戦争が如何に理性を麻痺せしめ、精神の均衡を失わしめる禍事か。それを示す最も顕著な現象として、交戦相手の国語に至るまでをも憎む──「敵性言語」認定からの言葉狩りが挙げられる。
(Wikipediaより、「キング」改め「富士」)
人類が犯し得る中で、最低レベルの愚行ですらあるだろう。
ある特定の国家ないしは民族が国際法を蹂躙し、掠奪、虐殺、侵略等々、不埒な所業を恣にしたとして。これを批判し、糾弾するのはべつにいい。
さりながら、憎しみ余って行為自体を飛び越えて、彼らの言語までをも排し、攻撃しだすに至っては、これははっきり病的精神状態だ。総力戦時代の黎明、第一次世界大戦の
意図的に感染を助長する勢力さえもあったように思われる。
大正八年、中条精一郎という建築家が筆を執り、「最近米国巡遊所見」なる小稿を
「自分がアメリカに於て著しく感じたことは、ドイツに対する敵意の実に徹底して居ることである。其一例を話すと或る料理店では『ドイツ語の使用を禁ず』と云ふ札迄掛けて励行して居った。或はドイツ語の地名又は料理の名まで取換て『ハンバーグステーキ』を『リバティステーキ』と直したと云ふ風に、非常に徹底したやり方をして居る。
之に比べると日本人は敵を賞めてみたり、敵国の書籍を出版して其長所を紹介して見たり、甚だ徹底しない所がある。…(中略)…是等の為めに米人中に日本の態度を非常にはがゆく思ふ者があり、或は彼等をして日本は表面はあゝであるが実は親独であって裏ではドイツに盡す者であるとの誤解を抱かせた事も多かったやうである」
個人的にはうるせえ黙れ余計なお世話だ傲慢無礼なヤンキーめと一蹴していただきたいシーンであるが、あいにく中条は明かに、米人の態度に同調している。
筆致を辿れば瞭然だ。この建築家は明白に、アメリカの如く徹底的にドイツを排さぬ日本社会の微温的な雰囲気を「恥」だと感じ、責めている。
ルドルフ・オイケンが聞いたなら、さぞかし失望しただろう。
なんとなればオイケンは、そういう日本の不徹底な姿勢をこそ礼賛し、希望を繋いだ人だったから。
「如何に世界戦争が多くの人心を激昂せしめたかはドイツの学問すら敵国側から見て人類共同の生活に有害なりと宣告された事実によく現れて居る、此場合に日本の側ではその様な事のなかった事を十分吾々は承知してゐなければならぬ、日本は戦争に関らずドイツ語の教育が静かに行はれ、東京大学の医科では雑誌にドイツ語を用ゐた事は聞くだに吾々には喜びである。
アメリカは是と違ってゐる、ドイツ語の教育は全部厳重に停止され、劇場ではドイツ語は一口でも声高に話すことが出来なかった、其時アメリカにはドイツ語を母語として話す住民が千万人は居ったのである」
物事を多角的に観察するのは面白い。
同一の現象であろうとも、視点の置き場次第によって評価は斯くも著しく変化する。
オイケンが感動した高徳は、中条にとり唾棄すべき悪徳だったのだ。
(Wikipediaより、中条精一郎)
実際問題、ルドルフ・オイケンが褒めたほど、大日本帝国は神聖なる人間性を獲得した国家ではない。
ただ単純に、当時の日本人にとり、戦争参加の自覚が希薄。どこか白けた、「他人の
だから本気で憎む気にもなれなんだ。この戦争の決着が、皇国の興廃を左右するともむろん思っていなかった。それゆえいくらか心理的に余裕があった。
まず以って、そんなところであったろう。
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