明治のいつ頃からだろう。
囚人どもを閉じ込めておく監獄を、囚人自身の手によって作らせるようになったのは──。
図面引きは兎も角として、レンガを焼いたり木を挽き切ったり、鍛冶に左官に石工に、つまり総じて「現場作業」と分類されるお仕事は、囚徒がこれを受け持った。
これから
近場の既存の獄舎から駆り集められた人員である。
大阪監獄を建てる際には規模が規模であるだけに、京都、神戸は勿論のこと、瀬戸内海を跨いだ先の高松刑務所からさえも人手を調達したと聞く。
(Wikipediaより、大阪刑務所)
司法省の確固たる行政上の方針としてそういうことになっていた、と。大正時代の監獄局長、谷田三郎が説いている。
「監獄の建築に囚人を使役する事は国家経済上は勿論囚人の為めにも各種の技術を習得する上に於て非常な利益である、我国の制度として監獄の建築は常に囚人の労働に俟つ事になってゐる、近くは十万円の予算で建築した大阪裁判所の未決監、其他神戸、名古屋等の監獄も総て囚人の労役で建築したものである。由来建築費の大部分は労働賃金が占めるもので夫を囚人の力に依ると云ふ事は経済上必要なことである、現に大阪に新築した未決監の如きは普通民間の請負建築にすれば三十万円以上を要する、夫が僅に十万円で竣成した」
コストを三分の一以下にカット可能な手段があれば、そりゃあ常習したくもなろう。
(フリーゲーム『Nユ』より)
「因業深い仕事」だと、「怨嗟の的にされたりしてはかなわぬ」と、江戸時代の大工らが獄舎を建てるを厭がって。仕事を選ぶ自由を行使し恬然として憚らぬ、彼らの心をどうにかして宥めんと、幕府側では工事完了と引き換えに、囚徒を一人、娑婆に放ってやっていた、変則的な「禊ぎ」の
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