地域史でありファミリーストーリーでもある面白さ
2022/08/04 17:52
6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:Takeshita - この投稿者のレビュー一覧を見る
実に面白いノンフィクションだ。森まゆみさんの谷根千地域史や家族史の面白さに通じる所がある。五反田界隈の土地勘のある人には一層面白いだろう。星野さんは94年間続き、2021年に廃業した小さな町工場星野工務店の娘さんである。94年前工場を興した祖父の手記を基に、一族出身地の房総の漁村や戦中の軍事工場下請け、大空襲による一帯の焼け野原、戦後の復興、また地域商店街の満州集団開拓移民とその凄絶な最期などの歴史を追っている。一読して感じるのは著者の普通の(裕福ではない)庶民としての目線と、深い郷土愛、緊密な家族の紐帯である。恐らく星野さん自身も偉ぶらない、穏やかな人柄の方なのだろう。94年の町工場と地域の歴史を通じて爽やかな読後感の残るノンフィクションである。
町の「記憶」を考えさせる
2023/01/23 18:39
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:BB - この投稿者のレビュー一覧を見る
著者が生まれ育ち、今も暮らしているという五反田界隈について語り(つづり)尽くした一冊。
地域を歩き、その歴史を知っていくうちに、著者自身のファミリーヒストリーと共に、意外な五反田の姿が浮かび上がる。軍需の歯車に組み込まれた町工場が立ち並んだ五反田―。
同時に「記憶」の残り方、残され方、向き合い方についても示唆に富み、いろいろと考えさせられる。ライトなのに重い、しかしぐいぐい読ませる。五反田に土地勘がある人は、より楽しめると思う。
五反田という土地の記憶じたいがすでに面白い。
2024/02/09 15:41
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投稿者:タオミチル - この投稿者のレビュー一覧を見る
作家・星野博美が、生まれ育った五反田...いや“大五反田”エリア。そこから、香港をはじめとするアジアにも出ても、その五反田を物差しに感じる考える。
本作は、その大五反田という土地の記憶を、家族史を視点に掘り起こした作品。東東京には馴染みはあるけど、そこから一番遠い東京。時々訪ねても拠り所がなくて、あまり興味がなかった土地にもこんな豊かな...と言っても、多くは、第二次世界大戦につながる記憶があったとは。読み終えてのち、巡ってみたい気満々であるし、本作の最後に多く引用されていた空襲の庶民の証言にも興味津々。まずは、その引用先の本を手に取ってみようと思う。
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本当にすばらしい本だった。
現実に戦争が起こり、今が「戦前」になってしまうかもしれない時期だから、より一層ガツンときた。
分厚い区史や自費出版の郷土資料を参照し、こんなにすてきな文章と装丁の作品ができることにも感動した。
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筆者の生まれ育った五反田の町工場の歴史から、庶民にとっての戦争を見つめ直す1冊。平和教育だけでなく「どう生き延びたのか」を語り継ぐ事の大切さが心に響く。満州開拓団に関する記述が哀しすぎた。
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世界は五反田から始まった
著者:星野博美
発行:2022年7月10日
ゲンロン
初出:電子誌『ゲンロンβ』33号~61号
ノンフィクションライター(『転がる香港に苔は生えない』で大宅壮一ノンフィクション賞)である著者は、『戸越銀座でつかまえて』を書いたエッセイストというイメージが強いが、写真家でもあるらしい。本書は、エッセイ系ノンフィクションという感じの一冊。品川区の戸越銀座で生まれ育った著者は、同区の五反田と縁が深く、大正初期に13歳で千葉県の外房から白金(港区)の町工場に丁稚として入った祖父が、後に所帯を持ち町工場を営んだのが五反田だった。また、現在、著者が活躍するゲンロンは五反田にある。なお、著者の父親が幼いころに自宅だけ戸越銀座に移したという。
著者は、五反田を中心に品川区の戸越銀座や武蔵小山、大崎といったエリアを含む広い範囲を「大五反田」と勝手に命名し、そこにまつわる戦争関連の歴史について調べ上げ、自らの体験や家族を絡めながら振り返っている。自らの家族や幼い頃の周囲の人々から歴史をのぞき、掘り下げていくと、そこに東京の、そして日本の戦中・戦後のありようが見てくる。小林多喜二や宮本百合子などのプロレタリアート文学や満蒙開拓団の歴史などが、なんと著者の生活の場に直結していたという驚きの発見など、とても読み応えがある一冊だった。
著者の直接の興味を掘り起こしたのは、著者が8歳の時に他界した祖父から直接手渡された手記だった。便箋とB6ノートに記された手記は、清書するとA4で24枚。祖父は言い残した言葉もあったが、著者には謎でもあった。歴史を紐解き、当時の人々の生活を著者なりに再現していくことで、その謎が解き明かされていく。
ノンフィクションとはいえ、コロナ禍もあるのか、取材にいって探り出したという部分はなく、戦史などの資料を原稿用紙1~2枚単位ぐらいで引用する箇所多数など、イマドキのネット上のキュレーターっぽい部分も見受けられたが、その部分においても興味深いことが書かれていた。
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大五反田とプロレタリアート文学
著者と小学校で同じクラスだったゆみちゃんの両親は「お勤め人」だったパラシュートを作っていると誇らしげに言う。パラシュートの老舗メーカーの藤倉航装株式会社で働いていた。祖父の小さな工場で作った物も、ゆみちゃん両親が勤める大きな工場で作った物も、軍需品であり、戦前の大五反田は、軍需城下町のようだった。
藤倉航装は、昭和14年に藤倉工業から分社したが、その藤倉工業の五反田工場を舞台に書かれたのが、小林多喜二の『党生活者』だった。小林多喜二自身が、地下生活者として、この工場でオルグ活動をしていた体験に基づいて書かれている。奇しくも小林多喜二と祖父は同じ年齢。同時期に五反田で生活していたことになる。党生活者は続編が出るはずだったが、小林多喜二が特高による拷問で死亡したため幻となった。
「大五反田」は無産者と縁が深く、他にも、宮本百合子の『乳房』の部隊となった日本初の「荏原無産者託児所」や、同じく日本初の無産階級のための診��所「大崎無産者診療所」があった。
無産者託児所の経営は共鳴した有名人や親たちの寄付に頼り、託児料は微々たるものだった。非合法化されていた日本共産党の肝いりで出来た。大宅壮一、柳田國男、山本有三、中條(宮本)百合子らも維持会員に加わっていた。
成立の背景は荏原の人口急増。第一次大戦の好景気で大五反田に工場が蝟集し人口急増。さらに関東大震災(大正12年)で家を失った人々が近郊に転居、東京市に接しながらも田園風景が残り地価の安い荏原町に低所得層が移住した。なかでも荏原町平塚村は十年間で15.5倍に。
『党生活者』は「倉田工業」という会社が舞台、『乳房』では親たちの職場として「藤田工業」が出てくる。藤倉工業を一文字ずつ分け合って使用している。
もし日本に革命が起きていたら、五反田は聖地の一つになっていただろう。革命記念館の一つや二つは建っていたはず。
子供たちがこの託児所で歌っていた歌。
「アイウエオの歌」
アイウエ オヤジハストライキ
カキクケ コドモハピオニーロ
サシスセ ソラユケオーエンダ
タチツテ トチユノテキドモヲ
ナニヌネ ノコラズケシトバシ
ハヒフヘ ホンブヘキテミレバ
マミムネ モリモリビラスリダ
ヤイユヱ ヨシキタオラピケダ
ラリルレ ロシアノコドモラニ
ワヰウエ オレタチャマケナイゾ
用意はいいか さあいいゾ
*ピオニーロ(ピオネール)
商店街ごと満州へ行った理由
中原街道を境に隣接した商店街である戸越銀座と武蔵小山。武蔵小山商店街商業組合は、太平洋戦争突入で商業組合法廃止により解散を余儀なくされた。戸越銀座は生活必需品を買うため、武蔵小山は「レジャー」感覚で人々は利用していた。繁華街方向へと早い段階で舵を切ったからこそ、戦時下で退路を断たれた。その打開策として行われたのが、満州への転業開拓移住だった。第十三次満州興安東京荏原郷開拓団。商店街ぐるみの転業開拓団。
足立守三『曠野(あらの)に祈る~満州東京開拓団・隠された真相』より。
---何やらかさこそという音を聞いて、ふと目を覚ますと、隣に横になっていた石井夫人が、幼女の首を細紐で締め付けていた。幼女は、目を白黒させている---ああ、可哀想に
---いっそひと思いにと、私の手は思わずその紐の一端を握り、引っ張っていた。その途端、人声を耳にして、ハッと手を放した。この人声を聞かなかったら、私は生涯拭い去ることの出来ない悔いを残したに違いない。
戸越銀座一帯が焼け野原になったのは、昭和20年5月24日未明の城南大空襲。3月10日の東京大空襲(下町大空襲)よりも、単位面積あたり2倍の焼夷弾が落とされた。
→283Pにその他の地域の空襲も一覧
空襲で家が焼けてほっとした理由
昭和16年11月に防空法が改定され、空襲時の避難禁止と消火義務が規定された。消火せずに逃げることは、後ろ指をさされるのみならず、違法行為でもあった。しかし、3月10日の衝撃により、罪に問われるより、むざむざ殺される恐怖のほうを人々は優先させた。
「柱一つ残らず何もない赤茶けた瓦礫の中に立ち、もう焼けだされる心配はなくなったのだという変な安心感が残った。(『東京大空襲・戦災誌』編集員会『東京大空襲・戦災誌』第2巻、『竹中宮子の証言』より)。
「家が焼け残って肩身が狭く、このあと罹災者に家財道具、衣料などを分ける一騒ぎがあった」(『三谷雅子の証言』より)
「済まないような気持ち」「複雑な戸惑い」「肩身が狭く」「一騒ぎがあった」。幸運にも焼かれなかった人のほうが、苦悩にさらされている。
戦前・戦後の区分は後世の感覚
昭和2年に祖父が創業し、2021年に完全廃業した星野製作所。祖父の記録を見ると、五反田に戻って再建する前、焼かれた直後から、自宅がある越ヶ谷駅から1時間ぐらいの花崎駅から徒歩20分ぐらいのところに養鶏場があり、そこの片隅を借りて工場をやることにしたと書かれている。「然しその間にも空襲は多く、激しくなって来た」とも。再建を始めた時、戦争はまだ終わっていなかった。後世に生きる物は、復興は戦後から始まったと思い込んでいる。しかしその時代を実際生きた人の感覚は違っていたのだろう。我々が考える「戦前・戦後」という区分ではなく、「焼ける前と焼けたあと」という区分だったのだ。
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池田山(東五反田5)には旧正田邸があった高級住宅地だが、そこにあるNTT病院のレストランで著者はこんな光景を目撃した。裕福そうな若い女性たちがブランド物のベビーカーを押し、テラスの向こうから続々と入って来て、盛大な名ランチ会を開始。入院患者や見舞客、外来で来た病人がメイン利用者なので、ハッピーでない人が多い。しかし、彼女たちが放ち誇示する多幸感のようなものは、場違いを通り越して異様ですらあった。
以前は下大崎という地名が存在。上大崎の東、桜田通りの西に位置する細長いエリア。今、NTT病院前に広がるごちゃごちゃした集落。
香港では、返還後に追加された祝日が2つあるが、その一つが10月1日の「国慶節」で、中国の建国記念日。日々忍び寄る中国化のなか、香港陣にとっては悪夢の時期。
金属を削る際に飛び散る粉は、砲金粉、真鍮粉などと呼ばれるが、子供たちは「ホーキンコ」と認識。どんなに払ってもどこかに付着し家に入り込み、手足に突き刺さる。裸足で動き回る子供の柔らかい足に集中する。とげ抜きでも抜けず、針で掘り出して取る。
祖父が千葉県の岩和田にいたころの話として、墓を掘り返したら、死人の髪と爪がぼうぼうに伸びていた、死んだと思って埋め田が、土の中で暫く生きていた、たまげた、と言っていた。
日本が最初に受けた空襲は、パールハーバー(12月8日)の4ヶ月後である1942年4月18日のドーリットル空襲で、B-25が東京(品川は東大井や天王洲など)、川崎、横浜、横須賀、神戸などを奇襲し、中国の蒋介石支配地域へと向かった(中国と組んでいた)。
昭和18年7月に労務調整令が改正され、政府が男子就業を制限及び禁止できるように。『品川駆使 通史編』によると、14~40歳の男子が禁止された職種として、事務補助者、現金出納係、小使給任受付係、物販の店員売子、行商呼売、外交注文取、集金人、電話交換手、出札令係、車掌踏切り手、昇降機運転係、番頭客引、給仕人、理髪師髪結美容師、携帯品預り係、案内人、下足���。「不要不急」と判定された多くの職業は禁止された。今で言うエッセンシャルワーカーはOK。
家族の中に語り部系人物が一人でもいると、その近くには必ずと行っていいほど忘却系人物が生息している。
2022/12/20追加書き込み
大佛次郎賞、おめでとうございます。
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偶然とはあるもので、本を読まないムスメが「この本街中にポスターが貼ってあるのに本屋で売り切れてたんだけど、見つけたから買ったんだー」と見せてくれたのがこの本。
しかし、ちょうど私もこの本を読んでいた。多分この本は、本屋さんで題名を見て、ブクログに登録して、図書館に予約したんだと思うのだが。
そして、ムスメは、もっと軽い話だと思って買ったんだろうなと、思いつつ、かく云うわたしもそのくち。
こんなに面白い戦前戦後の大五反田界隈の話とは思わなかった。
そして、戦前戦後のこの街の生活が、ステレオタイプな説明ではなく、庶民の目線ではどうだったか、書いてあり、感慨深かった。
特に、自分も著者と同じく戦前戦後を終戦記念日で分けて考えていたが、当時の人々にとっては、自分の家が焼ける前と焼けた後で、気持ちを切り替えて、力強く生きていたことを著者の祖父の話で理解した。
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筆者の地元五反田。死期の迫る祖父が遺した手記をベースに描く五反田と星野製作所。
祖父から父の二代の星野製作所。バルブの部品を加工する工場。五反田には多くの町工場があったという。
五反田の忘れられた歴史。小林多喜二と荏原郷開拓団そして城南大空襲。戦禍にもたくましく生きる人々。
コロナ禍で取材旅行でできない中、地元を巡った作品。身近な土地にも多くの歴史、ドラマが潜んでいることを本書は教えてくれる。
「コンニャク屋漂流記」と並ぶ傑作だろう。
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誰かの自分をさかのぼる旅に付き合うことが救いになる。きわめて個人的なことが大きな文脈の中にすとんとはまる。尺取り虫のように領土を広げる話は大叔母の紛争を理解させてくれた。それも時代だったのか。
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祖父の日記から広がっていく五反田から見た日本の歴史.小さなことから大きなことへと想像の翼が羽ばたく,軍需産業、疎開,空襲,満州など,とても興味深く考えさせられることも多かった.
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『一般論ではない。これは私が所属する世界の話である。しかし一方では、こうも思っている。五反田から見える日本の姿がきっとあるはずだ』―『はじめに』
2007年に出版された「迷子の自由」で嵌まって以来ぽつりぽつりと読み継ぐ作家、星野博美。ルポルタージュを主とする文筆家であるにも拘らず、この人の視野は決して広くは感じない。見えているのは手の届く範囲、常に足元ばかり見ていると言っても過言ではない。けれど、一端その視野に入って来たものがあれば、それがどこから来たのかという問題提起を皮切りに、軽快なフットワークで自身の立ち位置を移動し(取材範囲を広げ)、結果として身近な世間が想像だにしなかった世界と繋がっていることを詳[つまび]らかにする。そして、よって立つ地面の確かさを確かめるつもりでいた筈なのに、それが案外と脆い基盤の上に立つものであったことに気づくという経験を、繰り返しこの作家は文章にする。それは取りも直さず、自分自身の感じているこの印象は確かなものなのかという冷静な思考の表れだと思うのだけれど、駆け出すに際してどちらかといえば激情に駆られてという雰囲気を星野博美は醸し出す。その食い違いが実は癖になる
本書は、文中でも度々言及される「コンニャク屋漂流記」のいわば続編というような位置付けになる本。祖父の故郷である千葉の御宿岩和田における実家の屋号「コンニャク屋」から端を発して、江戸時代に漁を生活の糧とする祖先が紀州から移住してきたこと突き止めるまでを、極めて私的なルポルタージュという印象を残す一冊にまとめた前著から時代の流れを引き継ぎ、作家の呼ぶ所である「大五反田」へ上京して町工場を起こした祖父の残した足跡を辿る、というのが大まかな流れではある。けれど「コンニャク屋漂流記」の中でも、江戸時代初期に御宿沖で遭難したスペイン船を地元の人々が救助したという話を切っ掛けに、自身のルーツを遡る旅は脱線を繰り返し、日本におけるキリシタンの歴史を探る旅へと広がっていった(それが「みんな彗星を見ていた 私的キリシタン探訪記」へと繋がっていったり、リュートを習い始め「旅ごころはリュートに乗って 歌がみちびく中世巡礼」へ繋がってゆく)ように、本書の中での祖父の歩みを辿る旅も、祖父の歴史を通して必然的に大五反田における戦前戦後の出来事への深堀へと繋がってゆく。そんなふうにして辿る探訪の行く先には、工業地帯としての五反田の発展・衰亡があり、急成長した工場で過酷な労働条件で働かされる無産者のプロレタリア活動の痕跡があり、町工場の軍需産業への組み入れの歴史があり、そして幾度かの空襲の記憶、国から不要不急の産業と決めつけられ転職を迫られた商店街の人々からなる満蒙開拓団の歴史があり、と幅広い。
その脱線の過程は好奇心のなせる業というよりも、当たり前と思い深く考えもしなかったことに対する本質的な気づきともいうべき思考過程なのだが、この作家には再定義を迫る事実の声なき声が嫌でも聞こえてしまうのだ。やや軽薄な好奇心の裏側に潜む偏見。それを多くの人は全く気づかないか、見て見ぬ振りをしてやり過ごす。しかし星野博美はそれを掘り返して見ずにはいられ��いのだ。
そして祖父の起こした町工場を受け継いだ父親が新型コロナ感染症が猛威を振るう中で廃業するという出来事をもって、この本の元となった連載は幕を閉じる。「コンニャク屋漂流記」から始まった多岐にわたる旅はこれで一段落着いたということになるのだろう。思えば「コンニャク」という屋号の不思議さから始まった旅は随分遠くまで旅路は伸びたのに、いつの間にか現時点の足元に戻って来たことになる。それは、この作家の思考過程そのもののようであると言ってもいいのだろうと思う。
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祖父母も終戦の年に生まれた世代のため戦争の話を親戚から聞いたことが無く、生まれ育った場所で空襲があったかどうかも知らない。そのため、この本の話はとても強烈でした。自分から知ろうとしなければならないと感じさせられました。
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タイトルから勝手に五反田のアンダーグラウンドの話とかサブカル系の本かと想像していたが、著者のファミリーストーリーから、戦前から戦後にかけての日本の、そして五反田界隈の人々の歩んだ苦しい道程が綴られた、日本人が読むべき一冊だった。
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読み進むにつれ、どんどんひきこまれていった。自分の生まれ育った土地から、両親祖父母の人生の軌跡から、世界を再認識する。こんなことができるんだと目を見張る思いだった。自分のいる場所を歴史と地理の中に位置づけることを、「教養を身につける」と呼ぶならば、これはまさにその生き生きとした実践。説教臭さのない語り口で、読みやすいのも良い。
歴史の流れを俯瞰すると、ともすれば、大きな動きのなかで個人は翻弄されるばかりだと思いがちだ。特に第二次世界大戦時の日本の状況については、知るほどに絶望的な気持ちになる。しかし、著者は悲観と諦念に逃げ込まず、よく見ることでその経験から汲み取るべきものがあると考える。そのたくましい視点が本書を貫いている。たとえば、以下のようなくだり。
「夥しい数の人々のあまりに悲惨な死にうちひしがれて『起こしてはならない』で止まってしまうと、『もしまた起きたら』に一向につながらない。」
「この、失敗と呼ぶにはあまりに手痛い戦争の経験から何かを学ぶとすれば、私は生き延びる方法を知りたい。」
「壮大な物語に呑みこまれず、立ち止まる力。浅はかな有力者や権力者と距離を置き、孤立しながらも生き延びる方法。重大な局面に立たされた時の、判断力。頼る人も組織もない場所にたった一人取り残された時、しなければならない交渉術。気高さとも感動とも程遠い、ずる賢さ。」
ああ、そうなのだ。「物語に呑みこまれない」という言葉を肝に銘じたいと思った。
蛇足
・最初の方で挫折しかかった。また東京人がよくする「住んでるところはどこか」関連話か、と思って。東京の人の感覚を既定の事実のように語られると、すごく白ける。まあ、地方にも似たようなことはあるので、僻んでるだけですけど。
・気になったのは、何回か出てくる「奇しくも」という言い方。特に「奇しく」はないのもあったよ。
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ちょっとだけ珍しそうな本を読むつもりで手にしたが、いやいや面白かった。
たった半径2kmほどの大五反田圏で生きた家の物語がこれほどの本になるとは。空襲を中心とした戦時の話はリアルだが人々の明るさも感じられて温かい気持ちにもなれた。
自分のルーツなど知りようもないしそれでいいが、結構な物語があっただろうなとも思う。ちなみに亡き母は関東大震災も東京大空襲も経験し生き抜いた。