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何となく書店に並んでゐたため。
大変すぐれた俳人であるといふことは耳にしてゐたが、どういつたところですぐれてゐるのか、また俳句といふ世界では何がすぐれてゐるといふのか、わからずにゐたから、まずはどんなひとか自分の目で見て考へてみたいと感じたからであらう。
句だけみると、とても静かで固い印象のものが多いと思ふ。しかし、それは理屈つぽさといふのではなく、ことばがことばとして尽きてゐるやうな、さうした印象だ。ことばによる説明を拒む、さういつた方が相応しいだらうか。詠んで何かを書かれてゐないあれこれを想像するのではなく、ことばそれ自体が、書かれてゐないことをも示してゐる。
そこには、絶えまない表現の飽くなき追求があつたことだと思はれる。子規や虚子の見出したあまりにも分厚い壁を、俳句といふ表現形態のぎりぎりまで攻める。そして、山頭火や一茶の句に至る。さうした創る衝動は、流行と伝統のまさに不易流行ではないか。
彼の語る経歴を読んでゐると、歩んできた道のりはそれほどまつすぐなものではない。自分の死の可能性、仲間の死ぬ可能性を潜り抜け、それでもなお、とどまることを知らぬ人生。そのどろどろした不定形。猥雑でぐちゃぐちゃなものをたくさん抱へてゐたはずだ。
しかし、句はさうした猥雑さがまつたくと言つていいほどみられない。かと言つて抑制的で理屈つぽいといふことではない。
彼が歩んできた実体験だけではかうにはならなかつただらう。実体験といふ液体をたつた数字の共通のことばで固体にするといふことは彼には息をするやうに「当たり前」なのだ。俳句を書かうとして書いてゐるのではなく、彼の心の動きが俳句的なのだ。