野生の思考としての仏教再生
2004/08/22 17:22
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:yuyuoyaji - この投稿者のレビュー一覧を見る
『カイエ・ソバージュ』1巻で神話の誕生と伝承における環太平洋という枠組みと現生人類という壮大な装置に評者は惹かれ、5巻にたどりついた。「第三次の形而上学革命」をめざして、レヴィ=ストロースを下敷きに、精神科医ブランコ、南方熊楠、数学者ロビンソン、バタイユ、ハイデッガー、フロイト、とさまざまな領域の思考に焦点があてられる。その思考の向かう先はとうぜん4巻までであきらかにされたように、分析的・アリストテレス的論理ではなく対称性の論理につらぬかれていなければならない。第二次形而上学である「一神教型」資本主義がもたらしているグローバリズムに立ち向かうことのできるのは仏教の思想である。ここでいう仏教とは「無意識=流動的知性の本質をなす対称性の論理に磨きをかけて、その可能性を極限まで追求した思想にほかならない」。それは宗教としての仏教ではなく、「これから生み出そうとしている新しい対称性の知性のもっともすぐれた先行者」としての仏教である。
著者は無意識に言及するにさいして、フロイトにくらべて「普遍的無意識」を説くユングについて触れることが少ない。仏性と無意識の共通性に注目するのであれば、自我を脅かす存在としての無意識をとりあげたフロイトよりも、人格の発生源として無意識を提示するユングをとりあげるほうが適切ではないだろうか。さらに、「無意識をとおして人間の『心』は自然に、そして宇宙につながっている」のだから、ユングの普遍的無意識にこそ親和力がはたらいてよいと考えられる。
ユングといえば、ユング派精神分析の第一人者河合隼雄の『ユング心理学と仏教』もまた、個人的・全人類的な問題の解決方法として仏教を提示していたことを想起させる。創作ファンタジーや昔話の分析に豊富な実績をもつ河合と地球規模の神話に焦点をあてる中沢というちがいはあっても、仏教への迫り方は似ている。もちろんアリストテレス的な論理にたいする見方も中沢が対称性論理を優位に置くのにたいして、河合が分析的論理への批判を限定的におこなっているというちがいはある。また一神教型の資本主義の原理を鋭く強烈に批判する中沢にくらべて、河合のばあいは経済についての考察は対象外であるといえる。中沢においては「人間の営む現象」だけでなく「科学的思考も、無意識の領域で直観的につかみだされたアイディアを、非対称の論理に『翻訳』することによって、飛躍を重ねてきた」。ハイゼンベルクが量子力学を発見したのも、ガロアが群論において「異質なレベルのあいだで、対称性をもったまま、ひとつの全体運動がおこなわれている様子」を見出したのもそのような位置付けのなかで展開される。
華麗な文体でラディカルな思考をくりひろげる中沢と中庸を行く河合との相違点はいわば、これまでの各々の「縁起」によってもたらされるちがいであるが、いずれも仏教の論理・智恵に個人と人類のかかえる問題解決の指針をもとめるという重要な接点をもつ。かつて『雪片曲線論』で密教による心の解放を追求した著者が大乗仏教に向かうのはある意味必然であろうが、初期の体験と思考に磨きをかけ、東西の華麗な宝石をちりばめて壮大な思考の輝きをわれわれにしめしてくれた。多神教の伝統をたもってきた日本の宗教的社会に希望を見出すべきだという主張とともに、思想としての仏教に惹かれる者にとっては、あたらしい視点から仏教への関心が鼓舞される書である。仏教についてのさらに深化した書が待たれる。
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:オリオン - この投稿者のレビュー一覧を見る
朝日新聞で、天外伺朗がカイエ・ソバージュ全巻の書評を書いていた。量子力学と深層心理学から借用した二つの概念、ボームの「明在系・暗在系」とユングの「集合的無意識」に(たしか)積分論を加味して、好き放題の想像力をふくらませた『ここまで来た「あの世」の科学』は、結構好きな「サイエンス・フィクション」だった。「欲をいえば、本書の内容を頭だけで理解しても十分ではなく、土や森と親しむ自然体験や、瞑想などによる内面の体験を通して身体的に把握できることが望ましい」というカイエ・ソバージュに対する評言も、きわめて真っ当なものだったと思う。(真っ当だとは思うが、「自然体験」や「内面の体験」や「身体的把握」もまた言葉でしかない。だから、ほんとうは言ってもしかたがない。)
それはそうなのだが、それにしても天外伺朗が中沢新一を論じるというのは、それも、一神教型資本主義(グローバリズム)にたいするオルタナティブを提案できるのは旧石器時代に芽生えた仏教の思想だけだとか、性的体験と宗教的体験は無限集合の構造をもつ流動性無意識が自由に対称性の運動を楽しんでいるときの幸福感=悦楽のあらわれだとか、超準経済学としての普遍経済学というものは絶対に存在するはずだとか、新しい「神即自然」というスピノザ的概念のよみがえりを通じた未知の形而上学革命といった議論が出てくる本書を評するのは、あまりにできすぎた話ではないかとちょっと心配になってくる。
──読み終えて一月以上経つので、細部はほとんど覚えていない。ここでは、いまだ鮮烈に残っている読後の印象を二つ、書いておきます。その一。中沢新一が語っていることは、たとえばプラトンやハイデガーがついに語らなかった事柄(語り得なかった事柄ではない)であり、たとえばニーチェやバタイユが身をもって生きようとした(より精確には、言語=表現をもって上演しようとした)究極の「哲学」(サイエンス・フィクション)だったのではないかと思ったこと。
その二。レーニンの『国家と革命』と柳田国男の『石神問答』を「発展させ完成に近づけていくことこそ、自分にあたえられた重大な人生の課題ではないか」(『精霊の王』あとがき)と考えた中沢新一が、『フィロソフィア・ヤポニカ』(2001)と『精霊の王』(2003)で『石神問答』を、『緑の資本論』(2002)と『カイエ・ソバージュ』(2002〜2004)で『国家と革命』をそれぞれ発展させたこと。(さらに言えば、それぞれを完成させるためにはあと二冊、一つはちゃんとした数学書、いま一つは本格的な仏教論が書かれなければならないと思ったこと。)
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圧倒的非対称が支配するこの世界で、対称性が支配する神話や古代宗教について考えることは、とても有意義なことです。
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全5巻の最終巻。「人間/自然」「精神/肉体」「理性/感情」のような二項対立的思考の機能不全ぶりを突く。
「至高性」は「彼岸」にあるのではない。わたしたちは常にそれにアクセスしている。
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2007/5/29読了。「カイエ・ソバージュ」5巻シリーズの最終巻。最初にこれを読んだ方が分かり易かったかも。
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ついにカイエ・ソバージュシリーズ最終巻を読み終わり、図書館に返して参りました。どんどんパフパフ。勉強やめてから十○年なので脳が疲れた感じがします。
中沢新一さんは、、、
それって違法じゃないとはいえおかしいんじゃない?、とか、違反じゃないっていったって道義的にはどうなのよ?、とか、株主の利益のために働くのだとか言われてもなー、とか、勝組と負組しかない世界だったら希望が無いじゃないのさ?とか、私がうすらぼんやりと感じているようなことの根っこにあるものを、「対称性人類学」という名前のついたレッキとした「学問」として研究されてるすごいオジサマです。
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はじめに カイエ・ソバージュについて
序章 対称性の方へ
第1章 夢と神話と分裂症
第2章 はじめに無意識ありき
第3章 <一>の魔力
第4章 隠された知恵の系譜
第5章 完成された無意識―仏教(1)
第6章 原初的抑圧の彼方へ―仏教(2)
第7章 ホモサピエンスの幸福
第8章 よみがえる普遍経済学
終章 形而上学革命への道案内
謝辞
索引
(目次より)
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神話と科学、哲学の意外な繋がり。人間の、思考する、という行為の奥底には一体どのような力が働いているのか、思考の原点を突き詰めています。
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[ 内容 ]
神話、国家、経済、宗教、そして対称性人類学へ。
「圧倒的な非対称」が支配する世界の根源を問う冒険、ここに堂々完結。
抑圧された無意識の「自然」は甦るのか?
「対称性の論理」が切り開く新たな世界とは?
野生の思考としての仏教を媒介に、来るべき形而上学革命への展望を示す。
[ 目次 ]
序章 対称性の方へ
第1章 夢と神話と分裂症
第2章 はじめに無意識ありき
第3章 “一”の魔力
第4章 隠された知恵の系譜
第5章 完成された無意識―仏教(1)
第6章 原初的抑圧の彼方へ―仏教(2)
第7章 ホモサピエンスの幸福
第8章 よみがえる普遍経済学
終章 形而上学革命への道案内
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[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
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中沢新一カイエ・ソバージュの最終巻。
唱えてきた今のところの対称性人類学のまとめだ。
以下は気になるところをつらつらと。
序章より
・神話に登場する動物は「気まぐれ」では選ばれない。
・ガンギエイが神話に登場するのは、ある側面から見るか他の側面から見るかによって、イエスかノーか一つの答えのみを与えうる動物だから。
いわばその答えを積み重ねることによって非常に難しい問題を解く現代のコンピューターと同じである。
第三章より
・キリスト教と結びついた資本主義が発達した理由は三位一体にある。
・グアラニ族の預言者たちは<一>を恐れていた。
・私たちは<一>の魔力にとりつかれている。
第四章より
・レレ族は自分たちの動物分類学に属さないアリクイを例外者として怪物的な存在と捉えて、秘密の儀式で食べる。
・迷宮の概念。
・女性は初めから「自然智」を持っている。男性の手にする「秘密智」は厳しいイニシエーションの試練を乗り越えなければならない。女性はその男性を温かく迎えることで結びつく。
第七章より
・「さち」は贈与論的な思考が働いている。「さ」は動物霊の領域と人間の領域の境界面を現している。その境界面に満ちている霊力が「ち」。
「海の幸」も「山の幸」もそうやってやってきた贈与物。
・全てを性に還元するのは間違い。性的体験も宗教的体験もよく似たタイプの異なる悦楽のあらわれにほかならないと思うべき。
第八章より
・経済活動にはなにかを生み出そうとする「生の衝動(エロス)」だけで動いているのではなく、その根底には破壊や死を目指す「死の衝動(タナトス)」が潜んでいる。
終章より
・無意識の行う対称性=高次元性=流動性=無限性をひめた潜在能力は形而上学化された世界で自由を奪われているように見えるが、確かに存在し、発達しようという可能性はまったく損傷をうけていない。
カイエ・ソバージュを読破して本当に良かったと思っている。
丁寧に一巻ずつ五巻にたどりつくまで語られている。
とてもわかりやすかった。
このタイミングでこの本に出会えたことに感謝している。
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中沢新一さんが大学で行った講義を本にまとめた「カイエ・ソバージュ」シリーズの第5巻、最終巻であり、総集編のような一冊です。
5冊読むのが大変な方はこれだけどうぞ。。。とヨコシマなレビューですみません。
本書は911以後の世界の価値観再構築のためにかかれいますが、311以後、ますます重要になっていると思います。
「レヴィ・ストロースの神話論、クラストルの国家論、マルクスの経済学批判、バタイユの普遍経済学、ラカンによる無意識のトポロジー論、ドゥールズの多様体哲学、などで示された思想の今日的な再構成を試みている」野心的なシリーズです。
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5冊シリーズ読破。5冊ともタイトルがおしゃれ。今までのまとめって感じです。講義録なので、かなり読みやすい。こういう講義を大学生の時に受けたかったな。
昔の人はまるで違う2つの異なるものをつなげていろんなモノを創り上げて生きていたんだというのがよくわかる。このへんが「対称性」に関係していて、そこらへんが崩れてきて自然の声を聞けなくなっている(想起する力が乏しくなった?)のが現代社会のよう。
ヤギと人間は夫婦でもあるのだ、だからメスと子供のヤギは狩ってはいけないのだ、とか。現代ではまったくもってぶっ飛んだ考え方だけど、良く考えてみると我々が知る現代よりもっと長い間にそういう考え方がなされていたということを思うと、馬鹿にできる考え方ではないんだと思う。
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なんかすごい本。中沢新一の本は、テキトーなものもたくさんありますが、すごい本もたくさんあります。
人間はいったいどこで繋がっているのでしょう。また、人間と生き物の繋がりは?ぐるぐる繋がる連鎖のお話。
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その純粋な形式としての科学は、徹底的に非対称性の論理を駆使して、再現性を確保しようとする。そこでは「同一律」「矛盾律」「排中律」といったアリストテレス的論理学の原則に忠実に、防衛的に、瑕疵なきよう推論や証明が行われる。他方、『人類最古の哲学』で検証してみたように神話は「二項操作」によって「対称性の論理」を働かせている。この神話的思考によって現実の非対称性を補完しようとする実際的な取り組みであるとしたのだった。
対称性の思考を統一しようとする野心的なカイエ・ソバージュシリーズの最終回は神話的思考から始まって、無意識、<1>の魔力、仏教、幸福、経済といったラジカルな人間的活動にその領域を広げながら展開されていく。対称性の人類学が未知の形而上革命の試金石たりえるのか。これから楽しみである。
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より完全で緩やかな繋がり方 131026
違う者同士がどう自在性を維持しながら繋がるか
この世はあの世を内包して
部分と全体がトーラスする入れ子の構造か
この世は部分性からなる相対性・対称性・相似性の対等観と
全体性からなる一体性・均衡性・溶解性の平等観と
この二つの相乗効果で成長し続けている
強いて言えば部分と全体という上から目線に成り得ない
あの世的捉え方の時のみ平等観という関係を
この世に持ち出せるのかもしれない
ソレ以外の部分同士の出合いでは
常にお互いの個性と自主性を尊重し合う必要があるのだろう
つまりは外圧で同質として一つに括ることはでき得ず
それでも反面教師的に反作用を呼び起こす作用となって
自発的な切磋琢磨と発見を可能にすることに成る
エンドレスな悟りの世界 131028
悟りの境地は常にあるのだと思うし
そこに終点はなさそうだ
このステージは一瞬一瞬その都度重ねられていくのだろう
六感的な閃きと三次元的な裏付けとなる証明と
時間軸に沿った信頼によって上塗りされていく
完全という真球にたどり着くことは
在り得ないこのパラドックス界なのだと思う
手にした無限のイメージすら描いては消して描き直す
過去に過ぎ去るものなのだから
トーラスは一成る答えを持つ有限であり
メビウスの輪やクラインの壺は無限的な表現だという人もあるが
どちらも喩え話でしかなく
姿形あるものとなったすべては相対的時空間におけう三次元のもので
流れ去るものではないのだろうか
波動の消え去る無色透明で影も形もない和光な環境は
歪のない真球というイメージでしか語れないように思える
つまりは無から有を産み出すという以前のことなのだろう
あの世がこの世に内包された時に別のあの世が
向こう側に浮かび上がってくるのではないだろうか
この繰り返しによって個々の具体的な意識と
その集合から成る全体的な意識とが
部分と全体として限りなく共に成長して行くことのように思える
整然とした一成る式を創り
この世の有り様を証明することは
次のあの世を描き出すことに繋がるのではないだろうか
そしてソレは多次元的に見えるけれども
相対性時空間の延長線上に浮かび上がる出来事ではないのだろうか
ある巾を持った過去と未来を内包する今という私の時間
コレをもって私という部分において
この世である有限的相対性時空間ということにしておこう
形になりえない真理 131029
完璧な対称性を成す真球
これが無限性をない物を有するという矛盾の中で
歪むことでのみ相対性時空間という
形を表す事を可能にする
そこでは最も全体的な存在として
集合意識がオーラとなってですべてをつないでいる
個々の部分的な意識は常に心の中から湧き出し
変化し続ける真理を追いながら
紆���曲折して成長する部分同士のつながりによって
全体を支えつつお互いを成立させている
相対という左右反転する鏡によって混沌なる無限における真理を
あるいは無色透明の真理を姿形あるものとして垣間見るのである
形而上と形而下 131105
少なくとも西洋的な一成る答えを求めようとする学問は
ソレが芸術や宗教や哲学であろうとも常に形而下に属し
自然に沿うことで成り立つことはないだろう
人間はこの相対性時空間である自然界というバランス点の
上と下を向き合わせることで存在しているこの世という
ステージを得ているのである
このどちらに偏っても過剰なストレスがS性とM性となって
襲い掛かり蟻地獄と成る依存性に吸い込まれてしまう
しかしこのアンバランスの状態こそが反面教師という
具体的な経験を与えてくれる舞台でもあるのだから
毛嫌いすることもできない
物質となったモノはエントロピーの法則によって
振り子のどちらのバランス点にも
長居することはできないし
長居しようと過去にしがみついても弊害が起こるだけ
安定した一成る答えを結果として目指そうとすることで
全体観を失い永遠なる絶対点に到達することが
目的だと思い込んでしまうのではないだろうか
生きるという冒険において体験する現象の全ては
自主的なことであって手段であり道具なのだろう
この手段と道具であるプロセスを味わい
更なる答えを創造していくことで集合意識としての無意識を
育て上げて行くのが自ら創り上げていく全体の中の
部分としての人間にとって喜びである仕事なのではないのか
視野を狭めてこの手段を目的にすり替え溺れる事なかれ!
しかしこれなくして事実も実態もその感覚も真理も
在り得ないのだろう
入れ子になった全体と部分の関係がここにもある
この世を生き抜く冒険とは発見と創造の喜びであり
この動的な歪みを自ら創りだすことで循環推進力を得ながら
全体観という実態を創り上げていくことなのかもしれない
歪みのコントロール次第で部分同士の信頼関係を育てながら
無限に生まれ出てくる未知なる体験を創造していることを
悟りとも言うのではないのだろうか
有限的な肉体を持った私達にとって無限である悟りは
個と集合における成長そのものなのかもしれない
無限も有限もすでにあって待ち受けているモノではなく
今を刻々とつながりながら自律している状態そのものではないのか
繋がりを無視した部分性においては責任転嫁する不可抗力を持つが
視野を広げて全体観に従えばどんなに理不尽に見える暴力的な
状況でもそこに自主的選択というつながりの存在を
見ることになるだろう