T.コージさんのレビュー一覧
投稿者:T.コージ
家族のゆくえ
2013/01/10 12:32
<戦後最大の思想家>による究極の家族論
13人中、13人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
「家庭の幸福は諸悪のもと」という太宰治の言葉からはじまり、逆の指摘をするシュンペーターの主張も参照しながら、乳幼児の発達成長をフーコーの手つきで「身体の考古学」として解いてみせ、そこから家族のナゾ=対幻想が明らかにされていく。本の帯にある「渾身の書下ろし!」のコピーは24年前角川書店による著作の初文庫本化時の宣伝文<戦後最大の思想家>とあわせて考えるとけっこう感動ものかもしれない。何か元気がでる刺激を与えてくれるのだ。著者をめぐる環境は...つまらない左翼風言説、他にすることが無いのか?と思わせるような意味不明の反発、最近問題?の若者以上に意味なしのプライド?が原因で読解不能に陥っているアカデミシャン...とあまりにもマンガチックで不幸だが、資本主義はこうやって本書のような価値ある商品を届けてもくれる。それに気がついたとき、元気がでるのは当然だ。この戦後最大の思想家は、いよいよ今こそ読まれなければいけない存在なのだと思う。
<赤ちゃんにとって母親は、心身ともに全世界になる>こんな当たり前のコトが当たり前に主張されている。それも力強く、一生をかけてそれを主張したかったようにだ。ここに著者の魅力と説得力があるような気がする。
要所でフーコーと自らの共通概念が示されるが、それは著者が世界レベルであることを示しているというよりも<衆愚であること><一人であること>が大切なのだという一貫した思想を示しているに過ぎないのだろう。ゲイとして究極の<単独者>を生きたフーコーとかつて<自立の思想>でカリスマとなり、現在は自らひきこもりであることを表明しながら繊細で大胆な提案をしてみせる著者には深い共通点があるに違いない。繰り返すが、著者は、今こそ読まれるべき思想家なのだと思う。
「B級自由民」宣言!
2007/06/04 12:10
甘ったれで自己チューな団塊世代の本音と実態か?
10人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
年収500万円を目標だか前提だかにした本らしい。零細中小企業の平均年収が250万円を下回るともいわれる現代、著者のお気軽さ、オメデタさに呆れる人は少なくないだろう。
500円万もの年収がありながら「B級」を自称し、しかも「自由民」の呼称までつけるカッコつけが典型的な団塊世代だともいえる。
戦後、社会主義陣営への対抗勢力として急速な復興と成長を求められた日本は世界銀行や米国からの莫大な復興資金とそれを集中的に投資する傾斜生産方式などによって量質ともに異例の経済成長を遂げた。きわめて構造的な、共産主義をしのぐ計画的な統制経済の成果でもある。膨大な資金と有能な官僚と従順な労働力の成せるワザだ。この経済成長を〝オレたちが頑張ったからだ!〟という根拠のないデッチ上げの自負をもって人生の哲学にしているのが、あの団塊の世代の特徴であり公約数だというのが緻密な調査をした学者やマーケッターの共通認識らしいが、本書を読むとリアルに納得してしまう。
団塊の世代はビートルズを聴きアイビールックを着たというイメージはメディアのデッチ上げに過ぎなかったことがバレつつあるが、それでは団塊の世代の実態はどんなものか?というのもいまいちピンと来ないかもしれない。少なくとも本書はある1人の団塊世代の実態であり、その年収500万円でもB級を自称し自由民を名乗るお気軽さは、あの団塊世代の典型的なイヤらしさだと思えば、スバリこの本は団塊世代の精神のサンプルなのだといえる。ムカつくが一読の価値がある。同時に本書は団塊世代そのものにとってリアルな弁解の余地のない批判にもなっている。著者はとてつもなく正直な人間なのだろう。
それから本書の一読の価値のひとつとして実名表記がある。ネタかフレームアップか自作自演かと疑ったらきりがない匿名ワールドの思考能力ゼロ空間のネットは違って、あるいはそれに準じてモザイクと匿名報道が主流となりつつあるマスコミの金太郎飴チャネルとは違って、本書はすべての情報が実名だ。ハラスメントの形容詞で何でも自己防衛できると思っている被害妄想社会において、今や蛮勇に近い覚悟で実名表記をしている著者と出版社の姿勢は何にも代えられない価値かもしれない。
テクノロジカルに監視社会を語る机上の論議より、シンプルな実名報道・実名表記が社会に対するいちばんの強度であることは語るまでもないことだろう。
ドキュメント映像の作家でもある著者による本書は階層社会論の良質なドキュメントである。そういう意味でも一読の価値がある。ムカつきながら読むといい。やがてムカつく(べき)相手が誰なのか何なのかわかってくるハズだから。
下流社会 第1章 新たな階層集団の出現
2006/11/06 12:21
下流社会?二次効果が注目だったりして
10人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
●下流?だからどうする?
本書は読者のチェックからはじまる。「あなたの「下流度」チェックを」というテストが最初のページにあり、12問中半分以上該当すれば下流だそうだ。自分は10問該当したので十二分に下流なのだが、ちょっと気になる点があった。設問の半数以上が個人主義的な要件を示すもので、自分らしく生きる、一人が好き、ファッションは自分流....などが問われている。これらはあきらかに個人主義の属性だ。すると個人主義的な、つまりは欧米的な価値観を持っている人間は日本では下流になるぞ、ということなのか?
ところが本書はその先を推論してしまう。しかもそれが当たっている可能性が高い。
つまり個人主義が下流を生むのではなく下流が個人主義を言い訳にしている、ということだ。
最後に著者は下流への対応策として「機会悪平等」を主張し、説得力ある5つの具体策が示されている。これは著者がマーケティングや企画を仕事としてきたために実効が前提として考えられているのでよくできている。『ファスト風土化する日本』でも最後に解決策を示していたが、クライアントがいるプロとしての提案であり、説得力があった。その点の著者の調査企画立案能力に関しては宮崎哲弥が高く評価している。専門用語を並べて喜んでいる理論だけのアカデミーオタクではないのだ。
●読者の反発が目立ったワケは?
最近まで国民の多くを占めると思われていた「中流」とは何だったのか?
本書は端的に、誰もが浮かれたバブル経済期の新中間層の中流意識は「「下」が「中流化」したのである」と指摘する。その多くを占めるのは資産は持っていないが世界一の経済発展によって可分所得が増加したサラリーマンであり、その中心的存在といって差し支えないのが団塊世代だ。そしてその子供である団塊ジュニアを中心に、今度は「「中」が「下流化」する」。それが本書が分析する現在のメガトレンドだ。
良くも悪くも潔いのが、その「下流」に関する「意欲、能力が低いのが「下流」」だという指摘。本書はこの容赦の無い判断ゆえに反発されてもいる。誰でもスバリと自分の短所を指摘されたらアタマにくる。もちろん「意欲が低い」ことが「下流」の原因のすべてではないし、それはある意味で結果だ。だからこそ、その原因を探る論議は積極的に行なわれるべきだと思う。
●ホントの問題は何か?
階層消費社会の指摘は20年以上前からある。
85年には『新・階層消費の時代—所得格差の拡大とその影響』が出版され、みんなが浮かれ出している時にその〝浮かれ気分〟を冷静に分析し、ついでに決して明るくない将来を予見して注目された。その前年には「○金○ビ」でリッチとビンボーを描いた『金魂巻』が大きな話題になっていた。どちらも冷静に下流とビンボーを描いていたが、どちらも読者から批判されたり否定的な評価を受けてはいない。それどころかウケていた。理由はカンタンだ。その頃の読者には余裕があったのだ。逆にいえば現在本書をめぐる状況には余裕が無くなってきている徴しがあるといえる。余裕の無い視点(人間性のもっともよく現われるもの)では本書は否定の対象にしかならない。その意味では本書は二次効果として現実を正直に照らし出してみせてもいる。そしてそれこそがホントに社会に余裕が無いことを反映しているのかもしれない。
超訳『資本論』
2008/06/21 15:03
現在を「知る」ためという一点で書かれた本。「知った」後は…どーするか、が問題?
10人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
最近の書店の隠れヒットがマルクス本。本書はニューアカブームの仕掛人(『構造と力』のプロデューサー)でもあった今村仁司の『マルクス入門』とともに評判の入門書だ。いかなる解釈も解釈者の能力やTPOに規定される(党派的な限界でしかない)が、本書は分かりやすく現在の状況をも反映したものになっている。現実の具体例を多く反映させた資本論の後半(の記述の仕方に)にウエイトを置いているからだ。
ワーキングプアはずっとワーキングプアでしかないことが示されているが、絶対窮乏化論がこんなにカンタンに示せるコトを評価すべきだろう。専門用語の羅列は識者の自己満足でしかないし、タームの理解を独占しているかのように見せかけることによる脆弱な立場の維持でしかない。ホントに理解していればどんな難しいコトでも誰にでも理解できるように簡明に表現することができる。プロという立場を保身するための専門用語は必須ではないハズだ。
現象を語り事実を修飾する文化の特徴そのままにさまざまなコトバが生み出されるが、マテリアルでテクノロジカルな事実は、たいがいシンプルで誰にとってもリアルだ。
たとえば失われた10年以降のコギャル、少年犯罪、ひきこもり、ニート…これらのどこがどのように問題なのか? 問題の側面は語る者によってさまざまだが、最終的に解決すべきコトは一つに収斂するハズで、それは経済的な問題だ。ずっとサヨクが訴えてきた単純明快なテーマであり、最初で最後の問題が、コレだ。
いよいよオカシクなってきた社会や経済を目の当たりにして、ニート対策のような政策で対応しようとする対症療法はいくら積み上げても最終的な解決にはならない。
本書は何気なく、しかし本気で、その最終解決への認識の糸口を提供しようとしている。それが階級闘争への自覚だ。「今という時代を知るために読む。この一点だけで読みます」と『資本論』紹介を目的とした本書のスタンスが表明されている…しかも、その『資本論』は「階級闘争の書です」…なのだ。
資本主義のシステムや価値の形態を語ること(のみ)で現実とのマテリアルな接触を回避し逃避してきた各種分析理論は、ケインズのように政権与党によって現実に駆使され成長し鍛錬されてきた理論とは違って、ただタームを列挙する言葉遊びそのままに呆られるタイミングを待つだけになっている。
リアルに泥まみれになれない、科学を自称する○○理論などとも違って、本書は正統サヨクのセントラルドグマである剰余価値説あるいは労働価値説を簡明に解説し生産(労働)の価値と交換(市場)の価値のギャップが隠蔽されるところに問題があることを示唆している。
リアルで説得力があるのが…資本主義が国家を超える独占を形成し、そういったグローバリズムの世界的な拡大が、やがて大きな変化を意外に早く招くかも…という指摘。それらを支える基本認識こそ「資本主義とは、人間関係である」というグレート?な断定が圧巻だ。
真っ当なサヨクの認識ツールの登場となるか? 本書にはさまざまな読まれ方、利用方法が期待されるだろう。
心的現象論本論
2008/11/28 21:12
すべては心からという問題提起…32年以上も継続した心的現象へのアプローチ。
9人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
●人間は心=観念のある生き物…
政治も経済も科学も宗教も、人間の心が無ければ機能しないし、そもそもそういうシステムや装置はこの世界に生じない。ただの紙切れや金属片に<通貨>としての価値を認め、それを使って生活を営み、それのために働くのも<心>があるからで、時には<国家>のために戦争という名目で人を殺し、あるいは革命やテロというカタチで国家や体制に戦いを挑む。あるいは恋愛や家族のために国家を捨てることもあるし、命をかけて争うこともある。
すべての原因は<心>にある。そして、すべてに<心>が(反映されて)ある。本書はこのシンプルな事実を突きつめ続けた32年以上にわたる未完の記録だ。
「共同幻想」で革命を説き「対幻想」で家族を考え「自立」「大衆」最近では「ひきこもり」などのコトバで人間を考え続けた戦後最大の思想家。現代思想の張本人?であるフーコーやボードリヤールとの討論を通して絶賛されつつ、あくまで在野をつらぬいた思想の巨人。今や世界的な作家となった吉本ばななの父でもあり、頑固な東京下町のオヤジでもある人。本書はそういう人の未完に終わったライフワークの成果ともいえる。
●うつ病から解いていく驚異の展開…
本書のメインのひとつにうつ病への緻密な解釈がある。本書は『本論』であり『序説』とは趣きが違っているが、見事に『序説』から演繹された内容となっている。序説においては読解に高度な抽象力が問われたが、本書はより簡明な理論の展開となっており(これでも!)丁寧に読めば読者の思索を刺激してくれる内容だ。
たとえば冒頭にある「目の知覚論」では縄文土器の文様から直線がプリミティブな抽象であることが指摘される。その直線の形成は知覚の感情によることが示される。前段では心理には錯覚など無いことが説明され、そのように見え、そのように見ようとする視覚の必然性が説明されている。ここに感覚から観念に至る最初のルートが明解に示されてしまう。
この最初の16頁分だけで、この書がただものではないことが解るだろう。あるいは心理学や各種の認識論、哲学などジャンルを超えたあらゆる分野でとてつもない衝撃やコンプレックスが、しかし顕在化しないで沸き起こることが予感されるかもしれない。
ただ、難解で有名?な『心的現象論序説』がプロ?からは論評さえされないことで読者に継承されてきたように、今回も何の論評も無いのかもしれない。それはたぶん、かなわないものをシカトするのは自己防衛の基本だからという明示されない理由によってだろう。
次の「身体論」ではいきなり「古典ドイツの身体論」としてフォイエルバッハへの孝察からヘーゲルの観念論までの広がりを射程とする探究がはじまる。この緻密な検討と驚異的な広がり、それらを支えているのがオリジナルな観点への繰り返される自問自答だ。
そして『心的現象論序説』『ハイイメージ論』『アフリカ的段階』などで示されてきた欧米思想への孝察とその成果が縦横無尽に駆使される。フロイトからライヒ、ドウルーズ・ガタリからラカン、三木成夫からホログラフィ理論までが引用され検討される世界は単なる読書家にもスリリングだ。
●<手>からすべてを考えたり…
よくカントの言葉として「手は外部の脳だ」といわれるが、本書の<手>への孝察は哲学的な瞹昧さが無く、人間という観念をもった生物の、その<手>という器官が認識と行動を媒介し統御し内化することを機能としていることが解き明かされている。<手>の知覚は触覚だけだが、<手>は<了解>するものだ…とマルクスが1つの<商品>から資本主義のすべてを読み取るように、ひとつの器官である<手>が孝察される。
人間が自然に働きかけるのが<労働>であり、それを通して<自己実現>し、その成果が<商品>だとするのがマルクスだが、本書では『資本論』や進化論を踏まえ、認識論として哲学的に<手>が考察されている。
<手>の特異性が<時間>の拡大と構築に関与する…
それは外化された<了解>であり
…個体の生涯が限る<時間>を超えようとする作用に根ざしている。
<手>がつくりあげるのは
物質的であっても観念的であっても<了解可能>あるいは<了解希望>であって…
吉本隆明の手が作り上げつつあった本書は未完のまま刊行されたが、その読解は読者に任せられている。戦後最大の思想に対して戦後最大の読解は提示されるのだろうか? 「社会の側が吉本さんのことを記述できるのか?」といった橋爪大三郎の指摘は重い。
●この潔癖さは邪魔かも?
『ひきこもれ』『13歳は二度あるか』『中学生のための社会科』などでまったく新しい若い読者もでてきた著者だが、その理論的な成果を解説するガイドはない。団塊の世代がメインを占めるのだろうか従来の読者層は論壇的な政治談議ばかりで、しかも理論的な孝察が出来ていないというオメデタイ状況にある。
現在は渋谷陽一と糸井重里が若い読者を吉本ワールドに導く数少ない仕事をしているだけなのかもしれない。本書の刊行など歓迎できるデキゴトはあるが、ノンジャンルでラジカルな著者の思想理論やフーコーほか欧米思想家とのやりとり、本書をはじめとする心的現象論関係の成果に対する研究と検討…などが本格化することを希望したい。
著者に失敗?があるとすれば任官しないことかもしれない。最高学府をはじめいくつもの大学から教授への就任を求められながら著者は固辞しつづけているようだ。もし東大や東工大の名誉教授の肩書きでも受ければ、<戦後最大の思想>が正式?に研究対象となり得ただろう。ヘーゲルかフロイトか柳田國男か心理学か言語学か、マテリアルな根拠を社会科学というジャンルで問いながら、そのベースには理系のクールなスタンスがあり、用語の一つからして他者に否定されることもなかった。問題なのはむしろ理解さえされなかったということではないか。理解できなかったことを正直に認めた浅田彰などは小数派で多くは驚くほどの曲解や誤読から批判や否定が繰りだされた。それらは論者の肩書きに反比例するほどの失笑をかうものがほとんどだ。だからこそ、多くの者による理解の可能性と思索の広がりのためにも、最高学府名誉教授なりの肩書きを受けるべきだったと考えられる。この点においては、吉本の潔癖さが大衆への知の可能性の障害となってしまった事実は無視できないのではないか。
この国の経済常識はウソばかり
2008/10/10 18:10
老人は弱者だという先入観をブチ破らないとアラフォー世代以降の人間は救われない!
9人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
●<経済>というものの見方は?
日本の現状が「時間」を手がかりに説明され、経済を時間の再配分という面から考えるマクロ経済(学)なのだが、すべてが具体的でわかりやすく面白い。内容は衝撃的だが、1日に2、3%変動する為替レート以下の数値を妄信するような数値信仰書でもなければ「昔は鬼畜米英、今はグローバリズム」のような被害妄想を煽る書でもない。日本の将来を担う若い世代が年長富裕層の犠牲になっているコトを誰にでもわかるように検証しているのだ。
まえがきの1ページ目から2000年代以降の景気が「人件費の圧縮」で支えられてきた事実がクローズアップされている。もちろん人件費を圧縮されたのは若い世代であり、その究極の犠牲者はフリーターやニートだろう。
インフレターゲットの設定で経済がコントロールできるという数値信仰や、低コストの生産国である中国からの輸入の影響を認めない偏狭な認識などとくらべて、本書では簡明で鮮やかに事実が示され分析されている。
日本の経済状況を「時間」と「記憶」から説明するという観点が新鮮だ。経済を価値を形成する時間と空間の錯合から説明するのは『資本論』の特徴だが、本書はもちろんマルクス系の内容ではない。しかし、単位あたりの時間や空間から計算し認識するのは科学の前提であり、本書はある意味とても科学的にそれを踏襲しているといえる。
青春時代から順当?にマルクス、ケインズ、ハイエク、フリードマンを愛し、バブル時代にはハイレグを愛したという経歴が、必要以上の親近感?を持たせ、なかなか侮れない著者である。w
●若者は日本の生贄にされた!
90年初頭のバブル崩壊後、多少は経済が持ち直したと思われた時に政府は消費税を上げてしまい一挙に景気は冷え込んでしまった。自らの財源確保(バラ撒くための)ばかり考えている政府は経済復活の芽を潰してしまったのだ。もちろん当時の橋本首相と自民党は選挙で大敗北した。その後2000年代になっても景気浮上のキッカケがつかめないと、政府は財界・企業からの要望で非正規雇用への道をひらいた。正当な理由はあるものの世界企業と呼ばれる企業ほどこの制度によって利益を上げているという事実があり、構造改革が隠蔽?した最大の効用はこれだったのではないか?と思わせる。
それは、若者と次世代を犠牲にすることを年長世代が決断したことを意味している。フリーターの生涯賃金は正規雇用の5分の1。ニートは結婚しないので子孫をつくらないから滅びるとまで言った大臣がいるほど年長者のエゴと残酷さが露呈した。特に保守系議員や与党関係者による若者や下流階層?に対する上から目線と説教は醜く、愛国心の必要を説くなど自らを予め正統化するための老獪さは見事でもある。本来愛国心が立脚する封建制では王や家父長が命をかけて民や子を守るのであって、現在のように自らの生存を保障しない共同体に対して素直に従う理由などどこにもなく、国家や家族をめぐる問題のすべてはそこに収斂するだけだ。本来愛国心は民と子を守る共同体でのみ必然とされる精神のはずだ。
●なぜ年寄りは若者を助けないのか?
日本の自殺者は1年間でイラク戦争のアメリカ軍戦死者の6倍。毎日死者100人という状況が10年も続いている。ひきこもりやニートは一説に600万人。この社会が正常なワケが無いが、社会の弱者からの声はせいぜい「希望は戦争」程度のパフォーマティブな言説以外は注目されることもなくメディアも関心を持たない状態が続いた。しかし生きていくことの限度を超えた状況に『蟹工船』が読まれるようになったり、政治というより政策への関心が高まってきているのも確かだろう。
現況の原因とは…高度成長時代の官僚の当時の現状認識とそれに立脚する将来設計、そして現在に至っては既得権の死守…当初の政策と財政は時間の経過とともに整合性が失われ、それらの反省から生まれた構造改革は骨抜きにされてしまった…失われた10年を経ても回復しそうに無い経済に関して年長世代がとうとう踏み切ったのが若い世代(とサラリーマン)を犠牲にすることだったといえる。派遣と業務委託が6割以上を占めるような企業の経営者が経済団体の長になっている事実はジョークでもない。
高度成長期からバブル期までのオメデタイ時期に策定された政策をそのまま引きずっており、バブル後にとられた政策は単に次世代に負担を課すだけのものになっていった、ということであり、団塊世代以上の年長者がアラフォー世代以降の若者を犠牲にしているということだ。
主な問題は60年もあとで償還される国債や支払いの数倍の受取りをしている現行の年金なのだ。年金問題というのは将来の受取り金額が現在の支払金額よりも少なくなることが障害であって、現在支払わない人がいることではない。政府の宣伝文句の「年金は世代と世代の助け合い」ならば、どうして年長者世代は若者世代を助けようとしないのか?
本書ではこれらのことが具体的に丁寧に説明されている。
マルクスの使いみち
2006/06/15 12:45
けっこう楽しい、マルクス・オタクの談義
10人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
マルクス関係のゼミに居ると就職ができない..と言われるようになって久しいとか? でも最近は面白いマルクス関係の書籍がいくつか出版されている。資本主義に対して批判的だがどうしていいかわからない「ヘタレ人文系のひとたち」に向けたのが本書。それにしては専門用語がイッパイでムヅカシイのが残念。既にマルクスに興味がある人には面白いだろうが、この辺、もうちょっと考えてほしかった。1990年代までは世界の半分を占めたイデオロギーが三者三様に自由に論じられ、それぞれのマルクス理解が違うので、そこが面白い。マルクス・オタクの談義なのだ。
まじめにいえば稲葉が主張する新古典派経済学の上でマルクスのヴァージョンアップを略るという戦略はいいと思う。そのかわり新古典派そのものが直面した問題や限界がクリアされなければいけない。オーソドックスな経済学そのものの問題がクローズアップされる。稲葉があとがきで指摘するように<実物経済を金融・貨幣が振り回す>という現象はケインズもケインズを批判するマネタリストもたどりついた問題だ。それは貨幣の問題であり、そこが解明されない以上、それはテロより大きな問題でもあるんじゃないか? その典型が現在最も大きな話題であり問題ともされているグローバルマネーである。今年の1月16日には日本でも関連する事件が社会を揺るがした。先端的な企業あるいは経済人として登場したライヴドアとホリエモン。そして村上ファンド。歴史的にはウオール街の株価大暴落がやがて第二次世界大戦のトリガーとなったという現実もある。
松尾の「企業の運営主権は」「不確実性下でいちばんリスクをこうむる者に主権を配分するのがいい」というミクロ経済学者の分析を評価する主張は現実的だ。欧米(特に米英)では常識だが日本では企業が従業員や社長のものだと思われている(日本の共同体意識の特殊性)。しかし企業に対して最大のリスクを負っているのは現実に資金を提供している株主だ(世界の普遍的な事実)。社員はヒラも管理職も労働の対価として給料をもらっているのに過ぎず、これは赤字経営でも変わらない。つまり株主は多額の出資をしているにもかかわらず配当は低く、株の売買以外では利益が得られにくい。この問題を正面から掲げたのが村上ファンドやホリエモンに代表されるマネーゲーマーたちだった。
ゲームはいつでも現実では扱いにくい問題を正面から取り上げてくれる。せっかくのマルクスをめぐる討論も単なるオタク談義に終わってはもったいない。もっとマルクスゲ−マーとして縦横無尽に語ってほしかった。吉原のような尾崎豊とウルトラマンレオに感動してマルキストになった人はもっと本領を発揮してほしい。
本書では触れていないが<お金で商品を買う>のではなく<お金でお金を買う>株式や為替の世界こそ、ケインズやマネタリストが直面した問題なのだ。これは<お金は商品(の一種)である>と考えれば大きなヒントになる。そういったヒントをいくつか提出してきたのはマルクスだけだった。本書にはそういう視点がないが、次の機会には期待したい。
〈ポストモダン〉とは何だったのか 1983−2007
2007/06/15 16:26
〝わかりやすさ〟を叱る、〝わかっていない〟かもしれない人
9人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
はじめからいきなり顔面にストレートをぶち込んでくれるのが本書。ニューアカ以後の軽薄短小ブームが幸か不幸かデフォルトになり、外国語が身近かになる一方で邦語本の売れ行きはタバコの自販機以下という状況下、「わかりやすさ」を唯一の基準にしたようなトレンドに思想書から専門書までが流される中、その「わかりやすさ」こそ「罠」であり「大衆操作」だと断じるところから本書ははじまる。
本書は90年代に書かれた数々の〝わかりやすい〟処方を批判する一方で、「ニーチェ、フロイト、マルクス」を読むと決定的に世界が違って見えてくるという思想哲学の王道をいくキザな台詞を用意している。この3大思想家への期待はニューアカの聖典である『構造と力』(現在50刷のロングテールもの?!)でも結論として示されたセリフだ。しかしニューアカが誤解?されてしまったらしいコトは、誰もこの浅田彰の言葉を真っ当に受け取ってないことからもわかる。理性よりも時代の感性を信じるといった浅田は、まさしくそういう憂き目にあっている、ということだろう。3大思想家への期待という同じ結論を冒頭で示している本書も誤読と誤解に終わるのだろうか?
本書を東浩紀の言説と比べ照応させる人は少なくないだろう。理由は二つ。通史的なアプローチでニューアカを正面から取り上げたものは意外なほど無いし、それに真正面からニューアカと闘争?した東浩紀そのものを取り上げて俯瞰しようとしたものも無いに等しいからだ。それに80年代から90年代までの、あるいは2〜3年前の情況データさえ把握されていないケースが少なくなく、データベース論がいきわたるのに比例してデータの喪失(年金問題だけじゃない!)あるいは情報検索能力のテッテー的な劣化が一般化しているのかと思うほどの情況下で、本書のタイトルにもなっている「1983−2007」を概観するのには便利でもある。
柄谷シト、セカンドインパクト、セントラルドグマ…など編集者に恵まれたのかキャッチ!なタイトルや構成は認めるが、哲学を重んじるワリには取り上げたニューアカの系統樹は短く(ニューアカを準備した前段階が全く触れられていない)、その対象領域は小さなデーターベース(二次情報?)でしかない感がある。せっかく浅田の「スキゾ」「パラノ」の援用の仕方が『アンチ・オイディプス』と違うことを指摘し、原典では<精神病>と<神経症>が真の対立軸であることを示すなど説得力があるのに、世代間コンフリクトが巧みに隠蔽された件も(吉本に対する浅田の対応の仕方など)見逃しており、その分だけ本書を凡庸にしている。
ひと言でいえば、ニューアカを超えようと孤独に奮闘したであろう東浩紀のように中村雄二郎や時枝言語学までも射程に入れている(ニューアカの前段階として把握している)深さはココには無い。本書は軽くはないが、浅いのだ。
論理オンリーのヘーゲル的オメデタさ(つまりイデオロギーの呪縛)からの解放は中村雄二郎の『共通感覚論』や市川浩の「身体論」が突破口を用意し、それを引き受けた展開が日本のポスモダ=ニューアカだったハズだ。そして、教条的なロゴスの呪縛から時代の感性による判断にシフトしたのではなかったか? もともと京都学派のように欧米において評価された邦人哲学は〝非ロゴス的な認識〟という点で興味を引いていたワケだが。そもそもニーチェ、マルクス、ウィトゲンシュタインらは論理的な孝察の末に非インドヨーロッパ語系に全く別の哲学の可能性を見出していた。それは〝欧米思想の限界〟でもある。
だが日本には最初から非イデオロギー的な認識論があったワケで、それはハイデガーやヘーゲルも言及している。その点での孝察が本書には皆無。それが本書の限界なのだろう。本書が始まりに過ぎないことを早く示してほしいと思うのは過剰な期待だろうか。
アフリカ的段階について 史観の拡張 新装版
2006/10/13 08:36
フーコー的にヘーゲルをフォローした世界観?(ホントは解剖学!)
8人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
大澤眞幸らに現代の寄書といわれたようだが、本書の根幹はヘーゲルだ。ヘーゲルからインスパイアされてこういうコンセプトを見出した著者のユニーク?さに脱帽する人もいるかもしれない。ネイティヴな世界へ、ヘーゲルに依拠しながらもヘーゲルを超えていく思索が展開される。
解剖学の三木成夫の影響を受けた著者のモチーフでいえば、個体発生は系統発生を繰り返す…というセオリーを逆転させたものが本書のモチーフかもしれない。つまり世界の歴史(系統発生)というものは人間=個体の発生をなぞるものだ…人間の胎児期に相当するものを歴史に探しだそうとする試みが本書であり、それは<アフリカ的段階>として抽出される。
マルクスはインド・ヨーロッパ語圏の外にアジア的共同体を見出したが、吉本はそのアジア的段階より前の段階としてアフリカを見出している。そこには殺生与奪権を独占し自由に行使できる王がいる。しかし、民衆は豊穣と生活の保障と引き換えに王(権力)を認知しているのであって、不作や疫病があれば王は民に殺されてしまう。生命の等価交換(という原始的なシステム)の上に成り立っていた頃の世界がそこにはある。民衆(個人と共同性)と王(権力と象徴)は等価なのだ。現代も残る生贄はその形式的な継承だといえるだろう。生贄が小さくなった分だけ世界は進歩したワケだ。生贄の扱いと社会の進歩はシーソーのように反比例しながら歴史が進んでいることの証明になる。
この<生命の等価交換>は観念的には<対幻想>の観念と同致するものであり、吉本の膨大な思索をたどるとそのことがわかる。
個人の心が<対幻想>を基点に遠隔対称化し、共同幻想=公的観念を自己生成する段階において、最初の政治性あるいは権力のあり方としてアフリカ的段階は考察される。
アフリカ、アメリカ、日本のそれぞれのネイティヴの伝承などが長く引用され、ヘーゲルにとっては歴史外であるそれらの社会状態や人間の営みが紹介される。吉本的な思索の醍醐味であるかもしれない。
『心的現象論序説』で<原生的疎外>と<純粋疎外>の差異として心=観念を抽出する一方、『共同幻想論』では<対幻想>を動因そのものとする共同観念=共同性の生成を示した。『言語にとって美とはなにか』では言語を心の表出と、その共同化による規範化などとしてクローズアップした。その後、これら初期三部作の理論の統合を目指して『ハイ・イメージ論』が展開されたが、個別の批評としての先鋭的な進化はあるものの、統一された理論というには散開しすぎていた。むしろ、この『アフリカ的段階』こそ初期三部作の統合を用意するものとして読まれるべきだという気がする。すくなくとも新たなる共同幻想論としてその普遍性はいよいよ世界レベルに達したといえるのではないだろうか。ある意味でヘーゲルを補えるフーコー的な考古学があるとしたらこういうものかも知れないと思える。
理性の限界 不可能性・不確定性・不完全性
2010/07/08 20:07
数理解析に裏打ちされた厳密な理論が示すのは限界だった…
6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
この本を読むとモテるという都市伝説まで生まれつつある必読の一冊!
●民主主義は成立しない!
完全な民主主義が成立しないことを数学的に証明した「アロウの不可能性定理」を紹介するところから本書ははじまる。そして、ライプニッツが、想定できるあらゆる可能性を紙に書き出しながら理性的に計算した帰結として当然のことながら結婚を取りやめた、というエピソードなどを絡め、シリアスな問題を時に爆笑とともに紹介してくれる。間違いなく本書は知的エンターテイメントの最高峰だろう。事実ギークな読書家小飼弾氏が大絶賛し、流行のtwitterでは「現代の『構造と力』だ!」というコメントが流れ、本書の読書会ができるなど発売後2年にして評価はさらに高まり読書は盛況な様相を見せ始めている。現在6刷であり、これは新しいロングセラーの誕生だ。
自分も本書を入手するのに6軒の書店を巡り最後の店舗に残っていた最後の一冊をようやく買ったのだった。twitterのコメントを見ても売れているのは事実だろう。
ところでアロウの定理は極論するとジャンケンの3つの相(グー・チョキ・パー)の強さの順位付けが不可能で、どこを始点にするかで強弱の相対的な関係が決まることなどを数理化し、投票の順番や好き嫌いで結果が左右されることを証明しているようだ。
アロウの定理が示すのは集団における社会的選択(代表的なものが選挙)の限界だがライプニッツの結婚しないという選択が一つの解であるように、おそらくは選択しないという解も現実には行使されているハズだ。たとえば投票拒否である。
この行為としての解は本書には直接関係ないがラカンや斎藤環氏が援用していた「三囚人のエピソード」のような解、急き立てられて行動してしまう…という論理破りが現実には機能していると思われる。古く?はニューアカの「パラドキシカルジャンプ」などの概念も同じ。マルクスなどでいわれる革命とはこの行動のことだろう。
集団における選択方法は論理的な限界がある訳だが、俯瞰してみると誰もが限界に突き当たるわけではない。その選択方法を意図し主張した者は多くの場合予め最大利得を目論んでいるのであって損をしない(選択をしている)だろうからだ。つまり論理に限界はあるがそれを知ったうえで「戦略的操作」をし、そもそもその方法を意図し選択することで、そこに最大利益を見出し期待することもできるからだ。政党が自らに有利な選挙や方法を求め画策するのは当然だろうし見飽きてきた光景だ。しかしまた解決していない問題でもある。本書はそういう現実の問題にも切り込んでいる。
●「囚人のジレンマ」で生き残る3行のプログラム
個人の選択における限界を示すものとして「囚人のジレンマ」がある。なかなか決着しない囚人のジレンマ論争を見てコンピュータで競わせることになり、最も高い利得を得られるプログラムを選ぶコンテストが行われた。政治学・経済学・心理学・社会学などの分野から14名の専門家が応募し、総当たり戦の結果優勝したのは、驚くことにFORTRANで書かれたわずか3行のプログラムだったという。最初は協力を選択し2回目以降は相手の前回の行動と同じ行動をとる…というシンプルなもので「しっぺ返し」戦略と呼ばれる。結果は精緻な論理も微細にわたる戦略も全く関係なかったのだ。そして今度は「しっぺ返し」を負かすことを目標にして行われた2回目のコンテストでも優勝したのは再びたった3行のプログラムだった…。
個人的には生態学関係(宇野理論系出自の)の本で、隣接する2種類の生物の生き残り戦略として実際に「しっぺ返し」が行われているというのは読んだことがあり、それからすると自然状態で行われている行為や論理に、人間はこれほど考えなければ到達し得ないという事実が、より本質的な限界を示しているのではと思わせるほどだった。本書はそういった事実を丹念に集めて検討されている。常識では答えが出ているようなことでさえ個別の専門分野毎ではデッドロックに突き当たるまで察知できないのも、ある種滑稽でさえあるだろう。本書の最後に引用される経済学者センの「合理的な愚か者」という言葉が象徴的だ。
世間ではノーベル金融工学賞受賞者2名が代表を務めるグローバルマネーの代表であるヘッジファンドが倒産しても経済学(者)や最先端理論に疑問を突きつけることはなかったが、本書は何にでも疑問を突きつけている元気な本でもある。とてつもなくラジカルな問題をとてもつもなく可笑しく伝えてくれる本書はとてつもない本なのだ。学者であれ仕事であれ趣味であれ読書であれ、自らのジャンルに自負を持つ人こそ読むべき必読の一冊であることは間違いない。常識と知見のコペルニクス的転回が味わえるかもしれない。場合によっては猛省を求められる恐ろしい本のようだ。
それに、なんといってもこれだけの専門分野ごとの限界を一般人にわかるように書かれていることが素晴らしい。またどの章あるいはどのパートから読んでもわかるようになっていて気が向いたところから読めるのも親切。繰り返し読んでも面白い。しかも、この本を読んでるとモテるという都市伝説まで生じつつあるらしいのだ。お試しあれ!(当然だが理論的な保障はないです!w)
吉本隆明のDNA
2010/03/19 14:29
6名の思想の根本が書いてあるキチョーな吉本本? 6名それぞれのファンにもオススメ!
7人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
6名へのインタビューは各人の思想の根源まで到達するもので、吉本だけではなくそれぞれのファンや読者にとっても貴重な内容になっている。現在の若い世代に続く内容と説得力がある。取材の最後まで不機嫌だったという上野の言葉も印象的だ。
「ほかの人たちはみんな吉本体験を、そんなぺらぺらしゃべるの?」
上野をはじめ全員が吉本をネタ?に自らの思想の原点までもしゃべらされてしまっている。著者の執拗?な取材の成果でもあるだろうが、いままで黙ってきたが本当はしゃべりたかったんだ…とばかりに各人が語り出す姿は不思議?でもあり微笑ましくもある。各人の言葉には、照れながら昔の恋人のことを想い語りしているような雰囲気がある。はじめて吉本との関係?を明かす姜のようなものから、とことん思想的理論的に突き詰めようとした宮台、いまこそ吉本に可能性を見出している中沢…とバリエーションも豊かだ。
・姜尚中「…彼の全体をつかまえようとする原理論は、僕にとっては必要なプロセスだった。」(P66)
偏狭な民族主義に囚われることがなかったのは吉本の思想のおかげだという姜の自覚は貴重。吉本やマルクスはより抽象的で普遍性のある(つまり全体を包含できる)観点の方に移動していく…という明解な答えをもっている。民族より<全体をつかまえようとする原理論>を選んだ姜の勇気と困難は、誰もが経験する困難であり根本的な問題だろう。
・上野千鶴子「『対』という概念を出したのは、彼だけ。しかもそれを思想の対象として概念化した人はいない。」(P83)男性の多くの思索者らの吉本論からは、対幻想論は「すっぽり抜けおちている。」(P84)
ズバリの指摘だが、正確には<抜けおちている>のではなく<理解できないだけ>なのだろう(対幻想論を抽象化(学者の仕事だ)したアカデミシャンは橋爪大三郎くらいしかいない。在野でも皆無)。『構造と力』などは<対>に対して<エディプス△>を突きつけたがその後の展開がない…。
・宮台真司「吉本の立ち位置――<大衆の原像を繰り込め>――は一貫しているでしょう。大衆がもっているものを批判してはいけない、大衆がおかれている関係の絶対性がすべての出発点だ、と。むしろ六〇年代の延長線上で議論が一貫しているがゆえに、時代遅れになったんです。僕はそのアナクロニズムに仰天したというわけです」(P135)
宮台はあの「コム・デ・ギャルソン論争」で吉本のアナクロニズムに仰天したという。吉本の大衆の原像論そのものへのありがちな誤読にとらわれているようだが、宮台の『権力の予期理論』や東欧のファシズム論の根本で発揮されていた観念(2名以上の人間関係による権力の萌芽)による自縛を前提とした認識が対幻想論の基本と近似であることは興味深い。そもそも吉本は大衆の味方というより大衆の自在な変化に注目し、それが資本主義(時代)と個人の心性のマトリックスであることを指摘し続けているのだ。それが全領域にわたって展開されているのがハイ・イメージ論だろう。
・茂木健一郎
茂木は吉本理論を理解している訳ではなく、吉本のポリシーやスタンスに衝撃を受け、感動している。思想として当然そういうものもアリなのだ。
「アハ!体験」ともいわれるクオリアは対象認識がある意味で亢進している状態で、認識構造における<対象の時空間性>に対して<認識の時空間性>が影響を与え、対象そのものに意味や価値を感じてしまう事態をさしている。<指示表出>に対して<自己表出>が影響を与えてしまった場合ともいえる。根本には認識が結論(答え、応え)を出さず(出せず)に認識し続けようとする…亢進し続ける状態がある。それが<感情>だ。心的現象論の根本にあるのはこの<感情>で、特に<中性の感情>は<純粋疎外>の具現化したものとして心的現象の動因そのものである。(例によって、この吉本理論の根幹をなす<感情>についての言及はどこからも無いが…)
・中沢新一「フランス現代思想の記号論とか、若いときは僕もやったけれども、だめでしたね。あれでは本質は追究できない」(P220)中沢はいま、『吉本隆明の経済学』(仮題)という本を執筆中だ。(P230)
吉本は現代を<欠如は知っているが、過剰を知らない>と指摘し、その認識を共有する中沢は知が商品であることを証明したニューアカというムーブメントの代表であると同時にその限界を突破しようと宗教の現場へ向かい探究し続けた。ただ宗教だろうがアートだろうが資本主義だろうがその現場でしか探究できないというようなスタンスは吉本がもっとも拒絶するものだ。出家しなければ悟れないなどというワク組はあらかじめ宗教者の立場を保身するためのものでしかないからだ。中沢はその一点での齟齬をほぐしながら、吉本が『アフリカ的段階』などで示した宗教と権力と個人の心性が渾然一体となった状況からの展開こそが自分が求めていたものであることを確認している。
・糸井重里「信者の中に僕、入れてもらえないと思いますよ。」(P246)
この糸井の言葉を痛烈な皮肉ととるか、みんなの中でいつも浮いている子どもだけが持つちょっとイジケタ思いととるか、面白いところだろう。
糸井重里にインタビューした最終章の最後の文が吉本の現在を象徴している。糸井の「ほぼ日」の読者をメインとしたらしい2008年の吉本講演会の来場者について…「中心は、団塊世代の男性たちではなかった」「二十代、三十代の若者たちだった」「筆者も、華やかなファッションに身を包んだ若い女性たちの姿が多かったことに驚いた…」…と書かれている。若い世代への吉本紹介はいまここからスタートしたばかりだともいえるかもしれない。糸井の<吉本「リナックス化」計画>の今後の展開が楽しみだ。
吉本が初めて角川で文庫化されるときにそれを「危険だ」と批判した坂本龍一や、雑誌『SIGHT』で吉本を連載している渋谷陽一。あるいは吉本の著作を中学生レベルの国語の問題として「わからない」と評し、吉本は何も残っていないとその後も指摘している浅田彰のような人間に尋ねてみるのも面白かったのではないか? また宮崎哲弥のように吉本と対談しながらも吉本の発言が全く理解できずに対談が出版されなかったケースもある。だが宮崎は書評では吉本への偏りがない良質な紹介文を書いている。このギャップも面白い。『だいたいで、いいじゃない。』で吉本と息の合ったところとスルドサを見せた大塚英志の一言もほしかった。個人的には、考えるほど続編を期待したくなる本だ。
日本の難点
2010/01/02 01:10
丸山(眞男)や宮台が指摘する日本の難点とは?
12人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
宮台の根本にある問題意識は、コレだったのか…
…それは、実をいうと<関係妄想>のことなのだ。
数行で一つの知見が込められ次のセンテンスとの関連は行間が飛んでるように感じる。柄谷行人のような観念的な行間の飛び方ではなく内容のシフトがあり展開が速すぎるために分かりにくくなっている。宮台の私塾用のテキストがベースのようなので仕方無いかもしれないが、もっと読み安くしてほしかったとはいえる。講義ならば豊富な話題と知見、スピーディーな展開で毎回面白く聞いてられるハズだ。
内容的には宮台理論の全容が抽象から政策まで、哲学からポリティカルな面まで知ることができるので宮台の研究家?や論破したい人は読破してみるといい。個人的には「はじめに」の10頁分だけでそのポテンシャルが確認できたのが幸いだった。ある意味宮台理論の可能性とそしてはじめて限界(も)が把握できた気がしたからだ。
丸山眞男が提起した日本の根源的な問題が「はじめに」で示されているが、それは宮台個人の実存の問題(そして多くの日本人の問題)でもあり、吉本隆明だけが理論化してきた問題でもある。その点だけにフォーカスしてみた。
●「日本人が浸されている特別な事情」
ここでは、日本人が浸されている特別な事情についてだけ述べておきましょう。
丸山眞男が述べた「作為の契機(人が作ったという自覚)の不在」がヒントです。(P9,10)
宮台は本書のはじめに「日本人が浸されている特別な事情」を明らかにしている。それは丸山眞男が指摘したという「作為の契機(人が作ったという自覚)の不在」である。この指摘は宮台の認識の基礎となる重要なもので、『吉本隆明のDNA』で宮台が自ら語っている「不可避体験」と対?をなす認識(概念)なのだ。
「作為の契機」とはカンタンにいえば<他人が(何か)した(する)コト>であり、他人を認識するときの前提でもある。誰でも、この他人の<したコト(するコト)>をとおして他人を認識している。逆にいえば、この<したコト(するコト)>以外をとおして他人を認識することは出来ない。(これは本来、関係のマテリアルであり、唯物論の論拠であるべきもので、マルクスでは生産諸関係等となる。広松哲学ならば他人の行為の物象化だ)
<不可避体験>とは、この他人による<作為>への認識が亢進した状態を呼ぶ。自分が他人に何かされる(された)、他人が自分に何かする(した)という認識だ。そこには<ワザとやった>というニュアンスで他人の意志がでっち上げられている。他人の意志を無理やりにでも見出すところが病的であり、関係の本質の一端でもある。それが周囲との論理的な整合性がなくなった状態が精神病=関係妄想なのだ。ただし人間(生物)の特徴としてこの<関係の病>は捨象出来ない。正常な閾値の範囲内ではそれは<受動性>として発現する<愛>の受容態でもあるからだ。フロイトはこの受容態の歪みを精神分析の根源としたが、そこから遠隔化した様態と、そこに不可逆で不可換な位相があることを考察しなかった。これがフロイトの限界なのだ。
宮台はフーコーがこれらの問題を先取りしていたことを示唆しているが、そのフーコーの限界も同じところにある。フーコーと吉本隆明の対談で、すでに自らの『言葉と物』などの方法論の限界を表明していたフーコーは吉本に対して次のように語っている。
国家の成立に関しては、
…
どうにもわからない大きな愛というか
意志みたいなものがあったとしか
いいようがないのです。(『世界認識の方法』P48)
このフーコーの言葉は半分当たっていて半分外れている。「どうにもわからない」というのはそのとおりなのだ。ラカンはこのどうにもわからないものを象徴界と呼んだ。だが、それは「大きな愛」でもないし「意志みたいなもの」でもない。
「国家」という共同幻想を成立せしめているのは、<愛>から遠隔化する構造そのものであって、<愛>や<意志>の変形ではないし、必ずしもそこから生成するものでもないからだ。ただそこには何でも代入できるために愛も変態もファシズムも可能になるだけだ。そしてそれ基づく関係性はDVから資本主義までさまざまだ、ということに過ぎない。(この認識に立った言説が『ハイ・イメージ論』)
●<する><される>という関係
ところで「作為の契機」や「不可避体験」で表出する(他人を認知するための具体的な条件である)<する><される>は主体と客体の関係の基礎であり、関係そのものだ。
それは「主体と対象の<あいだ>」であり「<関係>それ自体」のことである。あの吉本理論で有名な<関係の絶対性>のことであり、宮台は吉本(理論)の特に『心的現象論序説』から影響されたことを認めている。
統合失調症やうつ病をはじめとする心的現象の根源にある<不可避体験>という関係妄想は周囲の環界との整合性がある限りは常態(正常・健常?)の認識に過ぎない。<病的>や<異常>という定義の根拠は他者や環界との論理的整合の是非とその程度(水準)にしかないからだ。この論理的整合性が非整合に傾いていく過程は『異形の心的現象』『統合失調症―精神分裂病を解く』(森山公夫・ちくま新書)などに詳しい。
ニューアカのポスモダ論議でさんざんドゥルーズ=ガタリ周辺を引用しスキゾ(分裂症)だなんだといわれながら、こういった主張や指摘はなかった。
欧米家族の範囲内しかも欧米理論の枠組でしかない『ミル・プラトー』よりも吉沢明歩の『ポリネシアン・セックス』の方が<いきっぱなし(ミル・プラトーとはこの状態を表現した言葉)>という快楽と抑制がまともな象徴界を形成し、まともな人格を育んでいくリアルワールドを知ることができるのは当然だろう。そこには文字通りの<する>と<される>の関係だけだはなく、<待機>という静かなしかし強力な去勢があるからだ。ポテンシャルを育むということは去勢の中でも高度なものではないか? パフォーマティブな<割礼>ではなく、羊水のなかでの微睡みのような<育み>がそこにある。
宮台が期待する利他的な存在というのは、確かにチェ・ゲバラのような人間だが、それはミル・プラトーとメタフォーされる<いきっぱなし>な状態を提供してくれたり保証してくれる存在でもあるだろう。ポリネシアンのルーツを持つ日本人には比較的に馴染みのあるものでもあるかもしれない。
2ちゃんねるはなぜ潰れないのか? 巨大掲示板管理人のインターネット裏入門
2008/03/26 15:32
この思考能力はドラマ「ヒーローズ」並だよ!
10人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
●小飼との対談だけでもイイ!
「相手の話を聞くほうが好き」なひろゆきと「普通が何か理解できなかった」小飼の対談がイイ! カンタンな言葉で大切なコトやモノゴトの原理が語られちゃう! ベラベラ過剰なパフォーマンスとわかったフリ充満のいまどき、シンプルな言葉で真理を突く本書は、必読! 最終章?のひろゆきと小飼弾の対談だけでも読む価値がある一冊。とゆーより、読んどけ!ってな感じだ。
ホリエモン事件?当時、田原総一郎が司会するTV番組でインターネットの説明を求められて「一言でいうと自己責任の世界」と答え、なぜかそれを怒鳴りつける田原総一郎や大谷昭宏らのヒステリックな態度とは対照的に、ハアっ?てな態度とカン高い声で一挙に注目を浴びたかもしれない人が小飼。彼とひろゆきの対談だけでも読む価値十分でしょ。
面白いのは「そもそも、普通が何か理解できなかった」という小飼のスタンス…認識の基本となる規範が無い?…ので、それが逆に、彼に透徹した観察力や思考能力を与えているのかもしれない。先入観がなく、認識や思考の原点が<ゼロ>で、自らの視点でものを認識するというより、あらかじめ対象に即して認識…オブジェクトの論理そのものを把握する…ような稀有な才能の持ち主なのかも。過去5年間で全米最大ヒットのドラマ「ヒーローズ」のオブジェクトを読み取る超能力者みたいに!
●ネットって何よ、今さら聞けないし
この本、なんとWeb2.0がなんとかとかGoogleがスゴイとかいう風評?の真実がわかったりする。わかるっていいことで。そしていちばん大切なのは、たぶん、裸の王様を見抜けることで。そーゆー内容の本です。
ネットがどう発展しようがデーターベースによる個人の完全な把握は不可能だとか、匿名性を前提とした2ちゃんねるを<大衆>や<ネット>そのものに即して理解しているひろゆきは「ヒエラルキーが作られない完全フラットな場所」(吉本隆明的にいえば重層的非決定という属性=大衆社会の条件)と説明できちゃう。
小飼は資本主義の「行き着くところは、カネでカネを買うということ」という現前の厳然たる事実を、当り前のようにいう。だって当り前だから。そーゆーことは誰も指摘しないどころか、自民党から民主党、共産党まで、マネーゲームとかいって否定するだけなのがマヌケなリアル。貨幣の定義も出来ないで社会や経済を語るアカデミシャンや評論家とは違って小飼はcoolでhot。高城剛といい小飼やひろゆきといい、現場の人間の言葉くらい的を得ているものは無いという真実がココにある。公園や路上の車の中で暮らしたことがある小飼や高城のスタンスは失うものが無い<時点ゼロ>みたいなもの。透明なのだ、キット。
ネットへ国家レベルの検閲を繰り返す中国政府や、越境するネット市場や電子マネーへの課税やサイトの閲覧規制で犯罪や事故防止が出来ると妄想するミニ中国並みの日本政府…とは正反対に「インターネットによって引き起こされる問題の対処は、市場が決めることだ」とCoolなひろゆきの指摘がマル。
●世の中って、どーよ
ひろゆきの「マウスよりトラックボールの方がいい」というジャッジ、最近ジョグダイヤルを見なくなったなど共感できることも多過ぎな一冊でした。信号面の深さや容量のマージンなどハードとして優れているHD-DVD(かつてのβテープVIDEOも)が負けた(勝てなかった)ように別に正しいものが勝つワケでもないワケで。そーゆーのも重層的非決定なのかな?などと独り考え込んじゃいました。
<「みんながすごいと言ってるものは、すごいの法則」が当てはまります>とひろゆきが語る真理がホントにスゴイ! 同じようなコトをケインズが株式投資について言っていて、これがたぶん唯一の法則なんだけど。ついでにいうとこれがポストモダンのいちばんシンプルな説明でもあります。もうひとつついでにいうと、この法則を数式化したのが金融工学で毎年のようにノーベル賞がでます。まあ今年からはないかもしれないけどさ。
●経営者も読んどけ!
よくTVに出てるよーな(出てなくても)経営者とか事業家とかいう人たちも、この本の1章「ITのウソ」と2章「明るい未来への誤解を解く」だけでも読んどくといいかも。だって、そーすれば、大儲けできるかもしれないし…多少頭脳があれば、だけどさ。
部下には「お前の好きにやれ」といい、管理職の要諦は「一番大事なのは、なにをやらないかということ」だ…などなど管理職や組織のリーダー?にとって最高なコメントを繰り出す小飼。QCやISOで必要外のムダをだし(ついでに過労死や自殺者なんかもだしちゃって)、それが生産性向上や合理化だと思い込んでいるよーなよくいる管理職との違いは大き過ぎ。
この本を読んでるとS・ジョブスなんかも、まあこんな感じがする人なんだろ、と思う。
気負いなく語られている「もしも堀江さんが逮捕されていなければ…」など誰かが思っていることも超高度資本主義の簡明な説明になっていて納得。ビル・ゲイツに「カネを貸してくれ」と電話したのがジョブス復活の第一歩だったけど、そーゆーカコイイドラマを演じ、かつ面白いコト役に立つコトをヘーキでやってのけそーな可能性はホリエモンやひろゆきや小飼に期待されるキャラであるかもしれない。それぞれそーゆー担当っぽいもんね。
とにかく誰が読んでも 「ゲイツは卑怯なほどに商売上手」というようーなシンプルな言葉がわかりやすくてGood!でつ。
デフレの正体 経済は「人口の波」で動く
2011/12/30 12:04
全数調査データによる圧倒的な事実! いろいろ使えます!
5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
2011年の元旦、日本のこれからを考える経済番組で希望や可能性を語れる論者として紹介されたのが著者のマスメディア初登場。バブル崩壊後は大部分の論者が政治や社会を批判するばかり、そうでなければ意義不明の御用学者…という情況の中での新鮮な登場でした。日本全国ほとんどの自治体を歩いて回った著者の説得力ある主張にメディアが注目したのでしょう。現場からの見解であり、参照するデータも全数調査でもれがない全国規模のデータばかり。何らかの理論や先入観による言説ではなく全国の現場を直接見て、全国規模で長期スパンのデータとつき合せて考えられたのが本書の内容です。
本書のベースになっているデータの特徴は以下。
・ソースはネットで公開されているものだけ
・全国調査のものだけ
・数値は絶対値のものだけ
・スパンは長期のものだけ
『デフレの正体』で扱われている数値は全数調査のものばかりで調査対象の漏れがありません。全国を範囲とし対象となるもの全てが把握されている数字です。マーケテイングという名目で限られた範囲しか調査していないものとも根本的に違います。しかも変化率や対前年度比などの相対的な数値ではなく、個別の絶対数を長期にわたって把握したもの。それは事実を見るという一点にフォーカスしたスタンスのものです。統計値といいながら率(確率・変化率)しか見ない近視眼的な評価は除外されています。統計の本来の意味は揺るぎない絶対値を把握することであってスパンを限ったナントカ率で思考停止に陥ることではないからです。著者は20年間も景気が浮上しないという事実から、基本的に既存の経済のあり方が通用しなくなってきていることを念頭に現行?の経済学にも否定的です。まず現実を把握する…そこからノンジャンルで思索している著者は長期スパンで全国規模のある変化があることを発見…それが「人口の波」です。
●96、97年をピークにすべてが下降へ
経済産業省の商業統計をはじめ、書籍・雑誌の売上、貨物総輸送量、旅客輸送量、ビールの販売量、1日あたりのタンパク質の摂取量や水道使用量…など多くの統計から導き出された共通の傾向があります。96、97年をピークに減少しはじめたという事実です。これこそが「人口の波」に影響されて変動する経済をはじめとした変化の現れでした。コンドラチェフの波以上にリアルなのは確か。
小泉竹中路線の構造改革で格差が拡大した!という批判がよくあります。経済的に期待されたトリクルダウン効果がなかったのが原因ですが。そのいちばん大きな要因が「人口の波」だったのを著者はデータから読み取りました。私見では97年橋本内閣による消費税増税が、ようやくバブル崩壊から回復しそうだった景気の芽をつぶしてしまった事実はとても大きいと思いますが、もっと根源的な原因が「人口の波」だったのです。
著者がマクロ理論に対して挑発的なスタンスなのは確かですが、ツラレた人間が多いものも確か。本書に対する「経済学的には、誤りだらけの本です」という経済学信奉者からの批判は、逆に経済学(その信奉者にとっての)が誤りだらけだということを証明してしまっているかもしれません(バブル崩壊以降の失われた20年間のあいだ無力だった言説(経済学?をはじめ)は無能無効であることは否定しにくいもの。すべてが日銀や政府だけの責任であるわけもなく、そういう状況下でまず的確な現状認識を示した本書は貴重です)。少なくともそれは私が知ってる経済学(剰余価値や限界効用といった価値を追究する学問)とは違います。本書のようにフィールドワークによって現実を直視した見解と、帳簿と簿価は普遍かつ不変だと思い込んで三面等価理論やマクロ経済学を教条としてしまっている立場と、どちらを一般の読者は評価するでしょう。50万部を超えて売れ続ける本書が照らし出すのは不況の現況や原因だけではなく、ネットで顕在化するイタイ言説や歪んだ認識の多さでもあるのかもしれません。
●理論ではなく現実をみる人たち(当たり前だけど)
本書の特徴は繰り返しますがデータが全数調査、全国規模、長期間の変化というもの。全国規模で大きく長い変化を反映したものだといえるでしょう。
本書が提起した「人口の波」の問題と関連する経済学上の考察が「世代会計」。この「世代会計」に基づいた本が『この国の経済常識はウソばかり』(トラスト立木)です。 重要なのは基本となる公的なデータ。そのデータを作る官僚の立場にいた著者の『ワケありな日本経済ー消費税が活力を奪う本当の理由』(武田知弘)は大企業の莫大な社内留保金についても言及している唯一の経済書かもしれません。日本のバブルとアメリカの関係など興味深い見解もあります。
以上の3冊はバブル崩壊以降の日本の社会・経済をめぐる状態について現実を直視した必読の本。ナゼだか3名とも経済学者ではありませんが…。
経済の大きな動因ともなる政治的なファクターも含めてグローバルなレベルから日本と世界を俯瞰しているのが『超マクロ展望 世界経済の真実』(水野和夫、萱野稔人)。イラク戦争がドルをめぐる戦いだったこと、日経平均株価がアメリカに左右される理由などラジカルな見解が続き、また3.11へ臨んだ日本人の姿勢に世界に冠たるものになる可能性だどが類推できる内容になっています。
『デフレの正体』をはじめ以上は理論ではなく現実を直視するためには必読の4冊です。豊富なデータを読むだけでもためになります。また数値だらけのような読みにくさもありません。
ナショナリズムは悪なのか 新・現代思想講義
2011/12/16 14:07
左翼やポスモダ論者はこの著者と闘論できるだろうか?
6人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
ポスモダから左翼まで日本の人文科学や論者においてメジャーな“国家やナショナリズム=悪”という認識を著者はラジカルに批判し、同時にそれが原理としては見事な資本主義論にもなっている。DG(ドゥルーズ=ガタリ)による認識を追認しつつ展開され、国家と資本主義を相互に外在的なもの(対立するもの)とする立場と国家と資本主義は内在的な関係でトータルな構造(社会構造)として歴史的に発展してきたとする著者の立場に二分される。
アイデンティティのシェーマに没入していく(しかない)ウヨクと市場が国家を超えると考えるグローバリストというまったく異なる両者が同じ観点から裁断されている。
ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』やネグリ=ハートの『マルチチュード』なども仔細に検討されその限界が指摘される。フーコーの研究者でもある著者はポイントでフーコーも援用しDGとのマッチングで説得力を発揮している。
ドゥルーズ=ガタリを援用しながらナショナリズムを正常な国民国家へと最適化することが説かれるが、これは徹底した経済学的な認識よってはじめて可能になった観点だろう。それも流行の数理オタク的な経済学ではない。国家と世界の連関を前提とした構造を把握した上で、またパノプティコンの必然を説きながら道徳的な善悪の判断を排して、鋭い思索が展開されているのだ。著者と水野和夫の対談『超マクロ展望 世界経済の真実』を併読すると世界経済からバブル、日本の可能性までが論じられていてリアルに日本がおかれている現況がわかる。
パリ大学で学んだ著者はそのような環境(国家と政府の峻別が当然だという欧米の認識)で思索したということは無視できない。著者からみれば日本のポスモダや左翼のオカシナ国家批判も、そのオカシサの原因について考察してみなければならないハズなのだ。たとえば吉本隆明の『共同幻想論』はこのオカシサ(欧米との違い)について深く考察したほぼ唯一のものであり英語や仏語への翻訳をフーコーが希望したことは重く受けとめられるべきだし、これに関して「どうにもわからない大きな愛というか意志みたいなもの」を「国家の成立」の要因だと語る(『世界認識の方法』)フーコーの指摘に留意すべきだろう。
ナショナリズムの正当性あるいは正統?なナショナリズムを主張する著者だが、その限界もそこにある。それは著者がポスモダ論者に批判されるような点ではなく、著者の主張そのものにあるのだ。それは著者自身が認めているとおりに国家と法と暴力の関係がトートロジーになっていることが前提とされていることだ。
法と暴力の起源が不問のまま国家の必然的な条件とされてしまっている。多くの学問や研究が法の生成や暴力の必然を問うているので、それを活かした考察があればもっと深い探究が可能ではないか? 暴力とは意味不明のままに他者を圧殺できることであり、「言語の共通性」を国家の前提とする著者の立場ではそもそも言語では意味不明の暴力を問うことはできない。そういった欧米的な認識の限界と闘ったフーコーは国家の(意味不明な)成立要件を「どうにもわからない大きな愛というか意志みたいなもの」というところまで追い詰めることができている。心的現象論的にはこの「愛」を「自愛」と再定義すれば、あとは論理学的な探究をするだけなのだ。結論を言ってしまえば自愛(自己に対する対幻想・全面肯定)が遠隔化して対称的な展開をし、他者を(意味不明なまま)ジャッジする(できる)ステージでは国家が成立しうる…ということだ。各ステージでのストッパーとして倫理や道徳があるが、それは著者も認めているとおり、そして吉本理論では常識としてそれこそ意味はない。マテリアルとテクノロジー以外にモノゴトを左右するものはなく、倫理や道徳はある特定の段階とTPOでの法未然のものにすぎないからだ。
基本的に重要な留意点がいくつかある。
・国家や政府、ナショナリズムという概念の区別が曖昧な日本(アジア)と国家と政府が完全に峻別される欧米とは全く違うということ。(歴史的な発展段階の違い?)
・著者は欧米におけるナショナリズムの概念だけに依拠している。
・著者が依拠するドゥールーズ=ガタリがマルクスと精神分析(ラカン)に大きな影響を受けていてトータルではマルキストであること。特にガタリは共産主義者(党員)であり、日本へ非正規雇用者の実態などを視察にもきている本物の左翼の活動家でもある。
・フーコーの国家への認識は不完全だが“自愛”をキーワードにすれば国家やナショナリズムに届く可能性をもっており、欧米思想のなかでいちばん鋭いものになっている(吉本隆明との対談『世界認識の方法』を参照)。
P176
ネグリ=ハートの<帝国>論のまちがいは、
決定における「形式」と「内容」を混同しているところにある。
これは端的にネグリ=ハートのマルクス読解が未熟なことを示している。著者は資本論を特集するある誌面で“自分の方法は資本論と同じだ”というようなことを述べているが、それが納得できる鋭い指摘になっている。ドゥールーズ=ガタリあるいはラカン的なものを参照しているならば、ジジェク(マルクス×ラカン)のようなものも参考文献として日本のポスモダ論者とガチに対峙できるのではないか。「新・現代思想講義」というサブタイトルを掲げるならばそういったアプローチもほしかった。