田園調布界隈を歩く(1):田園調布駅・田園都市株式会社・荏原郡調布村
- 2018/06/25
- 06:28
今回は、大田区田園調布界隈を散策してみます。
田園調布のシンボル的存在の田園調布駅です(シンボルとして復元された駅舎で、実際の駅は地下にあります)。田園調布駅の西側が住宅街、東側が商店街となっています。
現在は駅が地下化されて写真のような通路ができましたが、地下化される以前は東西口の往来は地下道を使ってしかできなかったそうです。
しかし、現在は東西口の通路ができて西の住宅街と東の商店街の行き来がしやすくなりました。
田園調布は都内でも有数の高級住宅街ですが、当初は中堅サラリーマンのための住宅街として整備されました。
田園調布駅そばには当時の面影を残す中堅サラリーマン用の住宅が残っています。
田園調布西口の広場には「田園調布の由来」の碑がありますが、「踏ん張り投資」の東急電鉄(9005):循環型チャートの動向でも書いたように、田園調布は東急電鉄の前身会社である「田園都市株式会社」が開発したものです。
田園調布は、旧島津公爵邸(清泉女子大学本館):城南五山に残された邸宅で書いたような大名の屋敷跡が高級住宅街になった地区ではなく、原野であった土地をイギリスの「ガーデン・シティー構想」をモデルにして新たに造成した新興住宅街です。
「ガーデン・シティー(garden city)」を教科書的に訳すと、「庭園都市」ですが、その「ガーデン(garden)」を敢えて「田園」と訳し「田園都市」としました。
もし「庭園」と訳していたら、「田園調布」ではなく「庭園調布」になっていたかもしれませんが、どうも語呂がよくないので、ここまでブランドが高まらなかったかもしれませんね。
(田園調布の地名の由来)
「田園都市株式会社」が開発整備を行った当時、この地区は荏原郡調布村に属していたため(一部は玉川村)、調布村の「調布」と先ほど説明した「ガーデン」の訳語とした「田園」を合わせて「田園調布」としました。
田園調布が属する大田区は、「大森地域」、「調布地域」、「蒲田地域」、「糀谷・羽田地域」と4つの地域に分けて行政を行っていますが、この「調布地域」の名称はかっての荏原郡調布村に由来するものです。
また、この「調布村」の名称はさらに過去にさかのぼります。
歴史の勉強で習ったかと思いますが、律令時代(7世紀~10世紀)に租庸調という税制が施行されていました。「租」は稲をおさめる義務、「庸」・「調」は絹・布・糸などをおさめる義務でした。
調布村では布をおさめていたので「調布村」となったわけです。同じように、多摩地区にある調布市も布をおさめていたので「調布市」となりました。
(高級住宅街にある商店)
現在の田園調布は写真のように、高級住宅街にふさわしい趣ですが、
歩いていると下の写真のような本屋さんや料理屋があります。
この料理屋は蕎麦屋さんですが、「兵隊屋」という屋号でおもしろいですね。(「兵隊屋」については、『【田園調布】「田園調布の老舗蕎麦屋」と「田園調布の登録有形文化財」』を参照ください)
以前放送していたブラタモリでの解説によれば、中堅サラリーマンの街だった田園調布が突然高級住宅街になった秘密が隠されているのだそうです。
大正12年(1923年)の関東大震災後、多くの人々が下町から地盤の硬い武蔵野台地に移り住むようになりました。
そのなかで、陸軍駒沢練兵場などに近い田園調布には高級軍人が移り住むようになりました。当時の高級軍人はエリート中のエリートでしたから、田園調布のブランドが高まり、その後財界人・政治家が住むようになり、近年はスポーツ選手・芸能人も住むようになりました。
つまり、都心の高級住宅街は、「大名屋敷→高級住宅街」と変遷したのに対し、
田園調布は、「原野を開発→中堅サラリーマンの街→高級軍人が移住→高級住宅街」と変遷していったわけです。
先程の「兵隊屋」の屋号の話に戻りますと、この蕎麦屋さんのオーナーの祖父(創業者)が元軍人だったからなのでした。
(大森区)
さらに歩いていくと、下の写真のような表札を見つけました。
「大田区」ではなく「大森区」と書かれています。
この標識にも深い理由があるのですが、話が長くなりますので、次回にお話します。(続きます)
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田園調布のシンボル的存在の田園調布駅です(シンボルとして復元された駅舎で、実際の駅は地下にあります)。田園調布駅の西側が住宅街、東側が商店街となっています。
現在は駅が地下化されて写真のような通路ができましたが、地下化される以前は東西口の往来は地下道を使ってしかできなかったそうです。
しかし、現在は東西口の通路ができて西の住宅街と東の商店街の行き来がしやすくなりました。
田園調布は都内でも有数の高級住宅街ですが、当初は中堅サラリーマンのための住宅街として整備されました。
田園調布駅そばには当時の面影を残す中堅サラリーマン用の住宅が残っています。
田園調布西口の広場には「田園調布の由来」の碑がありますが、「踏ん張り投資」の東急電鉄(9005):循環型チャートの動向でも書いたように、田園調布は東急電鉄の前身会社である「田園都市株式会社」が開発したものです。
田園調布は、旧島津公爵邸(清泉女子大学本館):城南五山に残された邸宅で書いたような大名の屋敷跡が高級住宅街になった地区ではなく、原野であった土地をイギリスの「ガーデン・シティー構想」をモデルにして新たに造成した新興住宅街です。
「ガーデン・シティー(garden city)」を教科書的に訳すと、「庭園都市」ですが、その「ガーデン(garden)」を敢えて「田園」と訳し「田園都市」としました。
もし「庭園」と訳していたら、「田園調布」ではなく「庭園調布」になっていたかもしれませんが、どうも語呂がよくないので、ここまでブランドが高まらなかったかもしれませんね。
(田園調布の地名の由来)
「田園都市株式会社」が開発整備を行った当時、この地区は荏原郡調布村に属していたため(一部は玉川村)、調布村の「調布」と先ほど説明した「ガーデン」の訳語とした「田園」を合わせて「田園調布」としました。
田園調布が属する大田区は、「大森地域」、「調布地域」、「蒲田地域」、「糀谷・羽田地域」と4つの地域に分けて行政を行っていますが、この「調布地域」の名称はかっての荏原郡調布村に由来するものです。
また、この「調布村」の名称はさらに過去にさかのぼります。
歴史の勉強で習ったかと思いますが、律令時代(7世紀~10世紀)に租庸調という税制が施行されていました。「租」は稲をおさめる義務、「庸」・「調」は絹・布・糸などをおさめる義務でした。
調布村では布をおさめていたので「調布村」となったわけです。同じように、多摩地区にある調布市も布をおさめていたので「調布市」となりました。
(高級住宅街にある商店)
現在の田園調布は写真のように、高級住宅街にふさわしい趣ですが、
歩いていると下の写真のような本屋さんや料理屋があります。
この料理屋は蕎麦屋さんですが、「兵隊屋」という屋号でおもしろいですね。(「兵隊屋」については、『【田園調布】「田園調布の老舗蕎麦屋」と「田園調布の登録有形文化財」』を参照ください)
以前放送していたブラタモリでの解説によれば、中堅サラリーマンの街だった田園調布が突然高級住宅街になった秘密が隠されているのだそうです。
大正12年(1923年)の関東大震災後、多くの人々が下町から地盤の硬い武蔵野台地に移り住むようになりました。
そのなかで、陸軍駒沢練兵場などに近い田園調布には高級軍人が移り住むようになりました。当時の高級軍人はエリート中のエリートでしたから、田園調布のブランドが高まり、その後財界人・政治家が住むようになり、近年はスポーツ選手・芸能人も住むようになりました。
つまり、都心の高級住宅街は、「大名屋敷→高級住宅街」と変遷したのに対し、
田園調布は、「原野を開発→中堅サラリーマンの街→高級軍人が移住→高級住宅街」と変遷していったわけです。
先程の「兵隊屋」の屋号の話に戻りますと、この蕎麦屋さんのオーナーの祖父(創業者)が元軍人だったからなのでした。
(大森区)
さらに歩いていくと、下の写真のような表札を見つけました。
「大田区」ではなく「大森区」と書かれています。
この標識にも深い理由があるのですが、話が長くなりますので、次回にお話します。(続きます)
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