テクノロジーのことも、人間のことも
2024/06/16 08:16
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投稿者:とらとら - この投稿者のレビュー一覧を見る
基本としては、メタバースや拡張現実、BMIなどのテクノロジーによる、現実観・現実感のおおきな変化をテーマにしていると思いますが、言語の認知論、能での見立てとか、脳という物理的なものに限らない人の側のテーマもあって幅広く、興味深く読めました。各レクチャーの後の、筆者のふりかえりの項が、難しいはなしとかも整理してくれてよかったです。
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「現実科学は、ヒトの主観、すなわち脳によって構築される個々人の現実を科学するための手法を構築し、社会実装のための応用を目指す。そして、現実を科学することでゆたかさをつくり出していく。」本書には著者が毎月実施されているレクチャーシリーズのうち8回分が収録されている。ゲストスピーカーによるレクチャーと著者との対談、その後の振り返りからなる。いったい、自分にとっての現実とはなんだろうか。最近、夢をずっと記録している。自分の脳が作ったものという意味では現実だが、内容的には非現実的なものが多い。というか現実的な夢ではおもしろくないので記録しない。1つ例を挙げると、夜中に尿意を催し(これは自分にとっての現実)トイレに入る夢を見る。だいたいまともなトイレであったためしがない。大きな容器にあふれるくらい尿がたまっていたり、畳の部屋の壁に向かって放尿したり、外から丸見えだったり、まあまあトイレシリーズだけでもおもしろいものが書けるかもしれないが、基本的には記録していない。その後、すぐに目覚めるから夢をよく覚えているというのが現実なのだろう。人工内耳をつけると最初は雑音だったものが次第に音として認識できるようになるという(この話は毛内さんのYouTubeだったか)。結局は脳がどう受けとめるかで現実というのは書き換えられていくのか。知人が亡くなっていたとしても、それを知らされていなければ,それは自分の中で現実ではない。両親が亡くなったとしても(焼いた後の骨も見ているわけで、それが現実だが)、夢の中で何度も登場すれば、それが自分にとっての現実となる。自分が死んでしまえば、自分にとっての現実はなくなってしまう。でも、世の中全部が消えてなくなってしまうわけではない。現実をどうとらえるのか。現実を科学することでどんなゆたかさが得られるのか。ゆたかさと言っても人によって感じ方は違う。つまりそれは脳によって主観的に受けとめるものだろう。脳と言っても、そこには腸や皮膚など神経系をすべて含めて脳と読んだ方がいいのかもしれない。身体全体で感じるゆたかさ、あるいは幸せ、というものがどうつくられていくのか。社会実装への応用も研究されているようだから、楽しみではある。しかし、僕の中ではVRとかChatGPTとかなんか新しいものにはあまり興味がわかない、というのも現実である。まあとにかく時間は有限であるわけで、自分にとっての幸せ、ゆたかさを探っていきたい。僕にとっての現実とは「日々の家事全般」かもしれない。休みの日にもすることはいっぱいある。アイロンかけをためてしまった。洗濯をし過ぎたけれど、天気が悪くて乾かない・・・
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2023-06-26
なかなか刺激的な対談集。講演再録、対談、振り返りでワンセット。最後に振り返ることで、みんなが著者の主張を裏付けているような印象が残るのは、たぶん計算通り。それをしないとあまりにとっちらかっちゃう。それくらい難しいテーマなんだなあ
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現実について著者に多様な専門家との対談をまとめた一冊。日常生活であまりにも当たり前に受け入れらているが故に改めて考えると全く掴めない「現実」という概念。私たちはそれぞれに自分の認知の上に自分だけの現実を立ち上げ、そのわずかな重なりの部分を言語などを通して通じ合う。このような人間の変わらない本質的な性質は古代の神話から、最新の情報技術まで語り継がれている。
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複数の方が語る「現実とは何か」に対する答え。
現実って客観的なものではなく主観的にしか存在しないものなのかもしれないと感じました。
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若い頃に「唯脳論」を読んでいたせいか、自分の現実感も養老先生の影響を受けていることを再認識しました。
また、本書から発想が飛躍して、SF小説の「都市と都市」を思い出しもしました。あれは異なる都市がモザイク状に重なっているという設定だったと記憶していますが、そのような設定を可能にする「現実感の操作」も、いつかテクノロジィによって実現するのかもしれません。
そして、「すべてがFになる」からの引用を見て、そういえば森博嗣さんも「現実とは何か」について一家言ある人であったことも思い出しました。
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p18 百聞は一見にしかず 下の句がある トーマス・フラー
Seeing is believing, but feeling is the truth.
p161
デジタルだけなレベてもリアリティは生まれないというのは、いわゆるシンボルグラウンディング(記号接地)問題だと思うんです
ジョン・サール 中国語の部屋
中国語が全くわからない人を部屋に閉じ込め、文法書と辞書を与えて全部覚えさせたとしましょう。さて、その人が中国語のテストに合格して外に出られるようになったとき、この人は中国語を話せるのかというと話せません。それは、この人が中国語を記号として覚えていても、その記号ひとつひとつが、身体に結びついていなからです。つまり、抽象的な言葉の操作ができるようになるためには、言葉を伴う身体経験がある程度必要印なるんです。
p174 わたしたちは、記憶というものは安定したものであり、微妙に細部を忘れたりするかもしれないけれども、本質的には古く固定されたものだと考えている。しかし、実はそうではない。記憶が、不確かで実に曖昧なものだというのはさまざまな認知課題で明らかにされている。ということは連続して存在し続けているはずの「わたし」というのも、いまここにしか存在しないということんある。5秒前のわたしと、いまのわたし、5秒後のわたしは厳密に言うと異なっている。しかし、わたしはわたしの中で連続したわたしのままなのである
p176 つまり、現実は時々刻々変化している
p186 ユヴァル・ノア・ハラリはサピエンス全史のなかで、人間が人間たるゆえんは虚構をシェアして共通認識としてもちあることができることだと書いています。それによって人間は統率され、ほかの動物よりも優位にたてたと。
p187 シミュレーションができれば物事を理解したと言っていい
p212 能をご覧になると、よく寝ちゃう人がいるんですよね。特に舞の部分で。何もないので。でも、舞を習ったことがある人は寝ないんですよ。なぜかというとm,舞台で舞っている人の視点を感じるからです。そうすると、舞台の舞手と自分の内的な身体感覚が一致するんですね
鈴木大拙 アイデア(観念)の対置語としてリアリティを挙げている 近頃の文化人は観念には優れているが、リアリティから遠ざかっていると
p234 ラカン 人間にとっての世界を象徴界、想像界、現実界の3つに分けている。 象徴界はシンボルが支配している世界、つまり人間がつくった言語や数字というツールや記号によって理解されている世界 想像界 言語されていないイメージの世界 現実界 そのどちらでもない
p239 さわるというのは一方的で、一般の物体に対する接触
それに対し、人間に対する接触には通常ふれるの方を使います。;すれるは双方向的で、自分の接触のパターンを接触されている相手の反応を通して微調整し続けることを指すからです。例えば、こう接触したらこの人は緊張するかなとか、ここだったら大丈夫かなと探っている
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現実の本質を問う対談集。私たちは独自の現実を感じ、その一部を共有するのみ。特にAR技術の発展で「現実」の定義に疑問が。この著作は多角的な視点で考察を深める手引き。続編に期待し、10年後の「現実」の意味が変わるのではと予感。
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現実の捉え方について考えを深められた
自分の身体を通して感じたことをどのように解釈するか、そのプロセス含めて現実となる
身体状況や知覚能力などの能力面、物事の捉え方といった文化的側面は個々人それぞれであるため各人の現実派異なったものとなる
その現実を表現する際の言語も知覚したものの内、解釈し分類した結果の言語化が行えたもののみ表現可能なため、言語で共有できるものは全体のごくわずかとなる
脳内の言語化前のイメージが共有できるようになると世界は広がる可能性もあるがハレーションが起こる可能性もあるのではないか
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VR、ARなどXRが盛んな昨今、現実とは何か、という新たな問いに対して広い分野で「現実」という捉えどころのないものについて語る、という内容であった。
技術が進歩し、人間が制御可能な分野が広がるにつれて、いままで自然から与えられたものに対しての思想、倫理が問いただされる、ということは過去多く存在する。
錯視、錯覚が示すように人間が感覚機関を通じて得られる情報が全てこの世界を投影しているわけではない。
人間が進化の産物で生存のために獲得した、最適化されたフィルターを通して情報を歪ませ、取捨選択を行っている
それは人の話す言語、育った環境、などさまざまに由来する。10人いれば10通りの現実が存在する
画一された現実というものはもはや人間が語り得るものではなく、誰の意識にも存在して、どこにも存在しないものなのではないだろうか