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投稿者:夏の雨 - この投稿者のレビュー一覧を見る
今年(2023年)は、作家司馬遼太郎の生誕100年にあたる。
それを意識しなかったはずはないだろうが、
福間良明氏による『司馬遼太郎の時代』は2022年10月に刊行されている。
ただ執筆に至る経緯を記された「あとがき」によれば、
当初は「司馬遼太郎の時代」から昭和史を再考してみたいということであったようだ。
ちなみに福間氏は大学教授で、専門は歴史社会学・メディア史であるという。
著者は、司馬遼太郎がなぜ「国民作家」と呼ばれるほどまでになった背景を、
「昭和50年代」にみている。
本文に「司馬の歴史小説は明らかに、「昭和五〇年代」の大衆歴史ブームに重なり合っていた」とある。
なかでも、ビジネスマンやサラリーマンたちに支持されたと。
その要因として、NHK大河ドラマの原作に何作も取り上げられたことや、
その頃の文庫隆盛が司馬という名前を格段に高めたのではないかとしている。
さらに、司馬の作品にたびたび登場する「余談」について、
そこに記された内容が「読者の教養への憧憬を刺激した」と見ている。
確かに司馬の作品には単に文学的な面白さだけではない、
「文学・思想・歴史方面の読書を通じて人格を陶冶しなければならない」という
教養主義にあこがれた人々にとって、
明らかに他の歴史小説家とは一線をひいていたといえる。
司馬遼太郎とは何者だったのか、司馬文学をどう読み解くのか、
司馬遼太郎生誕100年にあたり、
面白く読めた一冊だった。
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司馬遼太郎の作品を、客観的にどのようにとらえているのかを知りたくなりこの本を読みました。
自分も「坂の上の雲」を、仕事の行き帰りなどの隙間時間を使って7巻まで読破しました。
この新書の著者は、司馬遼太郎は「坂の上の雲」を書き「明治の明るさ」を描いたのと同時に「昭和の暗さ」を現したかったのだと強調していました。
これから最終巻を読みますが、上記の視点を参考にして読みすすめていこうと思います。
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売上げ累計1億冊を超える大ベストセラー作家の生涯と作品を辿り、その歴史小説の本質を時代とともに描く。国民作家の入門書でもある
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国民作家司馬遼太郎の作品、思想について、「教養主義」という立場を交え、略歴、戦争体験から探る。
司馬遼太郎ファンならずとも楽しめる内容だろう。作品を読むだけでは見えてこない氏に対する評価、俗に言う司馬史観など。大衆教養主義やサラリーマン社会がヒットの一因。
学歴と職歴、傍流の立場を指摘した所は慧眼。
単なる小説家でも歴史学者でもない独自の立場。本書を読めば司馬作品の魅力がさらに増すだろう。
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司馬遼太郎は1923年(大正12年)生まれなので、来年2023年は生誕100年になる。恐らく多くの特集や司馬遼太郎論の本が出るのではないかと思います。それはそれで司馬ファンにとっては歓迎すべきことで、楽しみにしています。
本書はそれの先駆けとして出版されたようです。
著者の論点には納得する点もあるが、それ以上に違和感を抱いた。
著者の論点を纏めると、以下のようなことだと思う。
<学歴・職歴>
司馬は旧大阪帝大を落ち、大阪外国語学校(現大阪大学外国語学部)へ。また、戦争により繰り上げ卒業で学徒出陣し、戦車隊に配属、復員後は、「朝日・毎日新聞」と言った一流紙でなく、新興新聞社に入社し、その後産経新聞へ移っている。つまり、著者は、司馬の学歴・職歴ともに「二流かつ傍流」ということが、エリートへの不信。つまりエリートが振りかざす「正しさ」や「イデオロギー」への嫌悪感へと繋がっていると言う。
ただ、会社勤めの経験もなく、いきなり学徒出陣で軍隊へ入った人は、復員した当時の混乱期に、一流会社に就職できないのは普通のことだと私は思うのだが、著者にはそういう観点は欠落しているというか、何が何でも「二流かつ傍流でエリートではない」ということを力説したいようで、執拗に繰り返し書いている。
<人々が何故司馬作品を手にしたのか>
司馬の作品が書かれたのは、高度成長期の中盤であり、生活水準の向上する実感があり、今後の経済的な進展を期待できる時代状況に通じるものがあったと著者は言う。
著者はマスメディアを専門としているため、高度成長期の社会状況や教養主義のブームにかなりのページを割いている。
だが実際に司馬作品が売れ出したのは、この高度成長期が終わりかけた1970年代以降なのである。その理由として著者は、前述のかなりのページを割いた話をあっさりと捨て去り、文庫本が一般化した時代になり、書店の棚に常時並べられるようになり、読者が手にしやすくなった。また司馬作品は、サラリーマンの通勤途上に読む「気楽なコマ切れ読書」に適していたという。
こんな説明だけで司馬作品が累計1億冊も売れるなら、他の作家の本も同じように売れるという理屈になってくる。他の作家の本は通勤途上ではなく、机の前で一気に読破するとは思えないが???
著者は経歴や社会状況だけで、司馬遼太郎を論じようとしている。確かにそういう面からのアプローチも必要だが、著者に完全に欠落しているのは、司馬作品の面白さや魅力を理解していないという点ではないかと思う。面白く感じるとか、魅力を感じなければ誰も本など読まない。
本著の中で、「小説でも史伝でもなく、単なる書きものに過ぎない司馬作品」という表現が出てくる。こういう表現が出てくるというのは、著者は司馬自身が、どのような小説を書こうとしていたかを全く理解していない。
講談社倶楽部賞を受賞した直後に司馬は以下のようなことを書いている。
「私は、奇妙な小説の修行法をとりました。小説を書くのではなく、しゃべくりまわるのです。小説という形態を、私のおなかのなかで説話の原型にまで還元してみたかった���です。その説話の一つを珍しく文学にしてみました。ところがさる友人が一読して『君の話の方が面白ぇや』、これは痛烈な酷評でした。となると私はまず、私の小説を、私の話にまで近づけるために、うんと努力しなければなりません」
司馬が目指したのは、こういう形態の読み物であり、従来の小説の観念からみれば、小説ではない読み物なのである。
これに関しては、劇作家であり評論家の山崎正和は司馬をよく理解していたようである。山崎は五百旗頭真との対談で「彼(司馬)の小説をお読みになればわかるんですが、晩年になるとますます座談調になっていく。そして語っている司馬遼太郎の語り口、同時に司馬遼太郎の肉体の存在感というものが見えてくるような言葉で語る」
また、司馬の最後になるエッセイである「草原の記」について「いろんな意味で、私は司馬文学を凝縮したような作品だと思うんです。まず座談調というものが徹底的になっている。したがってあなた(五百旗頭)がおっしゃったように、小説だか随筆だかわからないところへ入ってしまう。しかし司馬さんに言わせたら、逆説的無常観なんて、書いてしまったらそれまでだというところがあったかもしれない」「私(山崎)の言い方による逆説的無常観を、彼(司馬)が正面から書いた小説を読みたかった。『草原の記』には、その片鱗が現れている」
山崎正和に本格的な司馬遼太郎論を書いて欲しかった。
<司馬史観および歴史的事実>
また本書の最後の方に司馬史観のことや、歴史学者にやっと認められて司馬は一流になったという記述があるが、これについても「司馬史観」なるものを問われた時に、司馬は「私は歴史学者ではなく、小説家だ」と述べている。つまりフィクションがなくなれば、小説は面白くも何ともないということであろう。読者が司馬作品を読んで、それが歴史だと思ってしまうのは、作家の力量の問題で、司馬の小説に歴史的事実を求めても何の意味も持たないということであろう。
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司馬の学歴・職歴が傍流であったことや軍隊経験が作風に与えた影響、作品がサラリーマン層にある種の教養主義として受け入れられた背景、没後に司馬史観批判が発生した理由等、司馬遼太郎を理解するための入門書として最適な一冊。得るものが多く、付箋貼りまくりでした。
新聞記者時代に、政治や事件などを扱う花形部署ではなく、歴史・宗教や文化関係などを扱う比較的落ち着いた部署にいたため、読書の時間を確保でき(1日5時間!)、それが作家としての下地になったという話に、残業は糞だと思いました。
司馬作品に滲むエリート批判、組織批判はただのやっかみではなく、ボロい戦車しか用意できないのを精神論で乗り切ろうとして(そんな戦車に乗せられて司馬自身も死ぬかもしれなかった)、結果として国家を破綻させた軍部の上層部に対する憎しみが根底にあると考えると至極真っ当なものだと感じました。
司馬遼太郎没後の司馬史観批判は、戦後歴史学を自虐史観と非難して自由主義史観を唱えるグループが『坂の上の雲』を根拠としたことで歴史学者が危機感を覚えたことが要因。
それまで歴史学者が歴史小説を批判するのは「大人気ない」ことであり、司馬以外の歴史小説家が槍玉に挙げられることも無かった。
著者の福間良明氏も指摘してますが『坂の上の雲』が明治礼賛というのは誤読もいいところで、僕はこの作品を終電の電車で読みながら、組織というものがどれだけ糞であるか、戦場では個人の命がどれだけ容赦なく捨て石にされていくかを書いたものだと受け止めました。人は読みたいように読むわけですね。
本書は司馬遼太郎について議論する際の前提知識としたい本です。
ただ、著者の専門が労働者の教養文化史などのため、漫画アニメ等への影響の分析が無く、女性読者層の捉え方(企業勤めの男性が中心で女性読者はいても少なかった)も疑問があるので、その辺を分析した本がほしいですね。
ちなみに僕が把握できてる範囲だと、るろうに剣心、銀魂、進撃の巨人はそれぞれ作者がインタビューとかで司馬遼太郎作品(燃えよ剣、坂の上の雲等)からの影響を話してます。
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司馬遼太郎著作って、あんまり読んだことがない。燃えよ剣と新撰組血風録くらいかな。
司馬史観という言葉は聞いたことがあって、興味があったんだが。
かなりコンプレックスと、軍の精神主義に対する批判、技術に対する信頼とかがベースにあって。
書かれている小説自体も、その、司馬先生の主観を通した仕上がりになっているようだ。
それは全然いいと思う。小説だし、面白ければ。
教養主義、高度経済成長、文庫本化などが重なって広く読まれていったようなのだが、その、主観を通した「解釈」がいつしか歴史上の事実みたいに受け止められていったってことなのかな。
多分、受け入れられやすく、分かりやすいパラダイムに基づくものだったのだろう。
司馬史観「ワールド」に展開する「小説」であるということが忘れられてしまったのではないかと感じた。
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軍隊経験がバックボーンになっていることは周知の事実だろうが、学歴職歴の視点は私にとって新しかった。
でも、淀殿を淀君と表記してるのはいただけない
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司馬作品が生まれる同時期に生きてきた私としては、福間さんの分析は納得できる部分が多々ありました。
文学者ではない産業社会学部の教授が分析するのがよかったと思います。
史実を司馬さんなりに分析・加工し司馬作品として世に問う。
司馬史観、おおいに結構じゃないですか。
読み手も、司馬史観にここちよく酔い、自分の人生を豊かに出来ていたら、それはそれでいいと思います(笑)。
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司馬遼太郎の生い立ちや辿ってきた人生が知れたので、より彼の作品を楽しめる材料になりそうだ。また、小説の中のメッセージのようなものも読み取れるようになりたい。
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今年は司馬遼太郎さん御生誕100周年。(今調べたら、何と今日からジャスト1ヶ月後がお誕生日との事!)
本書は司馬さんの評伝だが、彼を取り巻いた環境・時代背景をメインに追っている。その中には小説やエッセイの一部も抜粋されているのだが……、やっぱり司馬さんの文章は読みやすいし、いくらでも読める!ワードチョイス以外にも何か理由があるはずだが、パッと出てこない…。
読書が大好きで、大の学校嫌い。
少年時代の司馬さんが『はてしない物語』の主人公 バスチアン少年にちょっとだけ重なった。この頃から新聞記者か小説家になることを夢見ており、結果どちらも叶えている。
1940年代当時のエリート登竜門 旧制高校の受験に失敗し、「二流」の位置付けだった大阪外国語学校 蒙古語部にやむなく進学。戦後は夢の一つだった新聞記者の職を得たが、社の位置付けもこれまた「二流」だった。
「二流」を生きる自分に満足していたわけではないだろう。
でも(当時主流だった)「純文学」に心酔する同年代や出征先の戦車部隊にいた理不尽極まりないエリート将校と、「一流」と呼ばれるものに対する鬱屈も並大抵のものではなかったはず。
所属されていた組織が綿密に分析されていたのと、兵役中に抱いた疑念が大半の作品に投影されている…というのが今回の大きな発見だった。
「小説というものは自分で考えだして書くべきもので、『純文学』とか『大衆文学』とかいうふうに概念で分けて書くものではありません」
「わたしにとって『小説』とは、まずわたし自身のためのものです」
「司馬作品」「司馬史観」と呼ばれるように、彼の作品はどのジャンルにも当てはまらない。(没後数十年経っても本屋さんでは司馬さん専用のコーナーが設けられているくらいだ)
それらは時に「自由主義史観」と批判されたりもした。日露戦争が題材の『坂の上の雲』では戦場と化した朝鮮や中国が度外視されていたりと、見落としている点が多数見受けられるという。
こうした批判や議論は第四章にまとめられているが、正直どれも邪魔くさかった。司馬さんは歴史家ではないけれど、数多の史料を読み込んだ上で独自の視点を持って歴史と向き合っている。植民地側の被害についても決して無自覚ではなかったというし。
そもそも歴史に「絶対」なんてないから、十人十色に視点が生まれる方が自然なのでは?だから侃侃諤諤と議論するのは時間の無駄では?…と思ってしまうのは単純だろうか。
ご本人がどう受け止められていたのかは言及されていない。
司馬さんが「正統」から外れた道を歩まれる中で見えていたのは、「教養主義者による、教養を持たない者への蔑みや驕り」だった。批判の中にも似たようなものを感じ取っていたのでは?と読了した今思う。
あるビジネスマンは「史実と史観の調和が見事に取れている」と司馬作品を高く評価していた。思えば、自分が「読みやすい!」と感じた理由もそこにある。とはいえ、長編ものは結構頓挫しちゃってるから、どこかで必ず読み進めていこう。「おもろいねんから、しんどい言うてる場合やないで!」と司馬さんっぽく鼓舞しながら。