投稿元:
レビューを見る
(2007.05.26読了)(2007.03.15購入)
中巻は、川中島の戦いの前から、信玄が上洛を企てた三方が原の戦いの途中までです。
長尾景虎は、上洛し将軍足利義輝に拝謁しています。景虎は、腫物を病んでいた。景虎は淋病に罹っていたという説がある。(20頁)このときは平癒し、帰国した。
津本さんの「武田信玄」では、山本勘助はほとんど出てこないが、「甲陽軍鑑」に記載されている部分は引用されています。
「甲陽軍鑑」には、山本勘助についての記載があり、彼が信玄の足軽大将であるとしている。「甲陽信戦録」には、勘助最期の場面が記されている。(69頁)
川中島の合戦の後ぐらいの信玄の勢力圏は、以下のようです。
「信玄の所領は、甲斐で約22万石、信濃で41万石、あわせて63万石。上野にも勢力圏を次第に広げていた。」(92頁)
山梨と長野が信玄の勢力圏です。関東平野へも進出を図っていたということでしょう。合戦の場所として、結構、埼玉方面の地名が出てきます。北条、上杉、武田の三つ巴で、争っていたようです。
ところどころで、「甲陽軍鑑」にある信玄の言行を挟んでいます。(101頁)
生まれついての気質について、「分別ある人を腹黒き佞人と見る。遠慮深き人を臆病者と見る。がさつな人を武勇の人と見る。これは大きな過ちだ」という。
分別と才覚について「分別とは心にて致すものであり、才覚とは一時の機転に過ぎぬ。それゆえ分別をよく致すものは落ち度が少なかろうが、才覚ばかりにて分別に欠くるものは、とかく誤り多きものじゃ」と説く。
●信玄の説く、大将が守るべき5か条(103頁)
一、大将は家来の能力を正しく判定し、家来の得意とするところを知った上で、働かせねばならない。
一、侍はもとより、諸奉公人をも含め、手柄の上中下をよく見分け、鏡に映るがごとく公平に評価し、えこひいきなく賞罰を行わねばならない。
一、手柄を立てた武士には、相応しい恩賞を与えねばならない。
一、大将は家来のすべてに慈悲をかけねばならない。
一、大将がことにあたり、あまりに怒ることが少ないときは、家来は油断する。
油断が現われると自然に思慮ある家来も法度軍律にそむくようになり、上下ともにその害を受けることになる。
怒る時も家来の罪の上中下をよく見分け、事情によっては許すことも必要である。
☆津本陽さんの本(既読)
「宮本武蔵」津本陽著、文春文庫、1989.02.10
「下天は夢か 一」津本陽著、講談社文庫、1992.06.15
「下天は夢か 信長私記」津本陽著、新潮文庫、1994.09.01
「夢のまた夢 一」津本陽著、文春文庫、1996.01.10
「前田利家(上)」津本陽著、講談社文庫、1997.09.15
「加賀百万石」津本陽著、講談社文庫、1999.09.15
「乾坤の夢(上)」津本陽著、文春文庫、1999.12.10
「武田信玄(上)」津本陽著、講談社文庫、1996.09.15
(2007年6月9日・記)
☆関連図書(既読)
「風林火山」井上靖著、新潮文庫、1958.12.05
「甲陽軍鑑」佐藤正英著、ちくま学芸文庫、2006.12.10
「山本勘助」平山優著、講談社現代新書、2006.12.20
「武田信玄(上)」津本陽著、講談社文庫、1996.09.15
(「BOOK」データベースよ���)amazon
川中島に相まみえる中世の花、信玄と謙信。甲州法度をかかげ、軍略・智略・計略を尽くして疾駆する信玄の前に立ちふさがる謙信、そして信長と家康。嫡子義信の謀叛にも遭遇して、信玄の前途は多難、「風林火山」の旗が危うく揺れる。しかし、扶桑随一の騎馬軍団を背景に、信玄は三河の家康打倒をめざす。