「その人」らしさは「その体」の記憶からもつくられる。
2022/06/07 16:17
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投稿者:銀の皿 - この投稿者のレビュー一覧を見る
それぞれ違う身体条件を持った11人の方とのインタビュー。手や足を失った人、生まれつきない人など、それぞれの「ない日常」での感じ方。著者が聞いたこと、感じたことから、自分とは違う「ない」人への見方が随分変わった気がします。全く違う「記憶体験」を読んでいく。理解に少し時間がかかりますが良い体験をさせてくれる本でした。
失った手の「動いていた時の記憶」と義手にしたときにどう折り合うか。もともと少ししかない片足に義足をつけたとき、手やもう一方の脚の「記憶」がどう折り合っていくか。体が意識の外で行っていることを、意識的にとらえることで見えてくることもあるようです。体の状態も、心の記憶につながって「その人」になっていく。
吃音の人も、アルツハイマーの人も、それぞれがもつ独特の体験、人生がある。VRを使って幻肢がどうなるかを試してみる、などの現代ならではの取り組みもあり、積極的にそれに取り組んでいく人たちの姿にも考えさせられました。
年齢を重ね、「立つのがつらい」「良く見えない」と以前と同じようには動けない状態に私自身も進んでいっている。けれどそれが自分自身だし、意識して工夫していくことはできる。この先の生き方へ勇気をくれる一冊でもありました。
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障害をもっている人の身体感を取材することで見えてくる「記憶する体」とは。
非常に興味深い内容で身体の持つどうにもならない理不尽さと無限大の可能性の両方を感じさせられる内容です。
ぜひ、この本で取材した人達のその後や他の人達へのインタビューなどび次作も期待したいです。
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障害者へのインタビューを通じて見出された、それぞれに固有の身体性。しかもそれらは単に、吃音であるとか、左手がないとか、目が見えない、といった属性によって固有なのではなく、固有の身体性とともに生きてきた時間の中で蓄積されてきた記憶とともにあるからこその固有性なのだ。
抽象化し普遍化することによって得られる「知識」の範疇にはとどまることのない、不合理な身体の固有性を、記憶する体と呼ぶ。
痛みを他者と分かち持つことによって、その痛みを手放していくことができるという事例は、興味深い。たとえば、災害に遭って生じたトラウマ的な痛みの記憶もまた、分かち持つことによって癒すことができるのではないか。
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後天的に身体の一部を失った人は、その部分の疼痛〈幻肢痛〉に悩まされたりするということは、聞いた事があったけど、どこか不思議エピソードとして聞いていた。
身体の一部を失ってしまったり、その機能を損なってしまった人達に起こる事をこまやかに取材し、様々に対応している姿を追ったこの本を読んで、また少し見える世界が変わった。
身体と言う、馴染みはあれど謎の多いもの。
その捉え方、考え方が、広がった。
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何らかの障害を持つ人の身体の固有性を記述する試み。ディティールの書き方が圧倒的にうまい。著者の意見も論理的でわかりやすい。ディティールとロジック、そして著者ならではの視点。ノンフィクションとしてクリエイティブだと思う。
記憶の仕組みとか定義など科学の視点から難癖をつけられる内容でもあるけど、この本は普遍的な定理を明らかにするものではなく、ディティールとロジックで固有の身体を浮かび上がらせるもの。全く問題ない。描写とストーリーの作り方の教科書になる。
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本書は、身体的にいわゆる「障害」をもった十数人のエピソードに基づき、人間の体のその人らしさ、アイデンティティについて、記憶をテーマに解き明かそうと試みた著作である。
著者は、もともとは生物学者を目指しながら途中で現代アート専攻へと転向しつつ、人体について彼女独自の視点から研究を続けているというちょっと変わった経歴の持ち主だ。以前読んだ『目の見えない人は世界をどう見ているのか』でも感じた独自性は、ここでも発揮されている。
取り上げられた人々は皆、何かしら身体的に障害を持っている。無論そのために不便な暮らしを余儀なくさせられて、それでも彼らなりの工夫をこらして、自らの置かれた状況を悲観することなく人生を謳歌している魅力的な人物ばかり。そこから私が感じたのは、身体的な障害のみならず、精神的な障害や疾患においても同様なのではないか、本人の心持ちが、その症状に強く影響を及ぼすのではないか、ということである。
昨今、精神疾患というとまず第一選択として、投薬が挙げられるが、急性期はそれでも仕方がないとしても、必ずしも投薬することでしか治療の余地がないわけではないのではないか、自分自身の意識や人との関わりのなかで、大いに変わりうる可能性がもっとあるのではないだろうか。
本書に登場する人物は、身体的欠損を自らの精神活動によって、脳が感じている違和感や不全感を解消する術を見出している。脳が、視覚的な情報によって、いい意味で容易に騙されることは既に知られているが、自分の思考パターンを意識的に変えることによっても同様のことが起こりうるならば、精神疾患でも同じアプローチかできると考えてもおかしくない。
今話題になっているオープンダイアローグという北欧発の治療法も、投薬治療よりも劇的な効果を生み出していると聞く。これはとりも直さず、本人が、他人との対話によって自分自身の意識へアプローチし、思考パターンの変革を無意識的に行うことで、疾患とされる生物学的な身体反応にも、良い意味での影響を及ぼすことができる証明だと言えるのではないか。
本書は、決して脳科学の専門書ではないが、脳がいかにコントロール可能な余地をもったものであるか、脳の持つ可能性を示してくれていると感じた。
本当は、個々のエピソードでいろいろ思うところがありもっとたくさん書きたいことがあったのだけど、読み始めてから読了まで時間がかかってしまって、その多くを失念してしまったことがとても悔やまれる。
機会があったらまた読み返そうかな。
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筆者が様々な身体障碍者にインタビューをして分かったことをエッセイ風に述べていくスタイルで、分量の割にはスラスラと読むことが出来ました。
本書に登場するインタビュイーについては、過去の個別的な経験によって悩んでいるケースが多かったです。
例えば、片腕を後天的に亡くした人は、腕があった頃と現在の状態とのギャップによる幻肢痛に苦しんだり、吃音症を克服した人でも、同じ症状の人を見ると過去の経験がフラッシュバックしそうで怖がったりと、身体が正常に機能していた経験とそうじゃない経験を身体記憶として併せ持つことは、我々には想像出来ないような負担があるようです。
その一方で、全盲の女性が、目が見えていた時の経験を活かし、日常生活をそつなくこなすどころか、類稀なる想像力を育んでいるような、過去の個別的経験によって、日常生活が豊かになっているケースもありました。
両者はその内実こそ異なるものの、過去の個別的経験が現在の生活に影響を与えている点では共通しています。
身体の障碍に向き合うためにはまず、当事者の過去に目を当て、それぞれの経験(ローカル・ルール)をもとにアプローチしていくことが大切なんだなと認識させられました。
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幻肢痛や吃音、若年性アルツハイマーは自分が考えていたのとは違う感覚だった。私もイップスがあるが、身体の記憶は普段生活している中では意識しないで出来ることが、意識すると出来なくなる、又は出来ないから意識せざるをえなくなる。厄介なものだと思うけど、上手く付き合っていかないといけない。文体が教育的なドキュメンタリーのナレーションのようで、言葉の面白さや次の文章を読むことの高揚は殆ど感じなかった。読みものというよりレポートのような感じ。
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障害を持つ人の、ご自分の身体との付き合い方、動かし方、記憶された過去の身体の感覚等、知らない世界を教えてもらった感じで「へぇー!そうなんだ!すごい!」とただただ思った。どの方のエピソードもすごいのだ。その方個人の凄さなのだが、身体というものの凄さ、可能性の大きさに圧倒された。
個人的には特に最後の若年性アルツハイマーの方のお話が、老人のアルツハイマーとは違ったり、年齢とは関係なく個別に違ったりするのかもしれないが、とても参考になった。老年のアルツハイマーの母を持つ身としては。ホントにいつも不思議でたまらない母の言動が少しは理解できたように思う。
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少しマニアックな分野の本。
視力を失ったり、腕や脚を失った人が、
どのような感覚でその後の生活をしているか、
実際にインタビューした内容を書き綴った本。
幻肢痛という四肢を一部失ったけど、
脳が、失ってない!と何度も信号を送り続ける
事で猛烈な痛みが走る事がある。
というのは衝撃だった。
目が見えなくても物を書く少女とか。
目が見えなくなると嗅覚や触覚が鋭くなるそう。
障害と向き合いながら生きる人々、
失ったけど失ってないような感覚で、
折り合いつけながら前向きに生活している
人たちが印象的だった。
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・なぜ、絵を描くと15歳のころに戻ることができるのか。それは単に、「見えていた頃に戻る」以上の、自己確認の意味を持つ作業でした。
「ものを作るという作業をしていくと、自分が何を求めているのか、何を知りたいのか、ということの基盤が、見える/見えない、サポートしてほしい/してほしくないということとは別に具体化していくんです」。
これはおそらく、ものを作ることの根源に触れるような感覚でしょう。ものを作るとは小さな迷いと決断の連続です。この線をどうのばそうか、口を描き込むのかどうか、ぼかしを入れるのかどうか・・・・。問いかけるのも自分なら、答えるのも自分です。失敗したとしても、その責任を自分で引き受ける事由がある。
・いずれにせよ、「オートマ制御のマニュアル制御化」という中途障害では誰もが経験する大きな変化が、大前さんの場合には、ダンサーならではの体に対する意識の敏感さによって、きわめて高いマニュアル制御精度の獲得につながりました。利き足交換は、そんな大前さんならではの、運動システムのアップデートの結果だと言えます。
そして大前さんは、今や利き足となった左足の器用さを試すかのように、あえていびつな義足を開発し、舞台上で使っています。短すぎて立つとつま先がつかない義足や、逆に長すぎる義足。バランスが悪くて、体には当然負担がかかります。「義足屋さんに頼むと、そんなものは作れないと言うんですが、何が起こっても責任をとるからと言って、誓約書を書いて、作ってもらうんです」。
・かんばらさんは、右脚に対して、「自分という感じはある」と言います。一方で、もし事故などで右脚を失うということがあったとしても、「すぐ立ち直れる気がする」とも言います。かんばらさんにとって、右脚は「あまり意味がない」。左脚は、つかまり立ちのときに支えになるなど、生活のなかで頼りになる存在ですが、右脚は生かす方法がありません。
自分という感じはあるけれど、なくなっても、まあ大丈夫。この「右脚」「左脚」「手」のそれぞれに対する距離感を、かんばらさんはこうまとめます。「手が一番自分に近くて、次が左脚で、右脚はだいぶ遠い存在という感じですね。右脚さんには悪いですけれども(笑)」。
・目が見える人がレストランの席数を記述するとき、多くの場合それは「レストランの規模」を読者に伝えることが目的でしょう。もちろん、推理小説などでは「5」という数そのものが重要になる場合もありますが、たいていは数は手がかりにすぎません。「5席」であればかなり小さな、こじんまりしたレストランでしょうし、「100席」となればファミレスのような、店員さんが端末を持って注文を取りに来るような機械化された店をイメージします。席数という情報を手がかりに、目が見える人は、店舗の空間的な広さやタイプ、料理の価格帯、想定されるコミュニケーションなどについてのイメージをふくらませます。
では全盲の方がレストランに行くとき、彼らはこうした店の規模に関する情報を得ていなかというと、必ずしも、そういうわけではないでしょう。お客さんの会話のトーン、BGMや環境音が反響する具合、あるいは頬にあたる空気の���れを手がかりに、彼らは瞬時に「規模」を把握しているはずです。
・義手を作るとは、言うまでもなく、代わりとなる右手を獲得することを意味します。右手がつくことで、たとえば左に傾きがちだった体の中心線が、正しい位置にもどるかもしれない。洋服を着るにしても、着こなしがしやすくなるかもしれない。様々なメリットが見込まれます。
けれどもそれは同時に、失うことでもあるかもしれない、と倉澤さんは言います。
どういうことか。今の自分の体について、倉澤さんはこう断言します。「見えないけれど、私の中では右手はある」。見えないけれど存在する手。そう、幻肢です。
・本当にそうなのか。さらに質問を重ねると、川村さんは笑いながら衝撃的な思考実験をします。「スマホと義手が同時に落ちたら、パッとスマホを取ると思います(笑)」。
・VRの効果も同じなのではないか、と森さんは言います。つまり、今は「思い出し、繰り返す」という訓練の段階にあるけれども、慣れてくれば、意識しなくても白い手がイメージされ、それとともに手が動いているような状態になるのではないか。
そのような自動化が起こるためには、むしろ「いかに効果をブロックしないか」が重要ではないかと森さんは考えています。
たとえば「言語を動かしちゃったりすると、視覚が消えちゃう」。かといって、言葉を思い浮かべないようにがんばってしまうと、今度はそれに縛られてしまってうまくいかない。「何かが思い浮かんだら、しばらく浮かばせとくというか、言語野が動くなら動け、と遊ばせておきますけどね」。
意識しないことを意識する、は最大の難問です。
・講演をきっかけに自分や自分の置かれた環境のことを振り返るうちに、痛みを抱えているのはチョンさん本人だけではなかった、ということに気がついたのです。
家族に目を向けてみると、子供がものを盗むのをやめられなかったり、十分に甘えられていなかったりする状況がある。これは、すでに彼らなりに痛みを感じ、それに対処しようとしていることの表れではないのか。
「だんだん、子供の盗癖が出たりして、ぼくだけが痛みを抱えているんじゃないということに気がついたんです。家族の中で、何か変化があったことで、みんなそれぞれ痛みを抱えながら小さいながらも自分なりに進もうとしているのをまざまざと感じさせられたら、なんだろう、この『自分だけ』みたいなやつは、と気づいたんです」。
・大城さんは、その大変さを「エコモードがない」と表現します。「とっても今疲れやすいですね。(・・・)何でこんなに疲れやすいのかなあ、と思ったら、いろんなことを意識しないとできないからなんでしょうね」。「エコモードがなくてつねに全力モードだから、そりゃ疲れますよね。ずっと、人が歩いてもいいところを、私はずっと走っていなくちゃいけない」。
・ある人の体は、その人がその体とともに過ごした時間によって作られています。与えられた条件のなかで、この体とうまくやるにはどうすればいいのか。そんな「この体とつきあうノウハウ」こそが、その人の感じ方や考え方とダイレクトに結びついています。
だとすれば、魔法の薬によって、一瞬で障���が消えるとしたらどうでしょう。確かにわずらわしさから解放されるのかもしれない。けれどもそれは、その体とともに生きてきた時間をリセットすることになる。それは限りなく、自分の体を否定することと同義です。
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フィクションの世界で幻肢痛という言葉を見聞きしたものの、それがどういったものかもよく知りませんでした。この本の中でエピソードのひとつとして詳しく紹介されていた幻肢痛は、私が想像していたものとはかなり異なり、認識を改めることができました。
「もう無いもの」を求め続ける脳の働きの不思議さを知り、それぞれ条件の違った世界で生きる方々の創意工夫や無意識に行っていることから、世界の見え方がこうも違うのかという発見もありました。
そして、今ある身体とない身体、新たに刻まれていく経験と過去の記憶が織り成した生きる術の多様さを思い知らされもしました。
障害を持つ/持たないで単純に二分化できなどしない、人とという生き物の複雑さをわかりやすく知れた、とても素晴らしい本でした。
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視覚に頼りがちな健常者からすれば全盲の世界は想像を絶するが、インタビューを通じてその世界を垣間見せてくれた研究で近年注目されている著者の新作。
見えないのに自在に書ける(描ける)、無いはずの脚を動かす、吃音者が落語家のように話すなど、「記憶する身体」が起こす特異な事例を紹介する。
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障害者について研究を行う著者が11人の障害者の方へのインタビューからその身体と付き合う中で自身にある身体的な感覚について書いた一冊。
吃音や難聴や視覚障害などを持つ方がどのようにして自身の体と付き合っているのかが本書を読んで深く理解することができました。
健常者にはない感覚だったり幻肢痛などの痛みなど見た目には分からない苦悩だったり想いがあることを知り大変貴重な情報を得ることができました。
先天的か後天的かや状況や立場においても障害との向き合い方は千差万別で各人の個性が感じられて大変興味深く感じました。
健常者が当たり前に感じることができないことで得る特殊な感覚や補助するにあたっての当事者と健常者の必要性の齟齬などは本書の中でも印象に残りました。
人によってはメモを取ることや必要性のない義手付けるなどルールが出来て、それが各人の個性を形成していると読んで感じました。
本書を通じて障害を持つ人がいかにその身体と付き合って順応し、アイデンティティを形成してきたことを学ぶことができ今まで知らなかった人間の側面を感じることのできた一冊でした。