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2020年2月に刊行された著書の文庫版で、2023年現在を踏まえた新章が加えられている。解説も成田悠輔という…贅沢。
早すぎるインターネットによる弊害が嫌というほど書かれていて、自分の中でも反芻しながら読み進めた。宇野さんの全てに賛同するわけではないし、それも歓迎してくれるのが宇野さんだとも思う。podcastの「a scope」でも出演していて、本書を理解するうえでの補完になる。
いろんな考えに触れられる読む喜びをこれからも享受していきたい。そして、その後の行動も大切だ。
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「遅いインターネット」とあるが、新しいネット技術の本ではない(タイトルをみて手にとったときはそんな本なのかと思った)。
インターネットが張り巡らされた上で高速に情報が飛び交う現在社会の現状を論評しつつ、そこから一旦、距離を置くための手段を提案している。
「遅いインターネット」とは、タイムラインから離れて、一つ一つの情報の真偽を自分自身で確認・他者と議論しながら、フィルターバブルから離れましょうということなのか解釈した。
自分自身でも感じることだが、(今の世に中は)あまりにも情報量が多く、自分の中で反芻する時間がとれないまま日々が過ぎていき、息切れ感が否めない。
批評家の本を読んだのが久しぶりなので、読了するのにやや骨が折れたが、自分自身の視点をもうひとつ付け加えることができた。
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イギリス人ジャーナリスト、デイヴィッド・グッドハートが「境界のある世界」に生きる人たちを「Somewhere」な人々、「境界のない世界」に生きる人たちを「Anywhere」な人々と名付けた。
非日常ー日時の軸と他人の物語ー個人の物語の軸で捉える考え方。
世界を捉える別の視点を得られた一冊。
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他の方も書かれているように文体が難しく、一度では理解できない部分が多かったです。
自分自身がSNSをほぼほぼやらないので、あまりピンと来る話ではありませんでしたが、遅いインターネットが必要というのは理解できました。
フェイクニュースや陰謀論を信じてしまわないために、速いインターネットからはできるだけ距離を置き、しっかりと時間をかけて一つ一つの情報と対峙していきたいです。
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グローバルな市場にドメスティックな政治→「民主主義って本当に最良のルールなのか、世界をまわって考えた」参照。
大きく風呂敷を広げているが、もっとネットリテラシーを持てという話。
※単行本にて読書
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遅いインターネットってタイトルの人だけど、スマホを5Gにしてたらちょっと笑う。
内容的には、オリンピック批判とか。走りながら考えたこと。村上春樹のエッセイにもちょっと似る。成田祐輔の解説付き。
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言語が国境に規定され、いわゆる母国語としての壁を超えるには、外国語を習得した上で、外国語の媒体を読み解くか、直接外国人と交流するという方法がある。インターネット以前は、これには物理的な限界があった。今、ネット上では、グローバルな距離は縮み、かつ、タイムリーに情報が公開され氾濫する。更に、機械翻訳も可能。とても便利な時代になって、情報も民主化され、より平和な世界市民的社会が到来するのだ…と無垢に考える人はいないだろう、残念ながら。
フェイクニュース、快楽のための生贄探しや炎上、排外的なヘイト、欲望を刺激するための性的ポルノや消費を煽るリコメンドが溢れる。ここでいう遅いインターネットとは、アナログ回線の事でも、スペックの低いCPUの事ではない。一呼吸おいて自ら思考した上で扱う媒体たれ、というニュアンスを含む。インターネット至上主義は間違いで、であれば民主主義の究極は、結局、全員参加型の意思決定プロセスにはない、と私は思う。弁証や最適解を扱う分野には、それなりのトレーニングが必要なはずで、ポピュリズムに任せたり、それをハックできてしまう状況は危険なのだ。大衆迎合は、大衆操作のためにある。
コミュニケーションをネット空間に置換しても、結局、人間はテキストを誤読するし、自らの感情や論理をテキストで表現仕切れない。原始的な言葉は、顔の表情や身体ランゲージに表れるのであり、声の大きさや震え、つまり、テキストの行間は肉体に任される部分も大きく、対外的には、更に語彙力に致命的に制限されるからだ。この語彙力を駆使した論理の力こそが学問や学歴、偏差値の序列に作用する。インターネットは、一見、この壁を取っ払ったかに見えたが、行間の壁は崩せなかった。
検索でヒットしない現実は存在しない。同様に、語彙に語られぬ現実もまた、表出しない。
なんて事はない。語彙力など、顔文字における眉毛の角度、いいねの指の位置と変わらない。直角のいいねを傾ければ、それは一部不同意を示すなど新たな認識をルール化すれば、そこから一つ語彙が生まれ、運用されるに過ぎない。数学的語彙など、0〜9の記号のみでも大方の論理を説明できてしまうではないか。本当に大切なのは、論理を紐解く読解力である。専門用語は、論理の独占と権威付けのために用いる隠れ蓑であり、内輪ネタ、他者排除のための縛りゲーである。
バベルの塔の本質もまた、言語の多様化ではなく、語彙と論理を権威側が我が物としてしまう事での排外主義的思想にあるまいか。そこに辿り着けない知性の残滓でインターネットを扱うなら、早かろうと遅かろうと、自ず、民主主義は限界であったという事だ。