case of insanety
2022/10/31 11:11
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投稿者:L療法 - この投稿者のレビュー一覧を見る
表題の通り創造と狂気の「関係」がどのように捉えられてきたかを、精神医学の領域と哲学の領域から見ていく。
医療の発達により、統合失調症(並びに多くの狂気)は、ある程度抑え込めるものとなった。
それによって狂気の悲劇的様相(誰にとって?)はやわらげられ、特権的創造者の地位も揺らぎ始める。
狂人のごく一部がクリエイティブであることと、正気とされる(そこに境目はない)人間のクリエイティブに、本当に質的な差異はあるのか、疑問な点もあります。
狂気を飼い慣らしたものは狂っているのでしょうか?
狂気をめぐる思弁は、弱まっていきますが、狂気の訪れは常に姿を変えていきます。
狂気は世界の解釈あるいは翻訳に似た何かです。
自閉症的機械に注目していく流れとなっていますが、いずれ、中空からの声、何者かの存在が引き戻され論じられるようにも思います。
狂気は基本的に垂直軸の話であるようですし、私たちは重力の底にいるのですから。
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投稿者:ぽぽ - この投稿者のレビュー一覧を見る
哲学的な話が多くて、慣れていないと読むのに疲れてしまって大変でしたが、なんとか読み切りました。疲れました。
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『創造性』と『狂気』の関係はよく取り沙汰される話題ではあるが、本書では、その関係の長い歴史を解説している。
ストレートに読んでも面白いのだが、『病跡学』と呼ばれる分野の歴史が非常に興味深い。
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2019年5月3日図書館から借り出し。目次を見ただけで面白そう。もう一度、じっくり読み直したい。2019年7月8日再度読み直し。
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「創造力が病にもかかわらず現れたのか、それとも病のためにこそ現れたのか」ー ヤスパースはかつて創造と狂気の関係についての問いをこのように立てた。本書は、およそこの問いに対する哲学者たちの解釈と理解を通して、狂気の歴史を辿るものである。それは、いわゆる「病跡学」と呼ばれるものの成果でもある。「病跡学」とは初耳だが、本書の中でも紹介されているヤスパースによる次の定義の通りだ。
「病跡学とは、精神病理学者に興味のある精神生活の側面を述べ、かような人間の創造の原因に対してこの精神生活の諸現象諸過程がどんな意義をもつかを明らかにする目標を追求する生活記録である」
病跡学の対象は芸術家や哲学者であり、注意深くその作品や日記を追っていくことで、精神病理と創造的活動との間の関係をみることができるのである。例としては、クレッチェマーの『天才の心理学』などを挙げることができる。
「統合失調症」はその中でも特権的な位置を与えられてきたという。統合失調症がはっきりと確認できるのは十九世紀以降だという。本書ではデカルトやカントが取り上げられているが、著者によると「統合失調症が近代的主体とともに登場した、と推測できる」という。近代的自我を人間の条件であるとすると、「狂気になる可能性をもつことが、人間の条件である」といえる。
フーコーの『狂気の歴史』によると、狂気に対して寛容で社会の機能として組み込んでいたものが、十七世紀の中頃以降に次第に社会から排除され、不可視なものとされ、沈黙させられたとされる。近代的自我の成立と、狂気の歴史は密接に結びついているというのが、共通する理解でもある。そこから近代的自我に組み入れられないものが創造性として立ち上ってくるときに、それは統合失調症とともに発現する、というのが主張でもある。
さて、それはどういうものであったか。
著名な芸術家の統合失調症の事例としては、ヘルダーリンが有名である。本書でもヘルダーリンにまつわるフィヒテとのやりとりなどが創造と狂気の関係の新しい現れとして解釈される。また、時代を進めて、梅毒による進行性麻痺だったニーチェの創作活動に関しても、その病歴との関係を論じたヤスパースやランゲ=アイヒバウムが紹介される。
やがて狂気にまつわる言説は、「詩の否定神学」として論じたハイデガー、正しく『狂気の歴史』を世に問うたフーコー、そこからフランス思想の潮流に沿ってラカン、アルトー、デリダ、レーモン・ルーセル、ドゥルーズによる「狂気と創造」への比較的ポジティブな評価を述べる。
現在、統合失調症は早晩理性の崩壊に至る不治の病ではなく、脳生理学的な薬物療法が効果的で対応が可能な病気になりつつある。統合失調症がかつて持っていた悲劇的ではあるが、それゆえに一層一瞬の輝きをまとうという特権を剥がされつつある。かつて「狂気」は隠されつつ、不可侵なものとして扱われていたが、現在は近代医学の中で可視化され、医学的分析の対象となってしまっているのだ。統合失調症がその特権をはく奪されるとともに、鬱やASDなどの症状はその範囲を貪欲なまでに広げようとしている。そして、およそ同時にこれ以上言葉を紡ぐことに自制を求めるような自発的な圧力を感じるのである。
本書の意図は届いたのだろうか。この本の対象となる読者はどのような読者なのだろうか、と気になる。「狂気」に直接的に対面することなく、言葉だけで「狂気の歴史」を語り、それを相手に伝えることの不可能なまでの難しさを感じる。本という媒体での限界を感じつつ、『狂気の歴史』の方をいまいちど読んでみるべきなのかもしれないと思うのである(そして、おそらく当分はそうしないのだが)。
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創造と狂気の関係がどのように考えられてきたのか、各年代の考察をまとめた本だと言えます。クリエイティブとは常軌を逸した行為の成果なのか、それともそうでないのか、考えたいときに読んでみると参考になると思います。
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ラカンは、凶器の可能性を完全に排除しようとするならば、それはもはや人間ではなくなってしまうだろう、と言っています。もっとも、彼の時代には、人間の存在から狂気を完全に排除してしまうことは、空想にすぎない事柄でした。けれども今日では、人間を狂気と無縁のものにしようとするための様々なテクノロジーが開発されようとしています。実際、のうの内部に直接的に電気や磁気の刺激を送って治療を行う脳深部刺激療法はパーキンソン病などですでに実用化され、うつ病や強迫性障害などへの応用が検討されつつあります。(p.28)
厳しい修道生活のなかで、太陽を見てもまったく動いておらず、全然時間が進んでいかないような感覚になる。これは、うつ病の主体的体験とよく似ています。うつ病では、周囲の人々は普通の時間を生きているのに対して、自分にとっての時間だけが遅くなったように感じられ、それゆえ自分だけが周囲から取り残されてしまっているように感じられます。(p.88)
プラトン的なインスピレーションでは神が問題になるのに対して、ヘルダーリンの詩では神の不在が問題になっていることも、これと関係づけることができるでしょう。要するに、ヘルダーリンは、人々がヘーゲル的な狂気の乗り越えによって忘却していたものを、天上の存在からの声としてではなく、自分の足元にあいた大きなブラックホールとして再発見したのです。(p.202)
芸術の歴史において、絵画の技法が高度化することによって、絵画は目の前にある事物を正確に写しとることができるようになった。しかし、描かれた絵画が事物と一致しているかどうか、つまり「本物そっくりに描けているかどうか」は、絵画において審理が生起こしているかどうかとはまったく関係がない。むしろ、絵画は、これまで気づかれていなかった新たな角度から事物を描き、世界と大地の抗争を立ち現れることによって、その事物に対する私たちの見方を一変させる。そうすることによって、絵画は、「不気味で途方も無いものを衝撃的に打ち開き、同時に安心できるものと、人々が安心できると見なすものとを、衝撃的に打ち倒す」のです。ハイデガーはこのことを、絵画という芸術作品は事物をみる私たちの視点を「移動=逸脱(Verrückung)」させ、日常的な物の見方をすっかり変容させてしまう働きをもっているのだ、と要約しています。(pp.211-212)
ドゥルーズ派、「逃走線(ligne de fuite)」という概念をもちいてそのことを明確化しています。起こってしまった出来事に忠実であるのではなく、さまざまな方向に逃げていくこと。ヘルダーリンのように欠損した〈父の名〉や不在の神の痕跡に踏みとどまるのではなく、それとはまったく別のことを考えること。そのように逃走することによって、人生の連続性を断絶させるプロセスを、“breakdown”(故障)ではなく“breakthrough”(突破口)にすることができるーーこれがドゥルーズの主張なのです。(p.288)
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狂気を通して、西洋哲学のこれまでと今とこれからを描く。人間観を確立するにあたって、理性がある種、近代哲学のテーマだったのだから、裏返せば、狂気がそれよりも深い射程を持っているのは当然なのかもしれないが、この切り口は新鮮だった。
分裂病から自閉症へというパラダイムの移行は分かるが、ある病や障害に特権的な地位を与える傾向は、思弁的なレベルでのみ許されるだろう。
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創造と狂気の関係性を歴史的な観点から説いていく。精神・哲学・病理・芸術を統合した傑作で、じっくり読みたい
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理性を持つ人間とは、どういう存在か?
理性があるからこそ、反対の狂気が存在するとカントは言う。狂気を常に内包しているのが人間であると。だからこそ、世の哲人たちは狂気に魅せられ、その解読を試みる。
狂気とは何か?
内に住む自分以外の誰かか?
はたまた神の吹き込みか?
狂気こそが常人にはない創造を生み、歴史を動かしてきたのかもしれない。
狂気なくして人類の進化はなかったのかもしれない。
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否定神学的な思考によって生まれる直接アクセスできないモノに特権的な意味を持たせる考え方ついてドゥルーズがどのような側面から批判しているかがわかり、参考になった。
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何よりも「創造と狂気」という視点で西欧哲学のビッグ
ネーム─プラトン・アリストテレスからデカルト・カント、
ハイデガー・ラカン・ドゥルーズまで─を貫けるという、
その事実に驚いた。もちろん「創造」も「狂気」も時代や
場所によって様々であり一様ではないのだが、だからこそ
そこに「歴史」が生まれるのだろう。この本は「哲学」が
「創造と狂気」をどう考えてきたかという本なので、次は
実際の「創造と狂気」に触れるような本を読んでみたい、と
思った。
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本のタイトルにつられて読んだ。とても壮大なテーマ、かつ難解なのだが、ところどころに比喩もあり読者が脱線しないようにしてくれる。
プラトン、アリストテレスから始まり近代哲学を経て20世紀のドイツ、フランス思想まで網羅し、概念理解ができたと思ったら次の章で突き崩されるという、知的なゲームとして読むととてもたのしめる。
統合失調症中心主義と悲劇主義的パラダイムを両軸に進途中までも十分におもしろいし、精神疾患に対する偏見を是正してくれる効果もあるだろう。デカルトの箇所も近代哲学を確立した人物像を新たな視点で捉えられて新鮮だった。ヤスパースも効果的に出てきて、案内人のようであった。
だが統合失調症ーーと、悲劇主義的ーーの両軸の雲行きも怪しくなってくる。後半に出てくる、横尾忠則と草間彌生の比較、ルイス・キャロルのエピソードは秀逸。そしてドゥルーズで締めるあたりもそうきたのか!とハッとした。デジタルで創造の方法も、狂気のあり方も変わる中で新たなじくを創り出す、いやそれないのかもしれない時代に突入したのだろう。
今後のジェットコースターのような展開。とても痺れました。
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途中まで面白く読んでいたが、あまりにも知らない分野のことだったため、読むのをやめてしまった。
評価が良い本だし、ここにでてきた人物についてもう少し知ってから読もうと思う。
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創造と狂気は紙一重と言われる。すなわち、ある真理と引き換えに狂気は憑依するのだと。
本書では、古代ギリシャから現代にかけて、「創造と狂気」が転倒を繰り返し変遷する系譜について、病跡学と哲学のコラージュで辿られてゆく。
西洋思想の注釈と言われて久しいプラトンによる対話篇『パイドロス』では、狂気は啓示と病、すなわち神的狂気と人間的狂気に分割され、神霊が吹き込まれた狂気を歌う存在こそが詩人であり、尊ばれる「詩人狂人説」が提唱された。一方で、プラトンの弟子であるアリストテレスは、鬱やメランコリーにおいて暗雲に溢れる人間的な思索にこそ、創造性が担保されているとして、天界から地上界へ我々を導いた。いずれにしても、古代ギリシャ的な霊魂は、神と人間を接合する媒介者であったが、中世へ移り行くにつれて、媒介者としての霊魂は、神による人間への誘惑そのものであって、人間を俗物的に陶酔させる悪魔として解釈され、いわゆる魔女狩りの犠牲者は、この誘惑に泥酔したヒステリー者であった。以降、西洋近代の地底を築き上げたデカルトやカント、ヘーゲルといった大家においても、決して狂気から完全に逸脱していた訳ではなく、狂気の御札がなくては機能不全に陥ったデカルト、狂気の隔離ゆえに作品を創造していたカント、狂気を弁証により超越するヘーゲルのように焼き直される。
産業革命を経て台頭した反哲学の時流において、精神病理学の泰斗であるヤスパースは、狂人における創造性は、形而上学的な啓示に基づいており、その解体的深淵が、彼らを荒廃させてゆくと述べた。以降、詩人にして統合失調者であるヘルダーリンを皮切りに、ハイデガー、ラカンらの実存主義と構造主義の狭間からは「神は現れないが、現れないという形で現れる」否定神学にこそ本質があるとされ、ブランショをはじめ、その色彩は文学界へも波及した。
現代思想においても、否定性の中に肯定性が導出される弁証法的人間にその着想が得られる。
文学者の病跡学では、統合失調症と自閉症の世界観における差異が盛んに検討されてきた。両者は特に、創造性を駆動する源泉が対照的である。アルトー的な統合失調者における創造が、狂人による神の啓示の陳述であれば、キャロル的な自閉症スペクトラム者の創造は、健常の延長に広がる言語の横滑りなのだと。
狂人を拘束する鎖を解いたピネル以降、ドイツを筆頭に精神障害の研究が進み、体系化されてきたが、カントの『脳病試論』を紐解けば、精神的な狂気が「あたまの病」と「こころの病」に分類され、後者の下層には、迫害妄想や関係妄想の端緒を紡ぐことができる。精神障害を近代まで遡及することができ、大変示唆に富んでいた。