感情の認識ということについて科学的に説明した書です!
2019/01/30 09:40
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投稿者:ちこ - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は、感情の認識ということについて科学的に解説した書です。私たちが、何かを見たり、触ったり、聞いたりした時、それが神経を伝わって身体的変化がおこり、それが感情の基礎となって脳内に表象されます。では、この感情はどのようにして、私のものとして認識されるのでしょうか。この問題認識をテーマに、様々な科学的理論を駆使して、解説してくれる非常に興味深い一冊です。
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本書は、「意識とは何か、意識は人間の脳の中でどのように構築されうるか」について、著者である脳神経科学者アントニオ・ダマシオ自身の考えを述べたものである。ダマシオの知見は、主には脳の部分機能障害から生まれる神経疾患患者の研究により形成された。「癲癇性自動症」や「無動無言症」「監禁症候群」などがそれである。それゆえ、脳の構造と意識に関わる機能を具体的な根拠となる症例まで踏み込んで説明されており、かなり骨太な内容になっている。丁寧な説明のおかげで腰を据えて読めば大きく道筋を外れることはない(と思う)。
意識について、第一章では次のような事実から始めるべきであるとしている。
・意識のプロセスのいくつかは、脳の特定の部位やシステムと関係づけることが可能である
・意識と覚醒は分離可能である
・意識と情動は分離できない
・意識は一枚岩ではない - 「中核意識」と「拡張意識」に分離できる
・中核意識は、言語、記憶理性、注意、ワーキングメモリなどは必要ない
この辺りはさらに先に読み進めないと何を意味しているかわからないかもしれないが、著者が理論構築する上での重要なポイントとなっている。
以下、いくつかのポイントに分けて内容をまとめてみたい。
【情動と感情】
アントニオ・ダマシオの理論の特徴の一つに、身体性/体感性の重視とともに「情動(Emotion)」と「感情(Feeling)」とを明確に区別していることが挙げられる。情動とは、通常、喜び、悲しみ、恐れ、怒り、驚き、嫌悪などであるが、進化で得られた有機体の命の維持に役立つ脳の諸装置に依存した化学的/神経的な生命調整機構の構成要素でもある。その根本において、情動はホメオスタシス調節の一部である。その根拠のひとつとして、本書でも説明される通り、情動を誘発する部位は脳の少数の部位に限定されているという事実がある。感情はその上位のレイヤのもので、情動を感じることで「感情」として認識されるものである。そして、感情と意識との関係について以下のように述べる。
「感情が完全かつ継続的に作用するには、意識が必要だ。なぜなら、感情は唯一自己の感覚の到来とともに、感情を有する個体の認識するところとなるからだ」
「感情が目前の「いま・ここ」を超えて感情を有する主体に影響を及ぼすとすれば、意識が存在しなければならない。この重要な事実、つまり人間の情動と感情の最終的な帰結は意識にかかっているということが、これまでまっとうに認識されてこなかった」
感情については、最後に意識とは一種の感情ではないかと主張されるため、その概念の理解は彼の著書を理解する上でも重要である。
【意識 - 「中核意識」と「拡張意識」】
意識を「中核意識」と「拡張意識」を区分けするのもダマシオの理論の特徴である。ダマシオは、「中核意識」を「拡張意識」が存立するための必要条件であると定めている。本書では、「中核意識」と「拡張意識」が脳構造の中でも分離することができることを示す。また、「拡張意識」が人間の進化の中で獲得されてきたものであると論じている。また、中核意識はワーキングメモリで���現されるものの上には作られていない。一方、中核意識と情動は明白に結び付いていて、中核意識が損なわれている患者は、情動を示すことがない。「中核意識が必要としているのは、非常に短い短期記憶だけだ」。また、拡張意識にはワーキングメモリが必要とされる。「感情」が完全かつ継続的に作用するには、拡張意識が必要であるとする。そしてその上で、意識とは「感情の認識」であるという持論を展開する。一方で、情動は意識には依存するものではない。「意識があれば感情が最大の効果をもち、人間は熟考したり計画を立てたりすることができる」
拡張意識と中核意識をわけて考えることは非常に重要であり、多くの思想家や研究者がこの二つの意識構造をわけて考えることができていないという。
「中核意識は、それが正常かつ最適に機能している場合、対象のパターン、有機体のパターン、そして両者の関係性のパターンを、ほとんど同時に結び付ける神経的、心的パターンを達成するプロセスである」
「中核意識を意識の不可欠な基盤とするならば、拡張意識は意識の極致である。われわれが意識のすばらしさを思うとき、われわれの頭にあるのはこの拡張意識である...拡張意識の働きはじつに並外れており、その頂において比類なく人間的である」
「拡張意識は中核意識より規模が大きいこと、優れていることだけが中核意識とちがう。拡張意識は進化をとおして、個人の生活であれば生涯の経験をとおして発達する」
「言い換えれば、拡張意識は、つぎの二つの能力のかけがえのない帰結である。第一は、中核意識の作用によって以前に認識されている無数の経験を、学習し記録にとどめる能力。第二は、それらの記録を再活性化する能力、すなわち、それらの記録がやはり対象として「自己認識の感覚」を生み出し認識されるように再活性化する能力である」
【自己 - 「原自己」「中核自己」「自伝的自己」】
ダマシオは、「自己」という概念に関しても、「原自己」「中核自己」「自伝的自己」に分類して論じる。意識が関係するのは「中核自己」以上である。「中核自己の機構は原自己の存在を必要とする。中核自己の生物学的本質は、いま修正されつつある原自己の二次のマップにある表象だ」とされる。
「自伝的自己は、選択された一連の自伝的記憶の安定した再活性化と表示に依存している。中核意識においては、自己の感覚はパルスごとに新たに構築される、かすかな、そしてつかの間の認識の感情の中に生じる。しかし拡張意識においては、自己の感覚はわれわれ自身の個人的記憶の一部、すなわち「個人的な過去の対象」- 刻々とわれわれのアイデンティティや個性を容易に具現化しうるもの - が、安定的に繰り返し表示される中に生じる」
一方で、「「自己」という単一の安定した基準を生み出す手段を脳に与え授けているのは何かという問題は、いまだに答えられていない」と言う。これはこれからの課題であるが、多くの研究手段がそろってきているようにも思える。
【言語と意識】
ダマシオの理論に特徴的であるのは、多くの人がぼんやりとそう考えているのとは異なり、意識は言語により生まれたものではない、という考えだ。言語は意識の必��条件ではなく、意識は言語がなくても存在しうる。意識はまず非言語的なものとして存在し、言語は非言語的なものとして存在する意識を言語化するために使われる。自己や意識が言語の「あとに」不浄するわけがない。ただし、言語のおかげで、「意識の基本的プロセスが容赦なく言語に翻訳される」のである。そのことは失語症の研究からも明らかであるという。
ジュリアス・ジェインズの考えにも触れて、いまあるような意識が比較的新しい時代の産物であることを示唆する。
「われわれが今日意識と呼んでいるものに心を奪われるようになったのは最近 - たぶん350年前 - のことで、それが前面に出てきたのは二十世紀も遅くなってのことだ」
【意識と身体性】
ダマシオは、身体なき認識に関して非常に懐疑的であり、身体なき内的な人工意識の構築に関しては理論的な観点から実現できないと論じている。自身でも「認知科学と神経科学において「有機体」という概念が著しく欠如している」と述べる。ダマシオは、例外としてジェラルド・エーデルマンの理論を挙げて、自身のソマティック・マーカー仮説との類似性に言及している。エーデルマンは「意識の問題をもっとも包括的に扱おうとしている」と評価されている。エーデルマンのTNGS理論(別名では神経ダーウィニズムと呼ばれる)について改めて読み返してみようと考えている。
「もし境界がなければ身体もないし、身体がなければ有機体もない。命は境界を必要とする。進化の中で最終的に心と意識が現れたとき、それらは、何はさておき、境界の内側にある命と命の衝動についてのものだったと私は思う。そしてかなりの程度まで、いまでもそうである」
もちろんダマシオはリベットの実験も認識をしており、「われわれはつねに絶望的なぐらい意識するのが遅いが、われわれ全員が同じように遅いから、だれもそれに気づかない」と述べる。
【意識の進化論的考察】
意識は有用であったがゆえに進化で勝ち残ってきたことについては科学者の間でおおよそ意見の一致をみているが、それがどれほどに有用であったのかについては様々な意見がある。感情を感じることは、生存にも役に立つことはおおむね正しい推論であるように思われる。
「感情を「感じる」ことは、新規の適応的反応の計画を容易にすることで、情動が及ぶ範囲を拡張することだ」
「まちがいなく意識は、命よりも、有機体が命を維持できるようにしている基本的装置よりも、あとに出現している。またおそらくは意識は進化の中で成長してきた。まさに命によってもっとも見事に支えられているからだ」
「つまり、意識を可能にする機構が普及してきたのだとすれば、それは、有機体にとってそれ自身の情動を認識することが有用だったからだ」
【意識=感情の認識】
ダマシオは最後に、意識は感情の一種であるという持論を伝える。
「たぶん本書におけるもっとも意外とも思える概念は、意識は結局、一つの感情としてはじまるということだろう。もちろんそれは特別な種類の感情だが、それでも感情であることに変わりはない」
「意識とは「認識の感情」であるとする考え方は、たとえば、原自己を支���る構造から、二次のマップを支える構造、そして内部環境における信号から筋骨格における信号までさまざまな種類の身体信号を処理する構造まで、意識ともっとも密接に関係しているそうした脳構造に関して私が提示してきた重要な事実と矛盾しない」
意識については、脳神経科学的な観点から具体的な事実が今後も出てくることが期待される。そのときに、本書で考えらえたような比較的包括的な意識に関する理論を持つことは非常に重要であろう。いずれにせよ、その議論も含めて拡張意識を有するがゆえに持ちえた認識である。
「意識とそれが明らかにする新しい事実によって、われわれは自己と他のよりよい生活を創造できるようになるが、そのよりよい生活のためにわれわれが支払う代償は高い。それは単に、リスクと危険と苦という代償ではない。それはリスクと危険と苦を「認識する」代償である。もっと悪いこと。それは、何が快かを認識し、それがいつなくなるか、あるいはそれがいつ達しがたいものになるかを「認識する」代償である」
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最後の訳者解説において、本書『意識と自己』は、2003年に刊行された『無意識の脳、自己意識の脳』を改訳して文庫化したものだということが示される。それは、事前に説明しておかないといけない重要説明事項だろう。少なくともAmazonでボタンを押す前に、それがわかるようにしてほしい。
とは言うものの、『無意識の脳、自己意識の脳』すでに15年ほど前に読んだであろう本であり、まったく覚えのない本のように見えた。記憶の正しさとともに、自分の知識も増えているからなのだろうか。きっとそうだ。
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学術文庫らしい一冊。
学術的な本を読み慣れていない人には難解なだけで読み進めるのが苦痛だろう。逆に読み慣れていて興味があればハマる。一度だけ読んで終わりにしたくない。時折パラパラと捲って読み返したい名著。
学術的でありながら文学的表現も多く、ところどころ立ち止まっては赤線を引いたりメモしたくなる。原著が素晴らしいのか翻訳が素晴らしいのか、とにかくおもしろい。
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〈メモ〉
情動はホメオスタシスの調節になくてはならないもの。
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意識とか自己とか考えるとき、曖昧でどこから手をつけていいかわからなくなる感じがするけど、この本は著者が問題に至った経緯とか使った手法とか用語の定義とかかなりきっぱりしててわかりやすかった。
私は、「意識」っていうとき言葉で考えることを主に指したり「自分」っていうとき自分の中の自分の記憶のこと指したり社会の中での自分の立場みたいなのを指したりごちゃごちゃだけど、この本で出てくる「意識」「自己」はかなりレベルごとに整理されています。「中核意識」、普段意識してないけどある。