第二、骨法用筆とは画の組織用筆のことにして、画には筋たり骨たるものなかるべからず。これをもって第二位に置けるは、東洋画の書と連合して成れるに基づき、用筆は画の精神となり、形の妙に止まらず筆の妙を有せるをもってなり。第三、応物象形とはいわゆる写生にして、西洋画において必ず第一位に置くべきものなり。しかれども、写生をもって第一とするときは、写生には美は全くなきことあり。第四、随類賦彩。これは物に随いて彩色することなり。しかして濃淡の理も自らそのなかに含蓄せる物と知るべし。第五、経営位置。画を作るには、主たるもの、客たるもの、各々別ありてこれを経営する謂なり。第六、伝移模写。古画を模するなり。当時は古画模写を重んじ、ここに置きたるならん。」
●正倉院の宝物(78頁)
「天平の遺物が千百年の間、依然として存在するがごときは、変乱相次ぎ主権の移動つねなきかの諸外国のごときにおいては到底望むべからざることにして、かの欧人のつねに誇るポンペーの古物のごときは実に偶然の結果の遺物にして、わが正倉院のごときは、これを保存せんとして保存し得たるなり。」
●時代による美術の変遷(116頁)
「階層より言えば、天平は僧侶、延喜は貴族、鎌倉は武家美術なり。徳川は一般におよび、浮世絵のごとき下等社会の美術あり。しかして現今、美術は普通一般のものとなれり。各時代その性質を異にす。ゆえに時代の性質を知りて美術を論ぜざれば、これを解すること難し。天平は僧侶の美術にして一般階級のものと異なり、また鎌倉時代において、合戦絵巻のごときは当時最も多く画かれたるものなれども、これいかなる階層の愛せしやを知らざれば、その意を解する難し。しかして延喜時代は殿上人の美術なることを記憶して、これを観察せざるべからず。」
●岩佐又兵衛(1578-1650)(189頁)
「世に又兵衛と称する絵を見るに三種あり。第一は土佐風の浮世絵にして、彦根屏風の一派なり。第二は本校蔵美人琴辺に座する図等に見るものにして、狩野の性質を帯びたり。第三は後世の師宣風にして、元禄以後のものなり。この三種中いずれが真の又兵衛なるか、これを定るまことに難し。岩佐又兵衛と浮世又平とを混ずべからず。」
(現在は、岩佐又兵衛と浮世又平は同一人物とされている。天心は、全く別人だといっている。)
●応挙について(232頁)
応挙の絵(七難七福の図)は「その図一々真に迫り、これを見たる後、二日間くらいは不快なる感情を存するほどなり。これ応挙の長所にして、また短所というべし。厭うべき事実を写して、厭うの情を生ぜしむるは写生なれども、美術なるものの境界は、その厭うべきを写して、厭うべく感ぜしめざるにあり。」
☆関連図書(既読)
「茶の本」岡倉覚三著・村岡博訳、岩波文庫、1929.03.10
「宝石の声なる人に」岡倉覚三・プリヤンバダ・デーヴィー著、平凡社、1982.10.15
著者 岡倉 天心
1862年 横浜生まれ
東京大学で政治学・理財学を専攻
文部省に入り古社寺宝物調査に携わる
1886年 欧米視察
1888年末 東京美術学校開校
1890年 東京美術学校校長心得
1898年 日本美術院創設
1904年 ボストン美術館東洋部長
1913年9月2日 死去、享年51歳
(「BOOK」データベースより)amazon
岡倉天心の「日本美術史」は、日本で初めて試みられた体系的な古代から近代にわたる美術史講義である。未完に終わった論考「日本美術史論」に加え、日本を含めてアジア美術史を叙述する「泰東巧芸史」講義を併録した天心の美術史観・歴史観の全貌。
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岡倉天心の思考の切り口、視点を追体験できる本です。
日本史の文化史を学んで興味を持っていれば、さらさらと読めるでしょうが、岩佐又兵衛あたりになってくると、絵が好きか否かもポイントになってくるのかなと。
楽しく読める読めないのお話しです。
美術、文化がどのように変遷したか歴史ももちろんなぞることができます。