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漱石が死の約一年前に綴った随筆集。
朝日新聞に、一ヶ月と少しの期間連載されたらしく、
「私のどうでもよい話が、
今、この国で起こっている重大なニュースと
肩をならべるなんてとてもとても・・・。」と
最初に一応謙遜してみせているが、
いやいやさすが漱石先生、
一つ一つの文にきちんと彼しか出せない味わいがある。
短い文にもプロの「文章家」の仕事が光ってる。
当時、様々な分野において日本は急激な変化が求められ、
一般市民の大切な情報源であった
新聞は、読者の熱狂や不安を煽ったり、
時に緊張を強いるものだったに違いないが、
そんな中で漱石先生の書いたエッセイは、
「この先、わが国はどうなってしまうのか、
不透明な状況は続き、不安にもなるが、
このように大変なご時勢であっても、
人付き合いにああだこうだ悩んだり、
人間誰しもいつかはやってくる死について考えたり、
日常生活で起きる雑事に目を留め、心を留め、
一日一日をコツコツと生きている。
そんな悪く言えば「ガンコ」、
よく言えば「揺るがない」人間もいるのだ。」
といった、ある意味安心感を与えていたのではないかと思う。
当時の新聞の購読者達も
「どうでもいい話なんだけど
ついつい読んじゃうんだよなぁ。」とか
「これを読まないと一日が終わらないんだよ。」なんて
人もいたのでは。
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漱石が身近になる1冊。教科書で出会った、東京帝大出の荘厳な文豪の姿はそこにはなく、落語が好きで江戸庶民文化のまっただ中で育ったバイリンガル、という姿が浮かび上がってくる。
一番心に残ったのは「書いたものを見て欲しい」という女性に対して漱石が言う言葉。教わる方は自分をさらけ出しオープンであるべき、と彼は言う。「その代り、私のほうでもこの私というものを隠は致しません。有のままを曝け出すより外に、あなたを教える途はないのです」
確かに、そのとおり。しかし、漱石の言う通りに自分をさらけ出して人を教えている教師が、今どれだけいるだろうか、と思うと、自分は今まで教えるふりをしている人から学ぶふりをしてきただけなのかもしれないと、思いに沈んだりもするのであった。
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漱石は、猫よりも寧ろ犬の方が好きだと書いているのは意外だった。
飼い犬のヘクトーの話には、漱石の繊細な優しさが滲んでいるように感じた。
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74点。第一次世界大戦開戦から一年が経った大正四年。著者は『こころ』を発表した後、四度目の胃潰瘍で病臥していた。亡くなる一年前である。終日硝子戸の中に坐し、頭の動くまま静かに人生と社会を語る随想集。
原稿を読むことについて書いた11章がいい。著者の実直な人柄、教育者としての人格がうかがえる。
次に発表する小説ではもっと自分に切り込んだこと書くからな、と次作『道草』の予告編としても読める。
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つれづれなるまゝに、日くらし、硯(スズリ)にむかひて、心に移りゆくよし なし事(ゴト)を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ、とは徒然草の書き出しからだが、本書もまさにそんな感じ。
ただ、ありふれた日常生活の中に隠された静かで深い洞察が漱石の文体で表現されているところに本書の意義がある。
個人的には6・7章の女と漱石の話が大好きで、これだけで5つ星にしてもいいと思う。
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夏目漱石の、エッセイみたいな本です。
漱石は、心配性で『こころ』みたいな本も書いていたり、自分の中で生きることについていろいろ考えるところもあったと思うのに、「生きてらっしゃい」と思い切りのよいことを言っていて、漱石の中にはいろいろ葛藤があったのだろうな、と思いました。
やっぱり、生きていてほしいな、という気持ちが、漱石の背中を押したのだと思います。
漱石は、ところどころに人間的な優しさとか悩みとかがあって、そこがいいところだと思います。全体的に。
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夏目漱石の本は、何故か年末年始に読みたくなる。
私的には、ちょっとフライング気味に読んでしまった随筆。
おそらく時代だと思うけど、ゆっくりした時間が流れている。
微笑ましく笑えるほのぼの話が多くあって、刺激の多い現代モノに疲れたときに読みたい。
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この作品は、胃潰瘍に悩みながらも夏目漱石が書斎の硝子戸の中で、頭の動くままに人生と社会を語った随想集です。
全三十九に分かれているのですが、
まるで日記のような自然な語り口調で書かれています。
また、彼自身の人間性も垣間見れ、なかなか面白く思いました。
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(amazonより)
写真撮影、講演、原稿持込、吾輩ハ不機嫌デアルーー。
人生と社会を静かに見つめる、晩年の日常が綴られた随筆39編。
亡くなる前年の大正4(1915)年、朝日新聞における連載。
「漱石山房」の硝子戸の中から外を見渡しても、霜除けをした芭蕉だの、直立した電信柱だののほか、これといって数えたてるほどのものはほとんど視野に入ってこない――。
宿痾の胃潰瘍に悩みつつ次々と名作を世に送りだしていた漱石が、終日書斎に坐し、頭の動くまま気分の変るまま、静かに人生と社会を語った随想集。著者の哲学と人格が深く織りこまれている。ある日、作品のファンだという女性に、自分の身の上を小説に書いてくれと頼まれて……。
用語、時代背景などについての詳細な注解、解説を付す。
2000.04.14購入
文庫: 120ページ
出版社: 新潮社; 改版 (1952/07)
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漱石が病床で綴った手記、「世の中に住む人間の一人として、私は全く孤立して生存する訳に行かない。自然他と交渉の必要が何処からか起ってくる。時候の挨拶、用談、それからもっと込み入った懸合-これ等から脱却する事は、如何に枯淡な生活を送っている私にもむずかしいのである。」この書き込みの段が私には漱石が単に皮肉っているだけでなく他者を観るときの葛藤を書いていて切実に受け取ることが出来た。時々読み直したいし私も鋭い直感が欲しく思う。
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夏目漱石の随筆集。今で言うエッセイ。
夏目漱石の人柄がわかり、面白かった。
兎に角、真面目なのでストレスで胃が悪くなったんじゃないかと思う。
飼い犬の死、飼い猫の死、知人の死…。
生と死について、多く語られている。
以下、一部要約して引用↓
○「死は生よりも尊とい」
然し現在の私は今まのあたりに生きている。私は依然としてこの生に執着しているのである。(P23ー24)
○「他の死ぬのは当たり前のように見えますが、自分が死ぬという事だけは到底考えられません」私も恐らくこういう人の気分で、比較的平気にしていられるのだろう。それもその筈である。死ぬまでは誰しも生きているのだから。(P64ー65)
漱石の生死の哲学を知り、理解した上で作品を読むとまた感じ方が変わるかもしれない。
私はまともに読んだのは『こころ』だけなので、まずは再読をしようかな。
本当は何作品か読んでから、『硝子戸の中』を読む方がよかったかも。作品傾向を分かってから読む方がエッセイって面白いような気がする。理解していない私は、ちょっとおいてかれてる感じがあった(笑)
☆あらすじ☆
硝子戸の中から外を見渡しても、霜除けをした芭蕉だの、直立した電信柱だののほか、これといって数えたてるほどのものはほとんど視野に入ってこない ――。宿痾の胃潰瘍に悩みつつ次々と名作を世に送りだしていた漱石が、終日書斎の硝子戸の中に坐し、頭の動くまま気分の変るまま、静かに人生と社会を語った随想集。著者の哲学と人格が深く織りこまれている。
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最近なんとはなしに漱石の作品を読み漁っているが、これは漱石の随筆集であり、淡々として静謐な文体だが、家族の話題もよく出てくる。ほぼ漱石の自伝である「道草」と重なる部分が多いのはもとより、漱石が最初に養子に出された養父母の職業が古道具屋であった部分は、坊ちゃんの最初の下宿先の主人が古道具を売りつけてくる場面を思い出してニヤリとした。一人の作家を追っていくとこういう楽しみがある。
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夏目漱石の随筆。
病臥した部屋のうちで、つらつら考えたことを並べたような語り。
動けないで考えることは似てくるものなのか、外に過敏になっちゃっているような感じに覚えがある。
それでも一定のひとづきあいを切らさない人の強さがあるからほっとする。
師弟の付き合いをするからには裏を読まずに忌憚なく話し合わなければなりませんという部分に、これは理想なのか誠実さなのかとちょっと考える。コミュニケーションとしては理想の形。
で、どうでもいいような哲学的なような話の語り口は美しい。
風景の描写に時代を感じたり、思い出に江戸の香りを感じたり、
犬の飼われかたに厳しい自由を感じたり、
人の不幸な人生を観劇のように消費してしまった自分を嫌悪するとか
人を信じて騙されるのも人を疑って傷つけるのも嫌だ、とこぼす潔癖さに好感を持ったり。
これはゆっくり味わって楽しみたいなと思ったんだけど、つい全部読んでしまった。
薄い本だし面白いんだもの。
空気を楽しむ・内容を楽しむ。
興味深く考えるのと、ただ雰囲気を味わうのと、どっちもできる本は珍しい。
私が読んだのは、津田青楓装幀「色鳥」より と書かれたカバーのもの。
昭和五十三年には120円で買えたらしいよ。
評論風の注と、ほぼあらすじの解説はあんまり好きじゃなかった。
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脱力エッセイ、だなと思いながら読み終えました。
夏目漱石の作品群を一回りしてから、もう一度戻ってこようと考えています。
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漱石晩年に執筆された回顧談、追想、随想集とよべるもの。漱石の人生への鋭い洞察が随所にちりばめられる。以下、印象に残った箇所。
不愉快に充ちた人生をとぼとぼ辿りつつある私は、自分の何時か一度到達しなければならない死という境地に就いて常に考えている。そうしてその死というものを生よりは楽なものだとばかり信じている。ある時はそれを人間として達しうる最上至高の状態だと思うこともある。
「死は生よりも尊い」
こういう言葉が近頃では絶えず私の胸を往来するようになった。
p20
私は凡ての人間を、毎日々々恥を掻く為に生れてきたものだとさえ考える事もあるのだから、変な字を他(ひと)に送ってやる位の所作は、敢えてしようと思えば、遣れないとも限らないのである。
p30
私は宅へ帰って机の前に坐って、人間の寿命は実に不思議なものだと考える。多病な私は何故生き残っているのだろうかと疑って見る。あの人はどういう訳で私より先に死んだのだろうかと思う。p.55
この最後の一言(いちごん)で、私は今まで安く買い得たという満足の裏に、ぼんやり潜んでいた不快、-不善の行為からくる不快-を判然(はっきり)自覚し始めた。そうして一方では狡猾い私を怒ると共に、一方では二十五銭で売った先方を怒った。どうしてこの二つの怒りを同時に和らげたものだろう。私は苦い顔をしてしばらく黙っていた。p80
極めてあやふやな自分の直覚というものを主位に置いて、他を判断したくなる。そうして私の直覚が果して当ったか当らないか、要するに客観的事実によって、それを確める機会を有たない事が多い。其所にまた私の疑いが始終靄のようにかかって、私の心を苦しめている。もし世の中に全知全能の神があるならば、私はその神の前に跪ずいて、私に毫髪の疑を挟(さしはさ)む余地もない程明かな直覚を与えて、私をこの苦悶から解脱せしめん事を祈る。でなければ、この不明な私の前に出てくる凡ての人を、玲瓏透徹な正直なものに変化して、私とその人との魂がぴたりと合うような幸福を授け給わん事を祈る。今の私は馬鹿で人に騙されるか、或は疑い深くて人を容れる事が出来ないか、この両方だけしかできない様な気がする。不安で、不透明で、不愉快に充ちている。もしそれが生涯つづくとするならば、人間とはどんなに不幸なものだろう。p84