30年前の原発労働、しかし現在とほとんど変わらないのではないか?
2011/06/26 11:41
10人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:栗山光司 - この投稿者のレビュー一覧を見る
原発の下請け労働者として1978年、79年と働いた著者の貴重な記録で、『原発ジプシー』に加筆修正して緊急復刊したものですが、30年前頃の出来事なのに、とてもリアリティがあって、いまだに同じようなことをやっているんだろうと言った切実感があった。
労災隠しだとか日常的に起こる、事故、怪我、著者も作業中に骨折する。だけど結局労災申請をしない。孫請け、ひ孫請け、協力社員という名の「非正規雇用」者のいろんなところからかき集められた労働者、手配師たちの人間模様。そんな描写も暖かい筆致で言及している。
顔の見える一人一人の原発労働者たちの生き様に触れるとあっけらかんと「反原発」と切り捨てるおめでたさを呑み込みたくなる。
東電、親会社の殆どの正社員たちは何の迷いもなく「原発推進」に突き進んでいるかもしれないが、「これでは事故が起きないほうが不思議だ」と、定期点検に従事する下請け労働者の「つぶやき」をよく聞いたと言う。本文は日記形式になっています。
1979年4月4日の敦賀原子力発電所の作業内容の一部を引用します。(p312~3)
《ビニール袋に懐中電灯一つ・ドライバー二本・ビス・ガムテープを詰め、出発。日立の社員(どうも、CRDのメーカーの社員のようだ)三人と、大谷さん、私の計五人。/チェンジング・ルーム前のアラーム・メーター貸出所で、64ミリレムにセットしたアラームを受けとる。線量のセットは、16ミリレムきざみになっている。16から始まって、32、48、64、80……と続く。そのアラーム・メーターをピンクの下着の胸にガムテープで固定。マスクは赤服棚前の木製の箱に、裸のまま詰め込まれている。/きのうと同じ通路を通り、ドライウェル入口へ。ここで大谷さんと別れる。彼と日立の社員二人はドライウェルに入らず、エレベーター前で作業をするらしい。/エア・ロック前のバリアで、全員マスクをつける。入口横のイスに座っている日立の放管(「放管」の腕章をつけた彼は、半面マスク姿だ)となにやら話してした社員の一人が私の所に戻ってくると、「内部の線量が高くなった。もう少しこのまま待機していろ」と合図を送ってきた。/ビニール・シートを張った床に坐りこむ。別会社の労働者五人もやはり待機になったらしく、私の横に並んで腰をおろした。全面マスクのため話もできず、皆、黙って下をむいているだけだ。/30分が経過した。線量はまだ下がらないらしい。マスクをつけているために、体を動かしてもいないのに、呼吸がしだいに荒くなってきた。軽い頭痛。私の横で待機中の労働者たちは、マスクのアゴの部分についているフィルターを外してしまっていた。これではまるでマスクの用をなしていない。頭痛が少しずつ増してくる。彼らのようにフィルターを外し、呼吸をいくらかでも楽にしたい衝動を懸命に押し殺す。/放管から「OK」のサイン。バリアで赤いゴム長をはき、エア・ロックを抜ける。》
その少し前、3月29日に「スリーマイル島原発事故」が起こるわけです。メディアが大々的に報じている。だけど、敦賀原発で一緒に働く仲間たちはこの大事故を知らないはずはないのに一切話題にしない。朝礼の際も注意とかそれに関する訓示もない。この「無関係・無関心」は逆に原発症候が深い証ではないか、友人から電話があって、「アメリカの原発事故で、そっちの方じゃあパニック状態じゃないのか?」と尋ねられたが、原発労働者だけではなく、敦賀市民も冷静。他人事のように受け止めていたと日記に書く。どうしようもないとする意識なのか、不気味な反応だと書く。つくづく「原発大国」への道は根が深く政治、経済、文化だけにとどまらず人々の身体に浸みこんで身体化している不気味さなのか、そんな心理的内部被曝の怖さも感じました。
30年近く前にすでに
2025/01/22 20:48
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ichikawan - この投稿者のレビュー一覧を見る
堀江邦夫は原発の実相をつかむため1978年から日雇い労働者として美浜原発、福島第一原発、敦賀原発で働いた。そこで待っていたのは過酷な労働だけではない。賃金はピンハネされわずか。電力会社の正社員からは差別され、安全への配慮にも欠けていた。福島第一原発の事故の30年近く前にすでにこのような指摘がなされながらこれが改善されなかったのであるから、あのような事故が起きたのは天災ではなく人災であったとするよりほかない。
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:BB - この投稿者のレビュー一覧を見る
1979年刊行の『原発ジプシー』に加筆修正されている。『原発ジプシー』は福島第1原発事故後に現代書館から増補新版が出ているので、そこからだと10年くらいだが、それにしても45年前に著者が提起していた問題は、原発事故を経た今なお変わらずに続いているというところが恐ろしい。むしろ、社会の中での格差が進み、構造的暴力が不可視化され、原発の実態はよりブラックボックス化しているのではないか。
何度でも読まれるべき1冊だ。
投稿元:
レビューを見る
筆者が1978年から1979年にかけて、美浜原発、福島第一原発、敦賀原発で実際に原子力発電所内で働いていた事実や体験を元にしたためたルポルタージュ。初期に「原発ジプシー」として表した著作を加筆修正して新たなタイトルとして出版されたものです。
昨今、原発労働についての実態、特に下請け孫請けに代表されるが問題にされているなかで、どのような作業を行っているのかを知る貴重な資料となっています。
原発が危険であるとか、経済性の指摘など、いろいろと論点がある中、原子力発電所で働くことの安全管理や意識改革は、今に至るまで改善されることが無かったのではないかと判断せざるをえない内容です。
個人的には人の安全を軽視するようなスタンスが一番哀しく思い、また憤りを感じます。そのなかで実際に働いている方々の実態を知るということは、その方々をひっくるめて、問題を考えて行動するための欠かせない一冊と考えます。
最後に跋(ばつ)に変えて、というあとがきで、地震に対するお見舞いの気持ちともともに、事故に対する見解をするすとともに、そこで陽に暗に働く人たちへの思いもつたわってきます。ほんの少しだけ触れられている筆者自身の健康状態も気がかりでなりません。
投稿元:
レビューを見る
『原発ジプシー』のタイトルで1979年に現代書館から出版され(その後講談社文庫化)、20余年を経て、今回の東電福島原発の事故を機に再構成し復刊されたもの。最初に読んだときは大学1,2年生の頃で、先輩から紹介された。こうした世界があるのか、という衝撃を受けたことを覚えている。その後、高校の教員として現代社会の授業で原発を取り上げた際、紹介した本でもある。当時の生徒はこれを覚えていてくれているだろうか。
この本から浮かび上がってくるのは、「クリーン・エネルギー」という言葉が、いかに原発の労働現場を知らないものがはいている無責任な言葉であり、その労働現場の過酷さと、手配師が労働者を斡旋するという前近代的世界である。
著者は30歳のころ、原発労働者としてその労働実態を自ら体験し、ルポルタージュとしてまとめた。その後著者は死線をさまようような病気をし、現在も体調がすぐれないということであるが、今回の復刊に当たって作成した一枚のグラフが跋文のところに記されている。そこには、現場で被爆している労働者の圧倒的多数が東電社員ではなく、下請け、孫請けの労働者であるという事実が示されている。
この期に及んで、原発を肯定的に語ろうとする人は、こうした事実をまっとうな世の出来事として受け入れることができるのか?
投稿元:
レビューを見る
やっぱり、現場で起きている出来事は、体験した人が語らないと伝わってこないというのが、しみじみわかった。
今でもこの三十年前とそうかわらない環境で「協力会社」の労働者が働いていると思うと、心底頭の下がる思いがする。
それは、福島にかぎらず、現在稼働中の炉のついても同じ。
しかし、ルポのためにここまで身を削って本を書いた著者のジャーナリスト魂は、尊敬に値する。
投稿元:
レビューを見る
原子力発電所は、日雇い労働者の(大量?)被爆に支えられていた。
原発の是非についての議論は、「絶対安全」という神話を前提になされているとするならば、その前提そのものを揺るがすショッキングな内容だ。
無知は罪だと思った。
投稿元:
レビューを見る
システムが関われない人が少しでも介在するところのある現場をリアルに感じました。
p.359の1970年から2008年の「放射線業務従事者被ばく線量と原子炉基数の推移」での電力社員と非社員との被ばく量の格差も、事実であればいくつかの犠牲の一つの上で電力会社がなりたっていることがわかります。
投稿元:
レビューを見る
原発で働くことは、女工哀史か蟹工船の世界と同じらしい。放射線管理などもいい加減であり、労働者を人間と思っていない電力会社の正社員の姿なども見えてくる。大事故が起きるのもいたって当然。福島第一は収集つかないだろうと思ってくる。
投稿元:
レビューを見る
30年以上前、各地の原発で働いたルポ。
鎌田慧氏の自動車絶望工場を彷彿させた。
近年もこんなにずさんな労働者の管理がされているなら絶望的だと思った。
投稿元:
レビューを見る
27年前に書かれたという原発労働ルポ。「明るい未来のエネルギー」が、実は前近代的な下請制度と日雇い労働者の犠牲の元に成り立っているという構図を世に知らしめた一冊。そしてその構図が、とうとうカタストロフィーの瞬間まで変わることとはなかったということは、周知の通り。
個人的には原発反対論者ではないのだが、しかし、その工学や技術があまりにも未成熟なものであるという事実は明らかであろう。筆者も指摘しているとおり、原発そのものが定期点検を想定した作りになっていないのだ(なにしろ、定検に必要な電力すら引き込まれていないというのだから、弁明の余地はない)。体を起こすこともできない劣悪な環境で、作業の意味も影響も知らない日雇い労働者が点検をするのだから、ミスや見落としが多くなる道理である。孫請けひ孫受け業者は親に対して事故を隠すインセンティブが豊富なので、必然的に隠蔽体質が出来上がる。国や電力会社は、この未来の炎をコントロールできるほど、まだ賢くなっていない。
投稿元:
レビューを見る
これを読む限りでは恐ろしいことがたくさん。自分はアルバイトで火力発電所に公害の測定に行ったことがあったが、作業場所が高いところだったり、触るものが熱かったくらいで命の危険を感じたことはなかった。原発が安全に稼動できるためには見えないところでずいぶんいろいろなことが積み重なっているということが生々しくわかる。
下請けに危険な作業を任せながらもろくに安全管理もしない電力会社や元受会社の体質はどうにかしなければならないだろう。まともにやったら原発は運用できないということだろうか。
投稿元:
レビューを見る
元々書名が「原発ジプシー」だったのが、「原発労働記」に改題。原発については、被害が広範囲に渡る「外部化」よりも、この本で詳細に描写されているピンハネや過酷な労働実態に象徴される、豊かな生活を維持するための被害の「内部化」が私にとって心を痛める事実である。
投稿元:
レビューを見る
この本の初版は昭和54年刊行。
著者は原発の現実を自ら確かめるべく定期検査を行う下請け作業員となり各地の原発で働いた。
杜撰な作業環境管理、まるでモノ扱いの処遇は32年を経て福島から伝え聞く現場の様子と何ら変わらない。
厚生労働省はこうした現場を指導できる労働衛生の職員を育成し、きちんと行政指導して欲しい。
原発の存続云々はさておいてもこの本を読めば誰もが
「こんなんで大丈夫?」と思うだろう。
原発管理に大いに不安を抱く現実がある。一読の価値あり!
投稿元:
レビューを見る
美浜、福島、敦賀の原発を労働者として働いたレポート。読んでいて70ページほどで気分が悪く……。原発安全神話がいかに脆いものであるのか、また、労働者の扱いがいかなるものなのかが赤裸々に描かれている。電気と引き換えの犠牲の大きさ。知っておくべきことだ。