峰形 五介さんのレビュー一覧
投稿者:峰形 五介
未来医師
2010/07/29 01:38
医者はどこだ?
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山本弘だったか誰だったかが「P・K・ディックは過大評価されすぎ」というようなことを言っていたが、本当に過大評価されているのだろうか?
P・K・ディックのファンの多くはディックのことを超一流の天才作家などと思っていないし、『サップ・ガン』だの『死の迷路』だのといった作品について(個人的には好きだとしても)「これはSF史に残る名作だ!」なんて主張することもないし、でたらめなプロットや陳腐なガジェットに小難しい理屈をつけて美化することもないし、晩年の薄っぺらい神秘体験を真に受けて感化されることもない(よね?)。ダメなところはダメだと認めた上でディックの作品を愛しているのだ。
そういうわけだから、本書の裏表紙に記された「時間SFの秀作、本邦初訳!」という一文に期待を膨らませることもないだろう。「秀作」と呼ぶに相応しい作品なら、とっくの昔に翻訳されているはずだ。
で、いざ読んでみると……確かに秀作でも傑作でも名作でもないのだが、思っていたほど悪くはない。いや、ディックらしくないと言うべきか。
「医療が違法行為とされている悪夢のような世界に医師が迷い込む」というプロットはディックらしいと言えるし、そのプロットが練りこまれることなく、中盤から別の話に変わってしまうといういいかげんなところもディックらしい。しかし、その中盤からの「別の話」がディックらしくない。なんと、まっとうなタイムトラベル小説なのだ。
どれくらい「まっとう」かというと――
「ロバート・A・ハインライン『夏への扉』のように、理論の辻褄がきちんと合っているのだ」
――と、巻末の解説に書かれてしまうほど。
そう、この小説は辻褄が合っている。主人公がタイムトラベルを何度も繰り返すことによって状況は混沌としていくが、最終的には全ての謎が解き明かされ、パズルのピースがきちんと収まり、複雑にもつれていた糸が解け、物語は破綻することなく大団円を迎えるのである。
ディックの小説なのに(しかも、たいした思い入れもなく、適当に書き散らしたであろう小説なのに)破綻がないなんて……人によってはがっかりするかもしれない。
でも、たまにはこういうのも良いよね。
ゼロ年代SF傑作選
2010/07/18 20:59
リアル・フィクションの落ち穂拾い
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『ゼロ年代SF傑作選』とは、なんとも無味乾燥なタイトルだ。
しかし、それを補うかのように帯のコピーには――
「秋山瑞人のSFマガジン読者賞受賞作/冲方丁のマルドゥック・シリーズ外伝/海猫沢めろんとエロ本と五次元/桜坂洋のポリゴンとテクスチャの青春その後/新城カズマと女子高生とスパルタの送受信について/西島大介のアトモスフィア原型短編/長谷敏司の日本人のための物語/元長柾木の日本昔ばなし」
――と、なかなか魅惑的なフレーズが並んでいる。
人気も知名度も高い「マルドゥック・シリーズ」に真先に目が行く人もいるだろう。「エロ本と五次元」や「女子高生とスパルタ」という奇妙な取り合わせに好奇心を刺激される人もいるだろう。「SFなのに日本昔ばなし?」と首をかしげる人もいるだろう。
そして、作家たちの名前を見て「次世代型作家のリアル・フィクション」という言葉を思い浮かべる人もいるかもしれない。
「次世代型作家のリアル・フィクション」とは、二〇〇三年から二〇〇八年まで展開された、早川書房のレーベルのこと(本書の巻末で藤田直哉が詳しく解説している)。
その今は亡き(?)レーベルに名を連ねた作家たちの短編を集めたのが本書である。
傑作選というだけあって、収録されている作品はどれもおもしろい。長谷敏司の『地には豊穣』と秋山瑞人の『おれはミサイル』が特に良かった。
しかしながら、リアル・フィクションというジャンルの定義が曖昧で判りにくいこと、また外伝的な作品(※1)がいくつか収録されていることなどから、一冊の本として見ると、まとまりがなく、いびつな感じがする。諸事情によって各作家の短編集に収録できなかった作品、あるいは諸事情によって短編集を刊行できなかった作家の作品――そういったものの寄せ集めのような印象を受けるのだ。収録作の質が高かっただけに、この場当たり的な編集(あくまでも個人的な印象だが)は残念。
それと、細かいことかもしれないが、作家名の振り仮名がどこにも記されていないのも気になった(※2)。
というわけで、各々の作品の評価は星四つから五つだけれども、全体としては星三つ。
※1:冲方丁の『マルドゥック・スクランブル“104”』は『マルドゥック・スクランブル』の前日談。桜坂洋の『エキストラ・ラウンド』は傑作『スラムオンライン』の後日談(本編のネタバレがあるので、未読の方は要注意)。西島大介の『Atmosphere』は『アトモスフィア』のプロトタイプ。また、外伝というわけではないが、新城カズマの『アンジー・クレーマーにさよならを』は『サマー/タイム/トラベラー』の第二章で言及されていた「親を選ぶ子供たちの冒険を描いた、ちょっと素敵な書簡体SF小説」のモチーフを借用したもの。
※2:従来のハヤカワ文庫JAなら、奥付の著者の欄にルビが振られているのだが、本書はアンソロジーなので奥付には「編者 SFマガジン編集部」とあるだけ。それはしかたないにしても、カバーの折り返しや各作品の冒頭にある著者紹介など、読み仮名を記すことができる箇所は他にもあったはず。
新・鉄子の旅 1
2010/03/04 22:02
鉄子号、再発車!
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去年の今頃に発売された『鉄子の旅プラス』――その感動的(?)なラストシーンを覚えておられるだろうか?
2008年9月2日午前11時19分、久留里線東清川駅に列車が到着し、キクチこと菊池直恵が読者たちに別れを告げたところで「約5年にわたるスペクタクル・テツサーガ」(いや、巻末の公告にそう書いてあるのよ)は静かに幕を閉じた。
……と思いきや、その列車には新たな犠牲者が乗っていたのだ。
そういうわけで(どういうわけで?)『鉄子の旅』の新シーズン開幕である。もちろん、旅の案内人はトラベルライターの横見浩彦だ。
横見と共にテツ地獄を行くメンバーはおなじみの編集者カミムラ、スイッチバック大好きの公私混同テツ編集長、前作にも何度か登場した自称ソフテツの女優・村井美樹。そして、キクチに代わる新たな犠牲者ホアシカノコ(正式なペンネームは「ほあしかのこ」だが、キクチと同様に作中ではカナで表記されている)。
このホアシ、若干19歳の新人とはいえ、なかなか侮れない。人気作の続編を任されたのだから、相当なプレッシャーがあるだろうし、気負いもあるはずだが、そういった重苦しいものを感じさせないのだ。良い意味で軽い作風。これは『鉄子の旅』という作品にマッチしているような気がする。ただし、画力のほうはいまひとつ(まあ、それは今後の成長に期待ということで)。
さて、描き手の交代によって内容がどのように変化したかというと……実はあまり変わっていなかったりする。まあ、当然といえば、当然だ。作中で横見が「描く人も変われば見え方も変わる」と言っているが、キクチもホアシも鉄道に興味はないのだから、テツに対する視点はそんなに変わらないだろう。
非テツの女性漫画家がテツのパワーに翻弄され、圧倒され、時にはちょっとだけ感心する――この毎度のパターンを「期待通りの展開」と受け取るか「マンネリ」と受け取るかは読み手次第。私は「期待通りの展開」を楽しんだクチだ。ただ、ホアシがまだ横見に遠慮しているように思えた。キクチがそうであったように、もっと横見をイジりまわし、容赦なくツッコミまくるほうがいい。横見は嫌がるかもしれないが、安泰な老後のためなら我慢してくれるはず。
え? なぜ、ここで「安泰な老後」なんて言葉が出てくるのかって? それは本作を読めば判る。
ちなみに一行の旅の様子は村井美樹のブログ「極めよ、ソフテツ道☆」で読むこともできる(ブログの一部はコミックにも収録されている)。こちらもお勧め。
ドリーム・マシン
2009/05/26 22:46
幻脳コイル
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そして彼がきみを夢みることをやめたならば……
『鏡をとおって』IV
これはボルヘスの『円環の廃墟』(訳:鼓直)の冒頭にある引用文。原題が直訳されているので判り辛いが、引用元は『鏡の国のアリス(Through the Looking-Glass)』の第四章だろう。
『鏡の国のアリス』は、アリスが見た(あるいは赤のキングが見た?)夢の物語。その夢の中では鏡が異界への入り口になっていた。
この『ドリーム・マシン』も夢を扱った物語だが、鏡の役割は逆だ。夢見る者は鏡を使って現実の世界に帰還する。また、夢見る者の数も違う。アリスは一人で夢を見たが、『ドリーム・マシン』の主人公ジューリアは三十八人もの仲間と共に夢を紡いでいる。未来の世界を舞台にした夢を。
理想的な未来社会を体験することによって、現代社会の問題を解決する手がかりを探す――それがジューリアたちの目的だ。ただし、その目的を自覚しているのは現在/現実の世界にいる時だけ。未来の世界を夢見ている間はそこが仮想現実であることを忘れ、未来の住人になりきって生きることになる。
作中、ジューリアは夢と現実の間を(未来と現在の間を)何度も行き来する。彼女が現実の世界に戻っても、夢の世界の彼女は消えない。夢の世界に留まっている者が彼女のことを夢見ているからだ。自分が夢を見ることをやめても、他の誰かが夢を見続けている限り、夢が崩壊することはない。
だが、悪意を持つ人間が夢見る者たちの中に加わったとしたら?
恥ずかしながら……いや、べつに恥ずかしがることでもないのだが、私のプリースト初体験は名作『逆転世界』でもなければ、傑作『奇術師』でもなく、映画のノベライズ『イグジステンズ』だ。
正直、『イグジステンズ』はあまり面白くなかった(映画版とさして変わらないストーリーだったので)。しかし、同じようなテーマを扱った『ドリーム・マシン』は楽しむことができた。特に夢と現実との差異が曖昧になる後半の展開は刺激的だった。
ジューリアが夢の世界から現実の世界に帰っても、そこが本当に現実であるという保証はない。もしかしたら、現実の世界を模した夢の世界なのかもしれない。そして、その現実とも夢とも知れぬ世界から夢の世界に戻っても、そこが最初の夢の世界と同じとは限らない。現実から夢へ、夢から夢へ、また別の夢へ……夢見るジューリアの精神は始点に戻ることなく、螺旋を描いていく。
なにやらP・K・ディックを彷彿とさせる展開だが、技巧派プリーストの物語はディックのそれのように破綻することはない(ディックのファンからすれば、そういうところが物足りなかったりするんだけど)。
ちなみに本作はSF小説であると同時に恋愛小説でもある。クライマックスにおいてジューリアを行動に駆り立てるのは愛だ。
それは夢の世界で生じた愛なのだが、だからといって贋物だと断じることはできないだろう。現実の世界の事象を本物だと断じることができないのと同じように……。
「あたしが本物じゃなかったとしたら、こんなふうに泣くこと
なんてできないはずよ」
「まさかその涙が本物だと思ってるんじゃないだろうね?」
『鏡の国のアリス』
ニワトリはいつもハダシ 両A面
2009/05/17 00:40
「あの男は、カミカゼか?」 「あれは、ただのSF作家だ」
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天才ならぬ天災SF作家・火浦功の非SF作品『ニワトリはいつもハダシ』のリニューアル版。いかにも八十年代といった感じのサスペンス・コメディだが、名作『死に急ぐ奴らの街』に通じるハードボイルドな風味も少しだけ含まれている。ただし、本当に少しだけなので、あまり期待しすぎないように。
タイトルに「両A面」とあるのは雑誌版と補完版の二種が収録されているからだ。
雑誌版は『野性時代』に連載されていたヴァージョン。物語が迷走し、破綻し、謎がなにひとつ解けぬまま打ち切られている。角川文庫版の解説にあった言葉を借用させてもらうなら、「そして誰もいなくなったオチ」というやつだ(ちなみにその解説を書いたのは、『野性時代』の編集者だった深町一夫……じゃなくて高柳良一)。はっきり言って、失敗作である。火浦功の熱烈なファン以外にはお勧めできない。
一方、補完版のほうは綺麗にまとまっている。これは雑誌版を加筆修正した角川文庫版を更に加筆修正したヴァージョンなのだが、角川文庫版との差異は微々たるもの。手元にあった角川文庫版(一九八九年九月発行の六版)と比較してみたが、「ノンノ」が「non・no」になったり、「歌舞伎町でナンパ」が「池袋でナンパ」になったり、「45口径のACP弾」が「45口径の被帽付徹甲(APC)弾」になったり、シゲと政の愛車がグレイのソアラから漆黒のフェアレディ280Zになったり、第五章の終盤に沖田とジョーのやりとりが追加されたり、「得意なスポーツは、バレーボール」という一文が加えられたり……といった程度。最後のバレーボール云々というのは意味が判らないだろうが、その箇所を読めば吹き出してしまうことは受けあい。
興味深いことに、第五章に追加された沖田とジョーのシーンは雑誌版にもある。「連載時にあったシーンが → 文庫化の際に削られて → 両A面の補完版で復活した」ということなのだろうか? ACP弾も雑誌版では補完版と同じようにAPC弾になっているし、角川文庫版のミス(マコトたちが見ていないはずの車のことを「見覚えのあるソアラ」と書いている)も雑誌版にはない。このあたり、火浦作品の研究家たちの更なる調査が待たれるところである……って、研究家なんているのか?
木でできた海
2009/05/13 22:49
木でできた海をどうやって渡る?
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物語の終盤でフラニー・マケイブは悟る。
「俺たちは彼らの声に耳を傾け、導いてもらわねばならない」
さて、「彼ら」とは何者か?
ヒントその1 複数形なのに一人しかいない
ヒントその2 でも、やっぱり一人ではない
本作はジョナサン・キャロルの十一本目の長編である。『蜂の巣にキス』、『薪の結婚』に続いて、今回もクレインズ・ヴューが舞台となっているが、前二作とは少しばかり趣が違う。いや、キャロルの過去の作品すべてと趣が違う。キャロル・ワールドに慣れ親しんできた者たちはきっと戸惑うだろう。まさか、キャロルがアレを書くなんて……。
アレというのは、あるジャンルのこと(ネタバレを避けるために言葉をぼかしておこう)。アレの愛好者たちは「こんな小説はアレではない」と言うかもしれないし、当のキャロルも「べつにアレを書いたつもりはない」と言うかもしれない。それでも多くの読者はアレを思い浮かべずにはいられはずだ。あんな事が起きたり、あんな者が出てきたりするのだから(ああ、もどかしい)。
しかし、アレであろうとなかろうと、キャロルはキャロルだ。おなじみの要素が本作にも詰まっている。たとえば、奇妙な犬。たとえば、父と子の愛憎。たとえば、不良中年の内省。たとえば、頼れる(しかし、変人の)相棒。たとえば、喋り出す死人。たとえば、俗っぽい姿で現れる高次の存在。そして、甘すぎない感動。
キャロルは良い意味で変わっていく。キャロルは良い意味で変わらない。新境地を拓きながらも、自分を見失うことはない。
なぜ、そんな風に変わること/変わらずにいることができるのか?
たぶん、キャロルもまた「彼ら」の声に耳を傾けているからだろう。
物語の中盤で少女がフラニー・マケイブに尋ねる。
「木でできた海で、ボートをこぐにはどうしたらいいですか、マケイブさん」
さて、どうしたらいいのだろう?
その答えは「彼ら」が知っている。
アイゼンファウスト天保忍者伝 1 (KCDX)
2009/05/02 20:00
われ天保のGPU
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山田風太郎の作品集をいくつも企画・編集してきた日下三蔵が『忍法創世記』の解説で、こんな言葉を用いたことがある。
「あまり出来のよろしくない(あくまで風太郎忍法帖のなかでは、ということだが)後期の数作」
この後に続く文章で日下が挙げた「あまり出来のよろしくない」作品は四本。『忍法剣士伝』(個人的には大好き)と『忍法双頭の鷲』(これはいまいち)と『秘戯書争奪』(Vシネ版は噴飯物)。
そして、『忍者黒白草紙』だ。
確かに『忍者黒白草紙』の完成度は高くない(日下が述べているように、あくまでも他の忍法帖と比較した場合だが)。しかし、逆に言えば、後人が手を加える余地があるということ。「完成度が低いのなら、俺が完成させてやる! 七十点の作品を百点にしてやる! いや、百二十点にしてやる!」ってなことを考えたのかどうかは知らないが、鬼才・長谷川哲也がコミカライズに挑んだ。
快作にして怪作である『ナポレオン -獅子の時代-』を生み出した長谷川のことだから、原作とは似ても似つかぬ作品を描くのかと思いきや、この『アイゼンファウスト』のストーリーの骨格は原作に忠実だ。ただし、あくまでも骨格だけ。長谷川はその骨格に大量の筋肉を貼り付け、熱い血を通わせ、肌色には程遠い派手な色を塗りたくっている。エロス&バイオレンスは原作の五割増し。ナンセンスは八割増し。主人公の天四郎と空也、それに影の主人公とでもいうべき鳥居耀蔵のみならず、脇役の服部万蔵や死之介までもが強烈なキャラになっている。
長谷川のブッ飛んだアレンジの一例を挙げよう。悪の剔抉者となることを選んだ天四郎、悪の擁護者となることを選んだ空也――両者が袂を分かつシーン。原作では空也が鎖分銅で天四郎を牽制し、その隙に逃げ去るのだが、『アイゼンファウスト』では二人が風呂場でバトルを繰り広げる。風呂場なので、どちらも裸。湯船で戦いを見守っている鳥居耀蔵も裸。その耀蔵の頭上にはダモクレスの剣さながらに抜き身の刀が何本も吊り下げられている。そして、耀蔵の娘のお兆が『荀子』を暗誦しながら、天四郎に……常軌を逸したシチュエーションだ。それでも原作を冒涜しているような印象は受けない。むしろ、原作者への敬意が作品のそこかしこから感じられる。
冒頭で触れた『忍法創世記』の解説によると、山田風太郎は石川賢の『柳生十兵衛死す』を一読して「うーん、こりゃ、原作よりすごいネ」と述べたという。
山風がまだ生きていたなら、この『アイゼンファウスト』にはどんな感想を抱いただろうか?
「これも原作よりすごいネ」と言うかもしれない。
だけど、その後で「でも、まだ原作に遠慮してるね。もっと弾けてもいいよ、長谷川クン」なんて付け加えたりして。
アメリカン・ゴッズ 上
2009/04/12 23:10
オール神様大進撃
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食事シーンが多い作品である。ただし、豪華な食事は出てこない。質より量のファストフード、もしくは素朴な家庭料理ばかり。ピザ、チリ、パンケーキ、パスティ(これは美味そう!)、マカロニチーズ、デビルドエッグ、ポテトサラダ、リンゴ酒、蜂蜜酒、手作りのビール、アイスクリームサンデー、キャンディバー、特大のチョコレートクリームパイ、KFCのフライドチキン、焦げたフレンチフライ、ぱさぱさの七面鳥、冷めたハンバーガー、米入りのロールキャベツ、ミートボール入りのスパゲティ、酸っぱいボルシチ、薪のストーブで煮込んだシチューなどなど。ダイエット中の方は読まないほうがいい。
移民国家アメリカが舞台となっているので、いくつかの料理に含まれている民族色は作り手のそれと一致している。たとえば、第二部でスパゲティを作る女性の先祖はコルシカ島の出身だし、第一部でボルシチを振舞う老女はスラヴ神話の女神だ。
この「女神」というのは比喩ではない。正真正銘の神である。
そう、『アメリカン・ゴッズ』は神々の物語。
アメリカには無数の神がいる。多種多様な人種が海を越えて新大陸にやってきた(あるいは強制的に連れてこられた)時、彼らが崇める神々もまたアメリカの住人となったのだ。ヨーロッパの神、インドの神、中国の神、エジプトの神……。
もっとも、神が神として生きていたのは昔の話。今では力を失い、人間社会に寄生する日陰者になっている。人々の心が新たな神々を生み出してしまったために。インターネットの神、メディアの神、自動車の神、ドラッグの神……。
古き神々の多くはそんな現実を受け入れているが、北欧から来た隻眼の神だけは違う。
彼は主張する。
新しき神々は我らを滅ぼそうとしている、と。
殺られる前に殺れ、と。
そして、彼は古き神々を糾合し、新しき神々に戦いを挑んでいく。
これが少年漫画やライトノベルの類なら、新旧の神々が各々の特性を活かしてバトルを繰り広げるところだが(それはそれで面白そう)、書き手がニール・ゲイマンとなれば、そうはいかない。現代の「神々の黄昏」は読者の予想を裏切る形で進行する。しかし、期待までもが裏切られることはない。ゲイマンが紡ぎ出した神話に読者は困惑しながらも魅了され、憑かれたようにページをめくり続け、クライマックスを経て人心地がついたところで長めのエピローグにとどめを刺されるだろう。その後、すぐに息を吹き返し、再読を始めるはずだ。見逃していた伏線を再確認するために。
それにしても、カバーの折り返しや帯にある「今世紀最大の問題作」という惹句はいかがなものか? 本書が問題作/名作であることは間違いないが、今世紀が始まってからまだ十年も経っていないのに「今世紀最大」と決め付けるのは早計に過ぎるだろう。
次世紀が来る前に『アメリカン・ゴッズ』という作品が人々に忘れ去られる可能性がないとは言えない。この物語を最後まで読み通した人なら知ってるはずだ。どんなものもいつかは忘れ去られ、輝きを失ってしまうことを。
もちろん、いつか失われるからといって今の輝きが無価値というわけではないことも。
キャプテン・アメリカはなぜ死んだか 超大国の悪夢と夢
2009/04/11 21:50
"We blew it"とキャプテン・アメリカは言った
4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
アメリカ在住の映画評論家・町山智浩のコラム集である。ベストセラー『アメリカ人の半分はニューヨークの場所を知らない』の姉妹編のようなもの(どちらの本も『週刊現代』に連載されていたコラムが中心になっている)だが、本書のほうは――
NASA製の紙オムツをつけて大陸を横断したストーカー宇宙飛行士!
全身全霊をかけてドンキーコングに挑む中年男!
億万長者が遺産を残した相手は愛犬のマルチーズ!
ストリート・ギャングを題材にしたガチャポンが大人気!
パン屋の利権を巡って繰り広げられた骨肉の争い!
――といった具合に三面記事的なネタを取り扱ったコラムが多いので、『USAカニバケツ』の雰囲気に近い。
三面記事的だからといって、『アメリカ人の半分は~』より内容が軽いわけではない。思わず吹き出してしまうようなマヌケな事件の背景にも、アメリカが抱えている病――人種差別や格差社会や宗教問題があるのだから。
とはいえ、町山はアメリカの病だけでなく、魅力も伝えてくれているが。
ちなみに私が最も興味をひかれたのは、アメリカ発の実録系ベストセラーのデタラメぶりについてのコラム。『サラ、いつわりの祈り』、『“It”と呼ばれた子』、『ハサミを持って突っ走る』、『リトル・トリー』――これらは自叙伝の体裁を取っているが、その内容は嘘八百なのだという。
で、試しにちょっと検索してみたら……げ! 『リトル・トリー』って、小学生向けの名作選にまで収録されてるじゃん!?
Hellsing 10 (YKコミックス)
2009/04/06 22:16
人ならざる者が唄う人間賛歌
6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
『HELLSING』が完結した。
いろいろと不満はある。外伝が未完であること。四巻にシルエットで登場したヴェアヴォルフの面々が(リップヴァーン・ウィンクル以外は)忘れ去られてしまったこと。ハインケルと由美江があまり活躍しなかったこと。ウォルターの六十年越しの離反が後付けくさいこと……などなど。
しかし、読後の感動の前にはそれらも霞む。
正直、この作品がこんなに綺麗な形で終わるとは思っていなかった。特に敵キャラである少佐の扱いには危惧を抱いていた(作者からすれば余計なお世話だろうが)。
あまりにも魅力的な敵キャラというのも考えもので、時には作者がその敵キャラに肩入れしすぎて話がグダグダになってしまうことがある(ファンの方には悪いが、木城ゆきとの『水中騎士』なんかはそんな感じだった)。しかし、平野耕太は少佐のカリスマや狂気に引きずられることなく、それでいて安易に矮小化することもなく、きっちりと方を付けてみせた。誰にでもできることではない。この平野という男、巻末のオマケマンガやブログ等では常軌を逸した壊れっぷりを見せているが、本当はとても理知的なストーリーテラーなのかもしれない。
あ、そうそう。オマケマンガといえば、おなじみの山守義雄はこの最終巻にも登場している。解説文によると、彼は「全てを影であやつる至高の存在」であり、「悪逆非道の極地(原文ママ)の存在」なのだという。すげーや。
ずっとお城で暮らしてる
2009/04/04 21:30
「機会があれば、ほんとうに子供を食べられるかしら」
9人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
村人たちに疎まれている二人の姉妹――コンスタンスとメリキャット。
コンスタンスは他者と接触することを恐れて屋敷にひきこもっているので、村に買い出しに行くのはメリキャットの役目。彼女に向けられる村人たちの視線は冷たい。心ない言葉をぶつけられる時もある。その度にメリキャットは物騒なことを考える。
「そもそもこんな人たちが生み出されたことに、どういう意味があるのかわからない」
「みんな死んじゃえばいいのに、そしてあたしが死体の上を歩いているならすてきなのに」
「みんな死んで地面に転がっていればいいのに」
メリキャットは「フシギちゃん」と呼ぶには不気味すぎる。しかし、怖いのは彼女ではない。いや、怖いことは怖いのだが、得体の知れぬ怪物じみた存在は距離を置いて見ることができる。
本当に怖いのは村人たちのほうだ。メリキャットと違って、彼らは理解しがたい存在ではない。どこにでもいる普通の人々だ。そう、読者と同じように……。
村人たちの悪意は読者の心に潜む悪意であり、村人たちの醜い行動は読者がいつか犯してしまうかもしれない(あるいは過去に犯した)過ちなのだ。
終盤、悪意の発露が集団ヒステリーの様相を呈し、村人たちは暴徒と化す。ここまで極端なことになると、読者は逆に安心できるだろう。狂った暴徒たちをメリキャットと同じような怪物と見做し、「俺の中にも悪意の種はあるけど、ここまで非道なことはしないよ」と思い込むことができるだろう。
ところが、そんな安易な逃避を作者は許さない。時が経つと、村人たちはしおらしくなり、姉妹に許しを乞い始めるのだ(卑怯にも匿名で)。こうして、読者はまた思い知らされる。村人たちが卑屈で非力で臆病な「どこにでもいる普通の人々」であることを。自分自身の姿がそこに映し出されていることを。
ああ、怖い、怖い。
ちなみに書評のタイトルはメリキャットが口にした言葉。
それを聞いた姉のコンスタンスはこう答える。
「料理できるかどうか、わからないわ」
鉄子の旅プラス
2009/03/23 20:28
「どこにでもあるような駅」が「そこにしかない駅」であることを教えてくれた人たち
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なんでも『日本鉄道旅行地図帳』なるものがバカ売れしているそうで。テツブームはまだまだ終わらないようだ。
そのテツブームの隆盛に貢献した(と思われる)実録マンガ『鉄子の旅』が帰ってきた。リアルタイムで読んでいた人にとっては約二年振りの単行本ということで喜びも一入だろう。もちろん、私のような俄かファンにとっても喜ばしいことだが。
最新巻にして最終巻である本書でも横見浩彦は絶好調。キクチの容赦ないツッコミも健在(でも、カバーを外したら読める恒例のオマケマンガではキクチがボケ役で横見がツッコミ役)。もちろん、要領が良いんだか悪いんだかよく判らない編集者のカミムラの出番もたっぷりとある。
そんな三人と多彩なゲストによる「鉄子の最後の旅」の内容は以下の通り。
1 「相互乗り入れ企画!? 酒井順子さんと水のある風景を求めて」
月刊IKKIと小説新潮のコラボレーション企画。ゲストに酒井順子を迎え、
「水のある風景」が堪能できる北の秘境駅を目指す。
2 「秘境駅の女『鉄子の旅』同乗記」
1の模様を酒井順子が記したエッセイ。横見に対するキクチの感情をストック
ホルム症候群に例えているのがおもしろい。
3 「押しかけ同行取材! テツドラマ誕生の地へ」
テレビドラマ『特急田中3号』のロケに同行し、トリテツの聖地に向かう。ス
ペシャルオマケマンガ付き。
4 「アニメ化記念スペシャル! 皆でワイワイ、サンライズで出雲にGO!」
アニメ化記念企画。アニメの主題歌を担当したSUPER BELL"Zと豊
岡真澄がゲストとして参加。目指すは直江駅。
横見「キクチナオエが「直江」に行くの! ナオエが「直江」へ!! すご
いでしょ!?」
5 「アニメ制作地獄 スタッフが語るアニメ『鉄子』の裏側」
アニメのスタッフ(と自分)の苦労についてカミムラがキクチに語る。
6 「銚子電鉄応援企画 ここではやっぱり全駅乗下車」
完全にテツオタと化した豊岡真澄、彼女のテツ師匠ともいえる南田、自称ソフ
テツの村井美樹、そのマネージャーであるマイペースの米田といった濃い面々
と共に銚子電鉄の全駅を乗下車。
7 「実録! テツヲタブランド化計画」
『鉄子の旅』終了後に連載された近況報告マンガ。
8 「2008年9月2日AM11:19までのエピソード」
本書のプロローグとエピローグ。そして、各エピソード間のインターバル。キ
クチが読者に語りかける形で進行する。
1と3と4は連載終了後に掲載された特別編。DVDのVol.2で4の実写映像を見ることができる。
5はDVDの初回特別限定版の特典。6は銚子電鉄応援BOXの特典。一部の人しか読めなかった「幻の作品」を収録してくれたのはありがたい(でも、特典目当てにDVDや応援BOXを買った人は釈然としないものがあるだろうなー)。
描き下ろしの8はキクチによる『鉄子の旅』の総括である。
そして、『鉄子の旅』への決別でもある。
彼女が後にする久留里線の東清川駅は第一話で鉄子一行が駅弁を食べていた場所。横見がJR全駅制覇時代の貧しい食生活を回想して感慨にふけっていたあの駅だ。『鉄子の旅』を締め括るに相応しい場所かもしれない。
ユーロマンガ 最高峰のビジュアルが集結、日本初のヨーロッパ漫画誌! vol.2
2009/03/22 20:45
マンガの実写化が流行っているのは日本やアメリカだけではないらしい
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「日本初のヨーロッパ漫画誌!」を標榜するムックの第二弾。
ページ数はVol.1とさして変わらないにもかかわらず、値段のほうは300円も上がっている。これには不満よりも不安を覚えてしまった。値上げしないとやっていけないほど厳しい状況なのかしらん? もっとも、『ブラックサッド』の単行本が1,700円だったことを考えれば、この値段は決して割高ではない。Vol.1とVol.2を合わせて買えば税込み3,465円で四冊分のコミック(しかも、オールカラーの大判)が読めるのだから。
ラインナップは前回と同じ。『スカイ・ドール(SKY-DOLL)』と『ラパス(RAPACES)』と『ブラックサッド(BLACKSAD3)』と『天空のビバンドム(BIBENDUM CELESTE)』。
やはり、『天空のビバンドム』が一番おもしろい。回想劇の中の眼鏡男が回想者であるロンバックス教授の前に現れるくだりが最高。主人公ディエゴの相方(?)となったデブ犬も良い味を出している。このデブ犬くん、外見はキモかわいく、仕種は愛らしいのだが、本性は……。
次点は『ブラックサッド』。擬人化された動物たちが繰り広げるハードボイルドコミックの第三話。一話や二話の頃に比べると、物語に深みが出てきた。遊び心も忘れられてはおらず、最後のオマケイラスト(原本の見返しにでも描かれていたのだろうか?)ではオーストラリアの港湾労働者としてコアラやカンガルーが擬人化されていたりする。安直といえばそれまでだが、見ていて楽しくなるイラストだ。
マンガだけでなく、コラムも充実している。特に巻頭の「イタリアの漫画 煙(Futtmeo)の行方――発生から現在まで」は興味深く読めた(イタリアでは日本のマンガが左右反転されずに出版されているそうな)。ただ、コラム内の図版が小さかったのが残念。
なお、本誌に掲載されているニュースによれば、『ブラックサッド』は映画化されるとのこと。しかも、アニメではなく、実写で。どうなることやら……。
WATCHMEN
2009/03/09 23:06
「35分前に実行したよ」
15人中、13人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
物語の舞台は1985年のアメリカ。ただし、我々が知ってる1985年ではないし、我々が知ってるアメリカでもない。
そこはニクソンが十年以上も大統領を続けているアメリカ。
そこはウォーターゲート事件が発覚しなかったアメリカ。
そこはベトナム戦争に勝利したアメリカ。
そして、派手なコスチュームをまとったスーパーヒーローが実在するアメリカ。
フランク・ミラーの名作『バットマン:ダークナイトリターンズ』と同様に『WATCHMEN』の世界でもヒーローたちの自警行為は法で禁じられ、ごく少数のヒーローだけが政府の工作員として(時には兵器そのものとして)活動している。
ある夜、そんなヒーロー/工作員の一人が殺害される。アメリカの敵対国が刺客を放ったのか? ヒーローに恨みを持つヴィランが復讐を果たしたのか? それとも……?
スーパーヒーローの物語を描く際にリアリティを重視するのは危険だ。リアルに描けば描くほど、スーパーヒーローという存在の滑稽さが際立ってしまうのだから。下手をすると、ギャグにしか見えなくなる。しかも、笑えないギャグだ。
この『WATCHMEN』がお寒いギャグマンガにならなかったのは、登場するヒーローたちが己の滑稽さを自覚しているからだろう。滑稽さだけではなく、非力さも自覚している。悪事を働くヴィランたち(彼らもコスチュームをまとっている)を退治したところで、この世界に迫る本当の危機を打破できるわけではないのだ。
それでもヒーローたちはコスチュームをまとわずにはいられない。滑稽で非力な道化役を演じずにはいられない。なぜなら、ヒーローだから。
物語の終盤、コスチューム姿のヒーローたちがある場所に集結する(ドクター・マンハッタンだけはコスチュームを着ていない。全裸がデフォルトなので)。黒幕までもが必要もないのにコスチュームを身に着けている。しかし、そこで繰り広げられるのはコスチュームヒーローの物語に相応しい勧善懲悪の大団円ではない。かといって、巨大な悪の前に善が膝を屈するわけでもない。もっと残酷で幸福で邪悪な結末が待っているのだ。
ヒーローとして生きることしかできない者にとって、アラン・ムーアが描く世界は悪夢だろう。悪と戦って華々しく散ることさえ許されないのだから。
鉄子の旅 6 (IKKI COMIX)
2009/02/11 19:19
空気が読めない男、言葉を選ばない女
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漫画家のキクチと編集者のカミムラとトラベルライターの横見浩彦(と、時には様々なゲストや編集長も交えて)の鉄道による小旅行を描いた実録マンガ。
ただし、まともな小旅行ではない。東京から九州まで鈍行で移動したり、廃線跡を6キロも歩いたり、猛吹雪の無人駅で電車をひたすら待ったり、スイッチバック駅を見るために往復十時間も電車に揺られたり……それはテツにとっては至福の旅、一般人にとっては地獄の旅。読者にとっては? もちろん、前者だ。
鉄道に興味はないのだが、なんとなく読み初めたら、あっという間にハマってしまった。実に楽しい作品だった。食わず嫌いはいけませんな。
この作品が成功した要因の一つが横見浩彦という特異な(しかし、愛すべき)人物であることは間違いないだろう。だが、キクチこと菊池直恵の功績も忘れてはいけない。
横見が企画した旅は過酷なものばかりではないし、ストーブ列車やトロッコ列車や足湯や夜景など一般人にも受けそうなものも盛り込まれている。彼の言動や旅の印象を少しばかり美化すれば、まともな観光マンガとして描くこともできたはずだ。しかし、キクチは横見に調子を合わせることなく、時には大声で不満をぶちまけ、時には冷たくあしらい、時には呆れて言葉を失い、時には取材内容をバッサリと切り捨て(第10旅と第18旅)、時には容赦なくツッコミをいれるのである。たとえば、こんな具合に――
「要するに大きな車じゃん」(ディーゼル機関車に対するコメント)
「それってつまりトイレ行くのと一緒ってこと?」(横見の「俺にとって、旅は日常の一部なんだ」という言葉を聞いて)
「横見さんと比べないでください」(「キクチさん、けっこうクールですよね」と言われて)
「言ったら多分このマンガ終わっちゃうよ」(「横見さんのことどう思ってるんですか?」と尋ねられて)
優秀なツッコミ役がいるからこそ、ボケ役が光る。もし、ツッコミ役のキクチが横見に遠慮ばかりしていたら、あるいはキクチが横見と同様に重度のテツだったら、こんなに素敵な作品にはならなかっただろう。できれば、この水と油の迷コンビの珍道中をまた読んでみたい……と、思っていたら、今月末に『鉄子の旅プラス』なるものが出るそうな(連載終了後に掲載されたエピソードを収録した単行本らしい)。これは嬉しい。ついでに連載を再開してくれたら、もっと嬉しいんだけど、さすがにそれは無理でしょうな。
ちなみに第四巻で紹介されている「出張版 鉄子の旅」は矢野直美の『おんなひとりの鉄道旅』に収録されている。矢野が同書で紹介している路線のいくつかは『鉄子の旅』の舞台にもなっているのだが、横見とは違う(それでいて通じるところもある)目線で描かれいて面白い。興味のある方は読み比べてみるのも一興かと。