社会学に大きな影響を与えたデュルケームの記念碑的一冊です!
2020/03/07 11:54
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投稿者:ちこ - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は、「社会学の祖」として知られる偉大なるデュルケームが1895年に著した非常に影響力のある一冊です。デュルケームは、社会学というものを研究するにあたり、その対象として、社会学固有で、そこにしかないものとして「社会的事実」という存在を提唱しました。そして、その「社会的事実」とは、社会を構成しているのは個々人であり、しかしその個々人の総体がイコール社会ではなく、社会とはもはや生物有機体たる一つの全体であると主張しました。社会学というものに、その確固とした研究対象を与え、後の機能主義やシステム論、エスノメソドロジーなどに大きな影響を与えたデュルケームの記念碑的書とも言えます。
定義とルールの混沌
2018/10/17 11:23
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投稿者:とめ - この投稿者のレビュー一覧を見る
ある社会的事実の決定要因は、個人意識の状態の内にではなく、先行する社会的事実(歴史)の内に探求されなければならない。そして、社会学が要求するのは、ただ因果律の原理を社会現象に適用するのを認めることのみ。現代社会を読み解くヒントを与えると共に賛否両論ありそうな書。
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どういった観点で「社会」を見なければならないか、どの様は基準を設けるべきか、あるいは設けてはいけないかを論じている。西洋的価値観に基づく観点を捨て、その事象を一つの事実として認めるよう訴えている。ある社会では悪徳とされることであっても、別の社会においては称賛される行為があるとき、称賛される社会を異常や例外とするのではなく、その事実を受け止め、なぜそのような違いが生じたのかを検証することこそが「社会学」となる、ということである。これを主軸として、通俗的な物の見方を改めることを勧め、暗黙の了解で使っていた様々な言葉に対してきちんとした定義を与えることを求めている。また、思い込み、決めつけ。そうでなければならないという態度を戒めている。哲学の延長線上、あるいは哲学の一部であった「社会」の研究を、「社会学」という学問へと昇華させたきっかけとなった著作であるが、事実を事実として受け止めることの難しさも見て取ることができる。
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「社会はなぜ右と左に分かれるのか(ジョナサン・ハイト著)」で保守の道徳的源流として幾度となく引用されていたデュルケーム。そこでは、道徳がもたらす規制が人間をして協力的な社会の構築を可能にする、道徳の機能主義的な描写がなされていた。直後に読んだ「現代経済学の直感的方法(長沼伸一郎著)」ではデュルケームへの直接の言及こそないものの、現代資本主義の閉塞を打破する契機として、宗教や愛国心などの「大きな物語」による伝統的社会の保存の必要性が説かれており、デュルケームのいう紐帯としての宗教のアイディアとの共通点を感じた。こうして、永らく読もうと思いながら躊躇していた本書を読む機会がようやく到来したのだった。
まず本書を読み始めて最初に目につくのは、先行するオーギュスト・コントとハーバート・スペンサーの社会研究への辛辣な批判だ。社会をひたすら記述的・方法論的に扱うことを良しとしていたデュルケームは、コントらの観念的・規範的な物言いを「予断」だとして断罪している。急速に進む近代化と進化論を背景に、人間の精神がいかに近代へと進化してきたかを通時的に論じたコントらだが、デュルケームにしてみれば、社会を「物」として直接扱うのではなく主観的な「観念」を議論の対象とすることが、いかにも隔靴掻痒なものに思えてしかたなかったのだろう。なお「物として」の社会とは直観的にやや理解し難い概念だが、第二章の犯罪と刑罰のアナロジーにあるように、概念の外的な現れとしての可感的な客観を指すものであるらしい。
デュルケームの方法論の肝は、哲学がタイプとして、歴史学がトークンとして扱ってきた社会種を統合的に扱うことにあるようだ。まず最も単純な社会を基礎として、各社会の統合の度合いに応じて社会を分類する。そしてそれぞれの社会を科学的に説明する方法論として、予断に流されがちな目的論(「何のために」)ではなく、その機能(「何をしているか」)に基づいて社会現象を評価する機能主義が提唱されるのだ。個人的にはここでアリストテレスの始動因が持ち出されるのが興味深かった。
社会を個人の集積とみなすスペンサーへの反論の中で、個人意識への外部からの圧力こそが社会の本質であると喝破するデュルケームだが、ここに宗教(カトリック)という重しを失った当時の社会に対する危機感が見て取れると思う。デュルケームによれば、全体(全体)は単なる部分(個人)の総和ではない。個人を超えた結合・連帯が社会を形成しているのであり、このことを「拘束」という形で保証していたのが例えば宗教などの外部性であったのだ。訳者あとがきではこのことを裏返して、社会的結合を志向する不断の努力こそが個人を社会に統合づける力であるとされている。
デュルケームが活躍した19世期後半というのは、従来型のカトリックによる社会的統制が崩れ、資本主義経済によるコミュニティ解体が猛威を奮い始めた頃だった。そうすると、社会を統合する何ものかに対する希求の高まりという意味では、現在と当時は共通するところが多いのかもしれない。
なお本書の訳としては岩波文庫版が定番とされているようだが、��の講談社学術文庫版はこの手の翻訳としては驚くほどこなれていて読みやすい。訳出者の相当な苦労の賜物なのかもしれないが、僕のような初学者にとっては誠にありがたい話だ。
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「社会的事実」とは、個人に外的拘束を及ぼしうる行為様式であり、それ個人から独立した存在性を持つ。
「社会的事実」は、物として扱わなければならない。つまり、観念や意識から独立した、科学の対象となる客観的な物として。
このように社会学固有の対象としての「社会的事実」の概念を打ち出した本書は、社会学確立の記念碑である。
社会的事実について、規範から外れるかもしれないことを企図すると個人は強い心理的抵抗を受け、それを実行に移すとしばしば現実的抵抗を受ける。個々人を超えた「かのような」社会的な拘束性はたしかに感じられる。
そのような個人に還元できない「社会的事実」の概念を打ち出した功績は大きいのだが、あくまでも「擬制」として有益なのであって、デュルケムのように「実在」としての側面を強調することにはためらいがある。
やはり実在するのはあくまでも個々人であり、社会的な現象はあくまでも個人と個人の関係性で理解を試みなければならないようにも思う。
もちろん、それには労力がかかりすぎるので、マクロな現象を永遠に論じれなくなる。それを乗り越えるための技術として社会的事実の概念は必要かもしれない。だけど、個人から説明できるものはそのようにすべきだろう。それではどうしても説明のつかない場合に社会的事実のような概念に頼る方がよい。
デュルケム自身も個々人の心理には還元できない現象を示した上で社会的事実の実在性を論じれば説得的だが、彼のわずかに示した実例では論拠が弱い。
あとがきを読むと、そもそも「個人」を観念しうるのは「社会」(2人以上の人の共在)があるからであり、その意味で個人の実在と同じレベルで社会も実在するというのも、観念的には理解できる(この「個人」は個体とは異なる)。ただし、それも言葉の問題であるし、デュルケムがそのような意図なのかは分からない。