松山城奪取戦~上杉謙信と北条氏康の生山の戦い
永禄四年(1561年)11月27日、武蔵松山城を巡って上杉謙信と北条氏康が争う生山(生野山)の戦いがありました。
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甲斐(かい=山梨県)を拠点に、信濃(しなの=長野県)周辺を手中に治め、さらに北上して来る武田信玄(たけだしんげん=晴信)に狙われる林城(はやしじょう=長野県松本市)の小笠原長時(おがさわらながとき)(7月19日参照>>)や葛尾城(かつらおじょう=長野県埴科郡坂城町)の村上義清(むらかみよしきよ)(2月14日参照>>)らを救援する形で
天文二十二年(1553年)の始まった川中島(かわなかじま=長野県長野市)の戦い(4月22日参照>>)に加え、
河越城(かわごえじょう=埼玉県川越市)の河越夜戦(かわごえやせん)(4月20日参照>>)で北条氏康(ほうじょううじやす)から関東を追われた上杉憲政(うえすぎのりまさ=山内上杉家)から、
永禄二年(1559年)に上杉の家督と関東管領(かんとうかんれい=関東公方の補佐役)並み(6月26日参照>>)の格式を許された上杉謙信(うえすぎけんしん=政虎)は、
第一次(9月1日参照>>)、
第二次(7月19日参照>>)、
第三次(8月29日参照>>)
と3度の川中島を戦う中で、悩みつつ(6月28日参照>>)も、
一方で、北条からの攻撃に悩まされる里見義堯(さとみよしたか)の救援要請に応じたりした(1月20日参照>>)事から、
上杉VS北条は一触即発状態となり、永禄四年(1561年)3月には、謙信自らが上杉家臣団を含む10万もの大軍を率いて、北条の拠点である小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)をはじめとする北条方の諸城を囲み&攻撃しました。
この時、見事、小田原城自体は守り抜いた北条氏康でしたが、謙信が帰国途上にあった4月に
北条方の松山城(まつやまじょう=埼玉県比企郡吉見町)を落とし、城将として上杉憲勝(うえすぎのりかつ=扇谷上杉家)を置いて越後(えちご=新潟県)へと戻った事から、
北条氏康は、その松山城を奪回すべく出陣を決意するのです。
おりしも、この頃の謙信は、信玄との川中島が最高潮の頃・・・
単に川中島と言えばコレを指す…と言われるくらい有名かつ代表的な、
あの
♪鞭声粛々(べんせいしゅくしゅく)~
夜 河を渡る~♪
の第四次の戦いが繰り広げられたのが、永禄四年(1561年)9月10日(9月10日参照>>)。。。
なので、今回の合戦に謙信自らが出陣していたかどうかは微妙なところです。
(もちろん、だからこそ北条は、そのスキを狙った感アリです)
とは言え、川中島を終えて帰国して後、休む間もなく柿崎景家(かきざきかげいえ)を中心とした救援軍を組織して、松山城へと向かわせた事は確か・・・
こうして、松山城の救援に向かった上杉の軍を、その手前=北西に位置する生野山(なまのやま=埼玉県本庄市美里町:生山とも)にて待ち受ける北条軍。。。
ただし、
生野山は古代から開発がなされ、将軍塚をはじめとする古墳群が有名な場所ではありますが、この時代は、現在とは少し景観が違っていたようなので、激戦となった場所をピンポイントで特定するのは難しそうではあります。
生山の戦い・要図↑クリックで大きく
背景は「地理院地図」>>
とにもかくにも、両者は永禄四年(1561年)11月27日にぶつかったのです。
残念ながら、戦いの詳細は不明なのですが、
『桜井文書』や『相州文書』などの残る、当戦いで武功を挙げた者へ発給された感状(かんじょう=評価&成績書)を見る限りでは、
北条方の
桜井左近(さくらいさこん)、
小野藤八郎(おのとうはちろう)、
良知弥三郎(らちやさぶろう)、
太田豊後守(おおたぶんごのかみ)、
小畑泰清(おばたやすきよ)
といった面々が武功を挙げたようです。
★神奈川県立歴史博物館様のサイトに
桜井左近宛て北条氏政感状が掲載されて
いますのでコチラから>>ご確認を…
特に、小野藤八郎への感状(『相州文書』より)には、
「昨日廿七 於武州生山 越国衆追崩 数ヶ所蒙疵 本江討捕之 高名尤感悦候 向後弥至于走廻者 急度可及恩賞者也 仍如件…」
とあり、小野藤八郎が上杉の家臣である本江(ほんごう?ほんえ?ほんご?もとえ?)なる特筆すべき剛の者を討ち取った事がうかがえます。
という事で、どうやらこの戦いは北条方の勝利に終わったと見えますね。
また、別の史料によると、敗戦が確実となった上杉勢は下野(しもつけ=栃木県)方面へと撤退を開始し、最終的に唐沢山城(からさわやまじょう=栃木県佐野市富士町)へと逃走しますが、それを太田豊後守が利根川あたりまで追撃したのだとか。。。
また勝利した北条勢は、その勢いのまま進軍し、高松城(たかまつじょう=埼玉県秩父郡皆野町)を陥落させ、少しばかり勢力圏を広げましたが、残念ながら、本命の松山城を落とす事はできませんでした。
実際の戦いは、この1日で終了しましたが、この後、北条は武田信玄とタッグを組み、謙信は里見との同盟を強め、関東の派遣を巡ってさらなる戦いを繰り広げる事になります。
とは言え、この翌年には、あの織田信長(おだのぶなが)と徳川家康(とくがわいえやす)の間で清須同盟(きよすどうめい)が結ばれ(1月15日参照>>)、
西では久米田の戦い(くめだのたたかい=大阪府岸和田市)で三好実休(みよしじっきゅう=義賢・之康:三好長慶の弟)が戦死して(3月5日参照>>)、畿内の三好勢力にも陰りが見え始める。。。
といった時代の転換期が訪れるわけで、このあと、永禄七年(1564年)の第五次川中島(8月3日参照>>)を最後に、上杉謙信と武田信玄との因縁も大きく舵を切っていく事となります。
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