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2023/05/01 22:36
投稿元:
小島烏水さんを存じ上げていなかったので、この本で知ることができました。
明治時代にも上高地の魅力が世間に知れて、観光客が増えたことを嘆いていたのに、昨今、更に賑やかなインバウンドの観光客で賑わう場所になった姿を見たら、怒り出してしまうかもと思いました。
2024/04/12 16:42
投稿元:
1078
自然とか植物が好きで山行ってるしキツいとか危険なのが嫌いだから、高い山に登るのは全く興味ないな。富士山なんてスタートの5合目から森林限界だから富士山は遠くから見るのが好きなのであって登るのは全く興味ない。だから結局低山ハイキングになるんだけど、屋久島みたいな高くても植物が素晴らしかったら全然行きたい。山が好きって言うと富士山とかエベレストとか高いやつを連想されるけどそういうのはむしろ嫌なんだよね。あと昆虫採集好きで山行く人も別に富士山登るのは興味ないと思う。
女だから花を好きだと思うなとかいうけど、私の華道とかに興味示してくるの男性の方が多いし、花は自然科学だから、普段から物理とか数学とかの自然科学を馬鹿にしてる女なんかに花の美しさなんて逆にわかるわけないと思ってるけどね。
上高地明神付近は古くから、神合地、神垣内、神河内などとも呼ばれ、神々を祀るに最もふさわしい神聖な場所とされてきました。
↑上高地って読み方が分からなかったんだけど、神河内って覚えとけば読み方が分かるね。
368P
編者 大森久雄
1933年、東京生まれ。早稲田大学文学部仏文科卒業。朋文堂、実業之日本社などで、登山・自然・旅関係の雑誌・書籍の編集に携わったのち、現在は編集・執筆を中心に活動。著書に『本のある山旅』(山と溪谷社)、『山の旅 本の旅』(平凡社)、『山の本歳時記』(ナカニシヤ出版)、編書に大島亮吉『新編 山 紀行と随想』、野中 至・千代子『富士案内 芙蓉日記』(ともに平凡社ライブラリー)、共訳書にジャン・コスト『若きアルピニストの魂』、リオネル・テレイ『無償の征服者』(ともに二見書房)がある。
上高地(かみこうち)・・・長野県松本市にあり、北アルプスの山麓に広がる高原観光地だ。 標高約1500mの盆地状の広い谷で、中部山岳国立公園の代表的な景勝地となっている。 独自の地形に育まれた豊かな自然環境には、さまざまな動植物が生息・生育しており、特別名勝や特別天然記念物に指定されている。
谷は一ノ俣で曲ってから、山に押し挟まれて、急に登ってゆく。滝も幾つか懸って、谷はいよいよ急になる。梓川は、ここへ来れば、名を改めて、槍沢と呼ばれている。なぜなら槍ケ岳がもう直ぐそこに聳えているのだから。槍ケ岳が青空を指して、ただ黒々と聳り立つのが望まれる頃、谷は水を消して、一面の雪に埋められている。槍の雪渓が、谷から槍の肩まで、磨き上げた様に、真白に登りつめている。肩を越えて来る風が、雪の冷気を孕んで、谷を下へと駆け下って来る。
牧場の草地の狭まった奥は、長塀山になっている。そしてそのまた奥に、大滝山がある。徳沢の小屋から、ぶらりと行くには愉しい山だ。長塀山の上は、山というにはおかしいほど、広々とした草地になっている。前穂高から槍まで続く穂高は、大きな山だと思わせられる。ここで、穂高を眺めて、私はまた、穂高の美しさに、魅せられてしまった。 穂高の美しさは、幾度も説かれている。日本登山史の黎明時代、上高地へ入った人たちは、先ず徳本峠の上で、穂高の美しさに心をしめつけられた。徳本峠の穂高は、山の最も美しい眺めとして、どんなに長く言い伝えられて来たか知れない。穂高は今も、日本の持つ、最も美しい山の一つであろう。しかし、穂高の美しさは、いつまでも、徳本峠から見た眺めにあるのではない。山が変ったのではない。時が、山を見る人の目を変えて来たのだ。
すぐ近くの枝で、人を少しも恐れずに鳴いているのを見た時私はびっくりした。そろそろ朝の食事をしに、また河原の方をまわって戻ることにしよう。
串田孫一(くしだ・まごいち)
一九一五(大正四)年~二〇〇五(平成十七)年。暁星中学時代からスキー、登山を始め、槇有恒、河田楨、尾崎喜八などと交わる。東京高等学校(旧制)山岳部では、積雪期の谷川岳など本格的な登山を行なう。東京帝国大学文学部哲学科でパスカル、モンテーニュなどフランス文学、思想を研究。戦前は上智大学予科などで教鞭をとる。戦後、一九五〇年に東京外国語大学に迎えられ、登山を再開、外語大山岳部長となる。五五年、初めての山の本『若き日の山』を上梓。五七年、『山のパンセ』。五八年、山の文芸誌『アルプ』を創刊し、八三年の三百号まで続く。数多くの編著書、訳書のほか、絵画、ラジオ番組など幅広い活動を続けた。上高地にまつわる作品では、『山のパンセ』に「島々谷の夜」(六〇年)、「島々谷の朝」(六一年)などが収められている。
松本からはバスで梓川の深い谷を進んで上高地に。焼岳、大正池、岳沢、明神岳、西穂高、それらの眺めは、くりかえしくりかえし地図をひろげては想像の上に描かれていた姿なので、はじめて出あったような気がしなかったが、白々とした花崗岩の河原にはさまれて空の青さをうつしながら、急速度で流れ走る梓川の水のいろと、両岸を埋めるカラマツ、シラカンバ、ミヤマズミ、オオバヤナギ、ケショウヤナギなどの緑の濃淡のいろばかりは、絵葉書などをはるかに越えて美しかった。
あくる日は早朝に出発、横尾から一俣へとだんだん川幅が狭く、道も登りになったが、イワカガミやシロバナノエンレイソウやマイヅルソウなどの見馴れた花たちの外、サンカヨウや、ツバメオモトなど、はじめて見る花もあって、やっぱり槍に来てよかったと思い、赤沢の岩小屋のかたわらを過ぎたときは、ここで、大島亮吉の「涸沢の岩小屋のある夜のこと」にならって、一夜明かして見たいものだと、ごそごそもぐりこんで岩に頭をぶつけて娘に叱られ、いつか流れが巨岩の底の水音だけになり、暗い針葉樹林帯を抜けるとナナカマドやミネカエデの群落の点在する槍沢の急斜面が行手に幅広くあらわれた。これがいわゆる氷河のつくった谷というのだろうか。右に左に急峻な岩山が連なり、その裾はゆるやかな曲線を描いて、両側から巨石がごろごろしている沢の底を支えている。
それは上高地を過ぎて、ふたたび上高地にもどりたいと願いながら、果せずに死んだいのちがあまりにも多いことを知るせいかもしれない。私には、上高地が、それらのいのちの墓場のように思われるときがある。そしてそれらのいのちが惜しまれるから、なお一そう、上高地の土を踏みながら、「生き残っている自分は、何をしなければならないか」という問いかけを、いつも心に新たにさせられる。息子は十年間も結核を病んで、肺活量が常人の半分である。健康優良児���あった四歳五歳の頃、よく奥多摩の山に連れて登った。それ以後脳腫瘍という難病にかかって、視力の半分を失い、結核をふくめて、二十年の闘病生活がつづいていた。
しかし今、十月の寒冷期に入った上高地のセンジュガンピは、図鑑ではなく、生で息子に見てもらうのを待っているような姿であった。よかった。この花にあえただけでも来てよかったと息子はよろこび、このあたりで待っているようにという私に、西穂の登り口までと言い、登り口にさしかかると、五十メートルでも百メートルでも歩けるところまでと言い、娘とつれだって、私の先を登りはじめた。西穂高の東面の谷は、ゆけどもゆけども針葉樹林の連続で、眺めもなくて辛いばかりであったが、一歩一歩のろい足をあげていく私は、いつかたった一人になり、やがて西穂の小屋のあたりから、打ち鳴らす鐘の音と、息子の大きな叫び声を聞いた。「お母さんがんばれよ」娘も叫んでいた。息子には、私より早く登れる体力がついていたのだ。トドマツの根もとに一息ついて、「大丈夫だよ」私もうれしさに叫んだ。
余は主義として、こんな俗了した「上高地」や、そこにある温泉の為めに幾頁を費やしはせぬ、余の筆をとるのは、神河内の昔を憶う人の為めに、或は山登りの途中已むを得ずそこに遊ぶ人々の為めにしたので、又神河内の東を限る常念山脈の登路のついでにそえたのに過ぎぬ。くれぐれも云う、神河内ならぬ「上高地」は不快なところである。
井戸の中の蛙が見たら、空はこんなにも美しいものかと、私はいつも上高地の夜の空を見るたびに思った。空の半分は広い河原を隔てて、僅か六町さきの麓から屛風のようにそそり立った六百山と霞沢岳のためにさえぎられて、空の一部しか見ることができない。夜になると、この六百と霞がまっ黒にぬりつぶされて、その頂上に悪魔の歯を二本立てたような岩が、うす白く輪かくを表わす。そしてこの大きな暗黒の下に、広い河原を流れる梓川の音が凄く、暗闇に響く。ある日この頂上の上に、月が出た。小さいが、強い光の月だ。白い雲が、悪魔の呼吸のように、白い歯の影から、月を目がけて吹きかけて行くが、月のところにくると光にあった幽霊のごとくに消えうすれて行く。時には、月が動いているようにも見えた。霞の暗黒の下で、広い河原が月に照らされてその中の急流に、月が落ちて、くだかれて洗われている。水の面には白い霞がたなびいて、そこから風が起こるのか、すぐ傍の柳は、月の光を吸いながら、ゆるやかに動いていた。河辺にたつと月の光はくだけているばかりか、水の中に浸みこんで行く。河に沿うて、高峰の月を見ながら、流れの音を聞きながら歩いた。夜露がすっかり草の上に下りて、あたりの空気はひどくしめっぽかった。白樺が闇に浮く路を、黙って歩くと、いい得ぬ思いが胸にわく。焼は少し白く見えた。穂高はほとんど暗かった。いま穂高の上にいたらばと思って、一人でくやしかった。
板倉勝宣(いたくら・かつのぶ)
一八九七(明治三十)~一九二三(大正十二)年。学習院高等科を経て北海道帝国大学農学部卒業。学習院中等科のころから夏は上高地生活を送る。学習院時代からスキーを始め、一九一九年三月と二一年四月には常念越えで槍沢から槍ヶ岳を試みる。北大スキー部で��二二年一月の大雪山旭岳積雪期初登頂をはじめ北海道のスキー登山を牽引。二二年七月、松方三郎、伊集院虎一(案内人・小林喜作)と天上沢から槍ヶ岳北鎌尾根を登り、八月には、慶應義塾山岳部と穂高岳涸沢岩小舎で合宿。二三年年一月、槇有恒、三田幸夫と立山を目指すが、暴風雪の松尾峠で凍死(槇有恒「板倉勝宣君の死」三田幸夫「松尾峠の不思議な幻影を思い返して」)。『山と雪の日記』は私家版『板倉勝宣遺稿』を槇有恒らが再編集した。
毎夏のことながら、都会の雑踏を逃れ山懐深く尋ねて来る人々が、梓川の美しい上高地の谷にだんだんとその姿を頻繁に見せるようになって来る頃、われわれの仲間も、中房や烏川の谷から常念岳や槍ヶ岳を越え、あるいは飛驒の笠ヶ岳から、または更に遠く越中の国から長い山の旅を終えてこの上高地の谷へ集まってくる。そしてそのうちのいく人かは霞沢岳の麓の小舎になお静かな数日を過ごすことを惜しまぬ。
皆は岩小舎の前に並んで空を見上げる。透徹した空気を通して見た山上における星の眺めはまた格別である。しばらくは星の話に花が咲く。急造の天文学者にはカシオペアやスワンも見つからない。しかし星を見つめていると、エゴイストやマテリアリストでも相当感傷的というような気分に浸される。先生や槇さんが歌を詠んだ。感傷的になったくらいではなかなか歌や詩も出てくれないが、それでも終いには不思議な英詩を口吟んだりするものが出てきた。岩小舎における星の夜は、たちまちわれわれをして即興詩人たらしめた。自然の偉大なることを今更ながら感じないわけにはいかぬ。
白沢の出合いあたりまで来て、川原の上にスキーを滑らせて歩くころは、もう日は暮れはじめていた。歩きながら渡辺さんはH博士に医学上の質問をしている。二人の専門は偶然どちらも同じ婦人科だった。彼が卒業試験のときの問題を一つずつあげて、その解答を話すと、Hさんは、「それでよろしい」とか、「それについてはこの点はどうか」というようなことを聞きかえしたりする。二人の問答を聞きながら尾いて行く。専門のドイツ語が入るのでよくわからないけれど、医学というものは数学と同じで、一定の公式で処理されるようになっているものだと感心した。
このときは、西穂に登った。小屋の前の草原に、雪渓があちこち残っていて、しかし、シナノキンバイなどの高山の花々がひらき、或いは芽生えていた。小屋はむろん無人である。それから、岩尾根を攀じはじめた。私は昆虫マニアであったから、山に登るのは、信州にのみいる高山蝶やハナカミキリなどの虫を採集するのが第一目的で、べつに危険な岩登りをやろうという気持は初めは抱いていなかった。 だが、せっかくここまで来たのだし、岩の累積は私を魅したので、おっかなびっくり岩々につかまりながら登っていったのである。
とにかく、お花畠は天国といってよい。高山では、長い冬が過ぎると、春から夏へ急速に移ってしまうから、春、斜面の枯れつくした草地であったところが、半月と経たないうちに、無数のシナノキンバイのふくよかな花弁におおわれ、一面に黄いろい海と化してしまったりする。高山の花で私が好きなのは、思いがけない岩場にたった一本、ぽつねんと上品な暗紫色の花をひらくクロユリである。また、春、上高地平から徳沢園へ行く途中、ニリンソウの白い小花の大群落がいっせいに咲き、白布を敷きつめたような光景も好きだ。
少し長くなるが、ここにその主要な部分を引用させていただいた。「芥川君は皆様御承知かとも思いますが、早熟な文学少年で、かつ優等生で、つとに各種の文学書に読み耽り、なかんずく、小島烏水氏の、例の『日本アルプス』が出る以前の著書『山水無尽蔵』も彼の愛読書のうちにあり、その中の〝梓川河畔に立ちて穂高山を観ずる記〟を朗読して聞かせられたり、〝槍ヶ岳の頂上は僅々四坪〟等の句を〝どうだ八畳敷しかないんだぜ、この室と同じ広さの尖鋭な頂上をちょっと想像して見ろ! 是非とも登ろうではないか〟と強調したものです。たしかこれは明治四十二年の夏のことだったと思います。
芥川は中学生時代、やせていたが、青白くはなく、神伝流の水泳や、柔道、機械体操などで身体をきたえ、負けん気の青年で、槍ヶ岳に登る前年には、西川栄二郎という同級生と浅間山に登るなど、山登りに大きな関心を示していた。この槍ヶ岳登山も芥川が皆をさそって実行したもので、後の文士芥川からは想像できないことであった。登山の模様は『失いし山仲間』の中に書いたとおりである。
自分の作ったものを熱愛の眼を以て見てくれる一人の人があるという意識ほど、美術家にとって力となるものはない。
日本の山で、最もアルプス的な山貌を呈している山は北アルプスの槍・穂高連峰であろう。日本の近代登山はここを舞台にして発展をとげていったのであり、槍・穂高連峰をめぐる登山の変遷は、そのまま日本の登山史の縮図となるものである。
「穂高嶽は、梓川の出口(源流)から大野川までの中程にある西の方の大きな山である。この嶽は古から穂高大明神の山といい伝えられてこの名がある。険しい山で登ることが出来ない。麓に大明神が御手洗する、アラ池というところがある。広さ三、四町四方くらいの池で、深さは測ることがむずかしく、いわなという魚がたくさんいる。きこりがいかだに乗ってこれを釣っている。このほかに梓川から西の方には山嶽はたくさんあるが、深山で行けないから山の名は分らない。」(第六)
またそれ等の宛字は、大概一ヶ所一つであり、二つ位持っているところもあるようではあるが、信州のかみこうちほど数多い宛字を持っているところは他に見られない。上高地、神高地、神河内、神合地、神降地、神郷地、神垣内、神ヶ平、上口、上口地、上河内などが数えられる。
その内、上高地は前述のように、原義とは遠く懸け離れて関わりなく、問題にはならない。また神字を冠したものは、いうまでもなく、穂高神社奥社の所在地なるが故に、穂高神社縁起に基づく神苑境というイメージによって当てられた文字であるから、穂高神社関係者はいうまでもなく、神社所在の穂高町付近の人々、また穂高神を崇拝する人々の昔から好んで使われた宛字である。尚そのほか、明治末頃までの信州のかみこうちは、正に神仙境を想わせる境域であったのであるから、その当時この地に杖を曳いた人々は、如何にもそれにそぐうこれ等の宛字、特に原義を帯びる神河内には、なんのためらいもなく馴染んでしまった。そしてかみこう���は神河内でなくてはならぬと、熱を籠めて強調する大家まで出るようになったのである。私自身、当初は素直にその文字を眺めることが出来たのであった。『善光寺道名所図絵』は天保十四年美濃の人豊田利忠の著作であるが、穂高町の医師高島章貞著の『穂高神社考』に収めてある文政元年の「穂高岳に遊んだ記」を見て、また神社関係の人からも聞いたことであろうが、かみこうちについて記述している。けれど彼自身がかみこうちを訪れたわけではないので、かみこうちの温泉についても「熱湯にして或は笹の葉に米を包み、暫く差置けば飯と成るなり」等と見て来たような好加減な記述もあるのであるが、兎に角それに神河内(かんこうちと振り仮名をつけてある)の文字があったことから小島烏水さんは、御自身が明治三十六年、既に神河内を使っておられた(『文庫』所載「梓川を溯る記」)その信条が、確証されたとして大変喜ばれ、「有つたぞ有つたぞと本を抱へて子供らしく書斎の中を歩き廻はり、庭へまで飛び出し、繰り返して読んだ」といって居られる。
上高地はその梓川の核心部にあたるところに広がる谷だが、標高がおよそ一五〇〇メートル、北の横尾から南の大正池まで約一二キロ、もっとも広い個所で幅一キロに満たない細長い谷である。上高地がなければ梓川はその魅力の大半を失い、梓川がなければ上高地そのものが存在できない。その魅力は、そういう両者の深い関係によって成り立つ。この標高の土地にこれだけの平らな谷が広がるところは、日本の山地ではほかに存在しない。横尾の標高が一六〇〇メートル、大正池が一五〇〇メートル。一二キロの長さで高低差が一〇〇メートルというのは、十勝平野や関東平野など平原の山沿いを流れる川に近い緩やかさで、その点がまた上高地の魅力を作り出している条件である。しかも、その谷を囲む山々が標高二五〇〇メートルから三〇〇〇メートルを超えるのだから、その立体的な形状もまた他に比類がない。
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