- 販売開始日: 2021/06/25
- 出版社: ワニブックス
- ISBN:978-4-8470-9919-9
永遠の最強王者 ジャンボ鶴田<電子特別版>
著者 小佐野景浩
<電子特別版>紙書籍に未収録の【電子書籍化に寄せて】を追加した電子特別版です。「普通の人でいたかった怪物」今でも根強い“日本人レスラー最強説”と、権力に背を向けたその人間...
永遠の最強王者 ジャンボ鶴田<電子特別版>
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商品説明
<電子特別版>
紙書籍に未収録の【電子書籍化に寄せて】を追加した電子特別版です。
「普通の人でいたかった怪物」
今でも根強い“日本人レスラー最強説”と、権力に背を向けたその人間像に迫る!
天龍源一郎、長州力、川田利明、田上明、小橋建太、渕正信、秋山準、佐藤昭雄、和田京平、鶴田恒良(実兄)、池田実(日川高校バスケ部同級生)、鎌田誠(元中大レスリング部主将)、磯貝頼秀(ミュンヘン五輪代表)他、当時のコメントと多くの新証言をもとに、誰もが踏み込めなかったジャンボ鶴田の実像に、元『週刊ゴング編集長』小佐野景浩が初めて踏み込んだ大作。
「鶴田の何が凄かったのか、その強さはどこにあったのか、最強説にもかかわらず真のエースになれなかったのはなぜなのか、総合的に見てプロレスラーとしてどう評価すべきなのか――などが解き明かされたことはない。
もう鶴田本人に話を聞くことはできないが、かつての取材の蓄積、さまざまな資料、関係者への取材、そして試合を改めて検証し、今こそ“ジャンボ鶴田は何者だったのか?”を解き明かしていこう――」(著者より)
【著者プロフィール】
小佐野景浩 (おさの かげひろ)
幼少期からプロレスに興味を持ち、高校1年生の時に新日本プロレス・ファンクラブ『炎のファイター』を結成。
『全国ファンクラブ連盟』の初代会長も務めた。
『週刊ゴング』創刊からは全日本プロレス、ジャパン・プロレス、FMW、SWS、WARの担当記者を歴任し、94年8月に編集長に就任。
以後、同社編集企画室長、同社編集担当執行役員を務め、2004年に個人事務所『Office Maikai』を設立。
フリーランスの立場で雑誌、新聞、携帯サイトで執筆。
コメンテーターとしてテレビでも活動している。
2006年からは、プロレス大賞選考委員も務めている。
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明るく、楽しく、激しい全日本プロレスの永遠の若大将 ジャンボ鶴田。 完全無欠のエースよ、永遠なれ!
2022/11/21 10:47
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:mitu - この投稿者のレビュー一覧を見る
「プロレスは僕に最も適した就職だと思い、監督と相談の上、尊敬する馬場さんの会社を選びました」
1972年。
ミュンヘン五輪アマレス代表の経歴をひっさげて、中央大学の鶴田友美はプロレスラーとなった。
すぐさま渡米し、テキサスのファンク兄弟のもとで修行。
世界王者の兄弟から王道のプロレスを叩き込まれる。
そして、それをどんどんものにしていく。
半年後に凱旋帰国しデビュー。
3戦目でメインイベントのインターナショナルタッグ選手権に、師匠馬場とのタッグで、アメリカの師匠ファンクスに挑戦。
1フォールを奪い60分フルタイムを戦い抜いた。
デビューしてすぐに、馬場の後継者としてメインイベンターとなった。
世界の強豪と互角に渡りあっていたが、いつしかファンは彼のことをこう呼ぶようになった。
「善戦マン」と。
また「就職します」という常識的な振る舞いも、プロレスに情熱や人間離れした迫力を求めていたファンには、物足りなさとして感じられてしまう。
その世界最高峰との闘いの経験が、発揮される時がきた。
1985年。
新日本プロレスから長州力ら「維新軍団」が参戦する。
「僕のプロレスは世界史。彼のプロレスは日本史。その違いを見せつけますよ」
1986年に行われた一騎打ちでは60分時間切れ引き分け。
だが、終了のゴングの後のリングで仁王立ちしていたのは、鶴田だった。
長州が新日本プロレスに復帰後は、盟友天龍源一郎との対決がヒートアップ。
アマレス五輪代表、エリートで常識人の鶴田。
大相撲前頭筆頭、雑草で破天荒な天龍。
「鶴龍対決が今でも最高のプロレスだと私は思っている」
取材の最前線に数十年立ち続けた著者の感想に全く同感である。
天龍が新団体SWSに移籍後は、三沢光晴ら後輩相手に圧倒的な強さを発揮し始める。
「怪物」
「完全無欠のエース」
誰もが認める最強王者の時代は、突然、終焉を迎える。
1992年11月。
かねてより治療をしていたB型肝炎が悪化。
懸命の治療と、必死の努力で病気に立ち向かい1年後にリング復帰。
馬場らと共に前座のタッグマッチの登場に止まっていた。
その間に、プロレスラーとしての経験と闘病体験を活かしていこうと大学院に入学。大学の講師になった。
1999年。
師匠の馬場が逝去。
同時期に、夢であったアメリカでの研究活動が実現。
引退して渡米することになった。
そして、2000年。
肝臓移植手術の際の大量出血で逝去。
享年49だった。
「僕はプロレス界に生きられて本当に幸せだったと思いますし、全日本プロレスに就職しましてよかったと思います」
引退セレモニーで、デビュー以来初めて鶴田は涙した。
レスラー、マスコミ、そしてファンの間でいまだに根強い「ジャンボ鶴田最強説」。
明るく、楽しく、激しい全日本プロレスの永遠の若大将 ジャンボ鶴田。
その強さと笑顔は、永遠にファンの心に生き続ける。
明るく、楽しく、激しい全日本プロレスの永遠の若大将 ジャンボ鶴田。 完全無欠のエースよ、永遠なれ!
2021/07/28 16:47
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:mitu - この投稿者のレビュー一覧を見る
「プロレスは僕に最も適した就職だと思い、監督と相談の上、尊敬する馬場さんの会社を選びました」
1972年。
ミュンヘン五輪アマレス代表の経歴をひっさげて、中央大学の鶴田友美はプロレスラーとなった。
すぐさま渡米し、テキサスのファンク兄弟のもとで修行。
世界王者の兄弟から王道のプロレスを叩き込まれる。
そして、それをどんどんものにしていく。
半年後に凱旋帰国しデビュー。
3戦目でメインイベントのインターナショナルタッグ選手権に、師匠馬場とのタッグで、アメリカの師匠ファンクスに挑戦。
1フォールを奪い60分フルタイムを戦い抜いた。
デビューしてすぐに、馬場の後継者としてメインイベンターとなった。
世界の強豪と互角に渡りあっていたが、いつしかファンは彼のことをこう呼ぶようになった。
「善戦マン」と。
また「就職します」という常識的な振る舞いも、プロレスに情熱や人間離れした迫力を求めていたファンには、物足りなさとして感じられてしまう。
その世界最高峰との闘いの経験が、発揮される時がきた。
1985年。
新日本プロレスから長州力ら「維新軍団」が参戦する。
「僕のプロレスは世界史。彼のプロレスは日本史。その違いを見せつけますよ」
1986年に行われた一騎打ちでは60分時間切れ引き分け。
だが、終了のゴングの後のリングで仁王立ちしていたのは、鶴田だった。
長州が新日本プロレスに復帰後は、盟友天龍源一郎との対決がヒートアップ。
アマレス五輪代表、エリートで常識人の鶴田。
大相撲前頭筆頭、雑草で破天荒な天龍。
「鶴龍対決が今でも最高のプロレスだと私は思っている」
取材の最前線に数十年立ち続けた著者の感想に全く同感である。
天龍が新団体SWSに移籍後は、三沢光晴ら後輩相手に圧倒的な強さを発揮し始める。
「怪物」
「完全無欠のエース」
誰もが認める最強王者の時代は、突然、終焉を迎える。
1992年11月。
かねてより治療をしていたB型肝炎が悪化。
懸命の治療と、必死の努力で病気に立ち向かい1年後にリング復帰。
馬場らと共に前座のタッグマッチの登場に止まっていた。
その間に、プロレスラーとしての経験と闘病体験を活かしていこうと大学院に入学。大学の講師になった。
1999年。
師匠の馬場が逝去。
同時期に、夢であったアメリカでの研究活動が実現。
引退して渡米することになった。
そして、2000年。
肝臓移植手術の際の大量出血で逝去。
享年49だった。
「僕はプロレス界に生きられて本当に幸せだったと思いますし、全日本プロレスに就職しましてよかったと思います」
引退セレモニーで、デビュー以来初めて鶴田は涙した。
レスラー、マスコミ、そしてファンの間でいまだに根強い「ジャンボ鶴田最強説」。
明るく、楽しく、激しい全日本プロレスの永遠の若大将 ジャンボ鶴田。
その強さと笑顔は、永遠にファンの心に生き続ける。
ジャンボ鶴田はヒーローだ
2021/12/18 22:29
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ふみちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
ジャンボ鶴田、正直に言えば、あまり好きなプロレスラーではなかった、あまりにもエリートすぎるというのも、その一因だった。レスリングのオリンピック選手で、バスケットでも有望選手だった、そのうえ、大相撲への入門経験があり、一般入試で中央大学に合格している。けちのつけようがない、だから私は対戦相手の川田や天竜や長州を応援していた。でも、俺はがんに勝つんだ、生き抜くんだと最後までドナーを探し続けていたことを知って、鶴田という人は本当にヒーローだったんだといまさらに思うのだった
ジャンボ鶴田とは
2024/02/21 15:35
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:うみべ - この投稿者のレビュー一覧を見る
昔、新日派だった私にとって全日はあまりテレビで見ることのないプロレスだった。(放送時間帯が深夜に多かったのもあるが)
ジャンボ鶴田って、インターやAWAのベルトも巻いたことがあるから確かに強いのだろうけど、やはり全日入ってすぐ下から這い上がってくることなく即一軍格扱いされたことで、あまり必死さが見えて取れなかったのではないかと、この本読んで思った。でも急逝した報に接した時にはショックだったなあの頃。