先日、友人が遊びに来て、その友人と国立ハンセン病資料館に行ってきた。
そこではハンセン病患者に対する差別や偏見の歴史を学ぶことができる。
私たちはものごとを線引し、条件を設けたり基準を設けたりして「どうあつかってもいい存在」「苦しめてもいい存在」というものを作り出してしまう。
その線引や基準はどんなものでも構わないし、各個人や集団によって異なってくる。
その人がハンセン病かどうか。
その人がハゲかどうか。
その人が貧乏かどうか。
その人がブサイクかどうか。
その人が無職かどうか。
その人が犯罪者かどうか。
その人が自分の言うことを聞いてくれるかどうか。
その人が自分の思い通りに動いてくれるかどうか。
その人が自分に協力してくれるかどうか。
その人が正常かどうか。
その人が善人かどうか。
どんなレベルであれ、とにかく私たちは自分なりの基準で「価値のない人間」というものを作り出す。
そして、自分の基準の中で「価値のない人間」に該当する人たちは「どうなってもいい」「どんなに苦しめてもいい」「どんなに傷つけてもいい」「どんなに馬鹿にしてもいい」「どんなに粗末に扱ってもいい」と思っている。
「価値のない人間」を苦しめることはむしろ正義である、善であるとさえ思っている。
この思考パッターンが日常のいざこざ、いじり、いじめ、差別、偏見、弾圧、戦争、虐待、虐殺を生み、何よりも個々人に日々の不安や恐怖や強迫観念を生み出している。
(全部、ああいう人間は価値がないからどう扱ってもいい、という思想、ああいう価値のない人間を苦しめて改心させれば世界はよくなる、という思想、ああいう価値のない人間がいなくなれば世界は良くなる、という思想に基づいているし、私たちはその手の思想を多かれ少なかれ持ってしまっている)
ハンセン病の場合で言うならば、ハンセン病を患った人は「価値のない人間」とされ、「価値のない人間」はどう扱ってもいいとされ、そこでの差別や偏見や隔離政策は「善」や「正義」として正当化され、ハンセン病という病気そのものによる苦しみ以外の苦しみにさらされてきた。
そしてハンセン病の患者自身も人間なのだから「価値のない人間はどうなってもいい」という思考パッターンを多かれに少なかれ持っているはずだ。
仮にその人自身の思考パッターンが「ハンセン病患者は価値がない」「他人から悪しざまに言われる存在は価値がない」「不健康な人間は価値がない」「戦争に協力できない人間は価値がない」「見た目が異常な人間は価値がない」というようなものであった場合、その人自身の「価値のない人間への残酷性や攻撃性」が、ハンセン病を縁として自分自身にたいして発動し、自責や自傷行為や自己否定が始まり、そこから苦しみを受けることになる。
(時として自分がハンセン病であることを理由に、自ら命を絶ったり一家で心中したりすることもあったという)
他人は「価値のない人間はどうなってもいい」という思想に基づいて攻撃してくるが、自分自身も「価値のない人間はどうなってもいい」という同様の思想を共有していると自分で自分のことを見捨てたり攻撃したりするようになる。
自分の中に「異常な人間は価値がない」「価値がない人間はいなくなるべき」という思想があったとする。
(「異常」か「正常」かの基準は、自分自身の勝手な基準か、漠然とした社会の漠然とした基準に基づいて判断している)
その思想を持っている限り、「異常」な人間を見つけると、少なくとも心の中で、あんなやつは価値がない、価値がない奴は消え去ったほうがいい、苦しめて傷つけてもどうでもいい、という冷酷な思いを当然のように起こすことになる。
(ワイドショー等で吊るし上げられている人を見ながら、あんなやつは打首獄門や!と心の中で叫ぶことが日常になる)
そんな自分が何かのきっかけで(自分のモノサシの中で)「異常」な存在になった場合、それまで自分が他人を価値のない人間としてみなし、価値のない人間に冷酷な思いを起こしていたように、自分自身も自分の中で「価値のない人間」となり、「冷酷な思いをぶつけるに値するどうなってもいい存在」になり、「消え去るべき存在」になってしまう。
仮に周囲の人間が何も思っていなかったとしても、自分がそれまで人を区分し、価値のない人間に冷酷な思いを起こしてきたからこそ、「他人は自分のことを異常な人間としてみていて、価値のない人間としてみていて、冷酷な思いを起こしていて、消え去ればいい、苦しめばいいと思っているに違いない」としか思えなくなる。
私たちは自分の中にある思想に基づいて他人を心情を推測し、その推測を紛れもない事実であると誤認し、その思い込みを現実であると誤解してしまうからな。
そうしてこんな自分はダメな人間だぽよ、苦しむべき人間だぽよ、この世から消え去るべき人間だぽよ、というように自分で自分を見捨てて、自己否定が始まり、それによって苦しみ、息苦しさが始まる。
仮に他人が「価値のない人間はどうなってもいい」という思想に基づいて攻撃してきたとしても、自分自身がその思想を共有しておらず、「価値があるとかないとか幻想じゃんけ」「自分や他人を傷つけようとすること自体が苦しみをもたらすでやんす」というような別の思想、冷酷さとは無縁の思想を持っていた場合、自分で自分を見捨てたり、自己否定が起こりようがないため、苦しみは生じない。
(代わりに、あの人は他人を否定することによって自分の「正しさ」や「善良さ」や「正常さ」を確認して、自分はここにいてもいいということを実感したいんだなー、「価値のない人間は否定される」という世界に生きているからこそ、自分の「正しさ」や「善良さ」や「正常さ」を証明していないと不安なんだなー、それだけ息苦しい世界にいるんだなー、という憐れみが生まれてくるかもしれない)
線引して否定する、この思考パッターンが苦しみを生む。
私たちは息をするように、線引して否定しながら生活している。
ハンセン病患者への差別や偏見は、線引して否定するという思考パッターンの一つに過ぎない。
歴史的に長く、規模も大きなものであったため、比較的わかりやすい形で表れているに過ぎない。
仮に、おれっちはハンセン病の方を差別していないぽよ、という素晴らしい自負があったとしても、それは自分自身の線引が「ハンセン病かどうか」ではないだけで、別の形の線引なり基準を持っており、その線引なり基準によって何らかの形で「価値のない人間」というものを規定し、そうして規定した「価値のない人間」に対して冷酷な感情を起こしているとしたら、それはハンセン病患者への差別を生み出した思考パッターンと同じものを持っているということになる。
「線引をして否定する」という思考パッターンはなかなかに根深い。
これが自分に苦しみをもたらしているのならば、この思考パッターンを変えることで苦しみから離れることができるということになる。
そして苦しみから離れるための思考パッターンは「線引をせずに肯定する」、つまり「すべてを受け入れて肯定する、大事にする」みたいな感じのニュアンス的な雰囲気のものになるのだろう。
「線引をして否定する」という思考パッターンがガチムチに根付いている私たちにとっては途方もないことかもしれないが、その方向を心がけていかないと苦しみが延々ともたらされ続けることになる。
声出して切り替えていこうと思う。