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著者は「不耕起積草農法」を実践する里山生活者だ。その農法とは、「耕さずに草を積む。つまり、最初に作った畝を半永久的に使い、その上に刈り草を幾重にも積んで全域を堆肥化する。いいかえれば、野菜を植える箇所以外にも広く施肥する、ということになる。その点で、この農法はより多くのものを育む仕方である」(pp.65-66)という。彼が育てているのは米(「ほなみちゃん」と呼ぶ)、大豆(「にくぎゅう」と呼ぶ)、名古屋コーチン(「ニック」とよぶ)のほかに、様々な野菜(おそらく)だ。それだけではなく彼の田畑には多様な生物が生息する。彼の生活は多様な生物との戦いだという。里山での耕作と聞くと、牧歌的な自然とともに生きるというフレーズが思い浮かぶが、そうではないという。
堆肥づくりには様々な微生物がかかわっている。水を引いた棚田にはカエルやイモリや水棲昆虫たち、土の中には微生物だけではなく、ミミズやオケラ達がいる。カエルを狙ってヘビがやってくるし、そのヘビを狙ってノスリが飛んでくる。整備された畝や土手には様々な植物が生えてくる。農作物を狙ってイノシシやシカがやってくる。ニックを狙ってイタチやキツネもおそってくる。もちろん、著者はかれらと戦いを交える。生えてくる植物を刈り取り、堆肥とする。ニックたちの餌にもなる。昆虫も餌だ。イノシシよけのトタン製の防御線をつくる。鶏小屋も、防御を固める。稲の根元に生える草取りもする。これらは、著者が生きていくために必要なことという。
彼の農法ではない、一般的な農業では、人工的な肥料で施肥をし、定期的に農薬をまく。土中の、あるいは、田畑の動植物の生き物の数や多様性は圧倒的に少なくなる。さらに、機械化された農業では、おそらく、小さな生き物との接点は殆どなくなってしまうだろう。
著者は、だからといって、不耕起積草農法を用いて多様な生物とともに自然なかで生きる里山ぐらしといったイメージを主張したいわけではない。すべての人々に、生きることは多様な生き物との交渉のなかにあると考えようという。本書のタイトルにある堆肥化がキーワードだ。堆肥を使った農法をしているが、彼は、草を刈って積み重ねているだけで、有機物を無機物に分解するのは微生物や様々な土中の生き物である。彼が食べ物を得たいから草を刈って畝に積んでいるのであって、自然の営みは、彼の意図とは無関係だ。草を刈って畝に積むのは彼ではあるが、彼の存在がなくとも堆肥化は進み、様々な生き物の共生体ができている。
人間を中心に見てしまうと、人間の働きに焦点が当てられてしまうが、実は堆肥化には人間の存在は必須条件ではない。人新世という言葉に代表されるように人間の自然への干渉が大きいとはいうものの、それもこれも、人間中心的な視点の一つと言えるだろう。本書の堆肥化というタイトルに含まれるキーワードは、著者自身の堆肥化へのあこがれ(死んで火葬されるのではなく、堆肥となって自然と一体化すること?)でもある。
本書の最後の言葉を記しておこう。本書で語りすぎたと書いたあと、このあとは読者の番だという。「次はあなたが身のまわりの生き物たちと物語を紡ぎ、語る番だ。人類堆肥化計画はわたしだけのものではない。陰湿に立ち回って、生前堆肥となり、生臭い話を聞かせてくれ」。
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カテゴリを分類する際に『評論・エッセイ』としたが、文体はエッセイではあったものの、内容は「いかに人間を土へと堕落させ、堆肥と化すか」を実践を交えて語ったものであった。〝堕落〟と言えば坂口安吾の『堕落論』が有名だが、本書は実際に著者自らが里山にて自分を生きながらに堆肥(物理的物質的にではなく、自然に対して著者が負う役割として)と化す様子が描かれており、その点で言えば『堕落論』よりも実践的であると言える。
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なんも考えずに好き放題するときの「欲望」なんて、諸々の枠から逸してなくて貧しいのかも。
罪を罪と見抜いて、あえてわが身に重ねていく腐敗こそ、真の好き放題の悦楽への第一歩。