サクラソウや自然の景色には重大な欠陥がひとつある、と所長は指摘した。それは無料で愉しめる点だ。自然の愛好は工場に需要をもたらさない。そこで、少なくとも下層階級に関しては自然の愛好をやめさせることにしたのだ。自然の愛好はやめさせるが、交通機関を使いたがる傾向は消さない。
たとえば、近所に農家があったとして、そこからあまった野菜をもらってきて、漬物をつけていたらGDPは一円もカウントされないが、同じその時間にパチンコをやっていたらGDPに計上されて、国家の豊かさが増したことになる。そういう計算しか存在しない社会がだいたいおかしい
保坂和志『いつまでも考える、ひたすら考える』
私たちは基本的にお金をかき集めることに必死なのだけれど、その一つの原因はお金がないと時間を楽しく過ごせないと思い込んでいるからかもしれない。
国は国で、GDPや経済の大きさによって国の価値が規定されるという思考パッターンにはまり込んでいて、それが故に国民には無料で何かを嗜むよりもどうやって金を使わせるかということを必死に考えていて(それは国だけではなく企業も同じか)、その結果、我々がお金を使わなければ楽しい時間は過ごせないと思い込まされているということもあり得る。
ここで日常生活が整う営みを列挙してみる
・早寝早起き
・自炊
・掃除
・洗濯
・散歩
・白湯
・冷水シャワー
・入浴
・筋トレ
・ジョギング
・瞑想
・読書
・整理
・書くこと
そして、日常生活を乱す営みを列挙してみる
・夜ふかし
・暴飲暴食
・飲酒
・ジャンクフード
・ギャンブル
・タバコ
・夜の店
・無駄な買い物(使わないものを買うこと)
・掃除や洗濯をしないこと
日常生活を整えるということは自分を大事にするということで、自分を大事にするということは自分を労るということなので、当然気持ちが良いし、楽しい。そして日常生活を整えて楽しさを享受するために、上記のリストを見ればわかるとおり、大金は必要ない(大抵誰でもできる、ホームレスの方でもやっている人は全てやっているかもしれない)。
一方で、日常生活を乱すためには金がかかる。それはそれで楽しいかもしれないが、その手の楽しさしか知らないと、金がないと時間を楽しく過ごせないと思ってしまうのも当然かもしれない。
日常生活を乱す営みというのは「非日常」ということになる。
どうして私たちは非日常を求めるのかというと、日常が不安で苦しいからで、どうして日常が不安で苦しいのかというと、自分の心が不安で苦しいからだ。
日常というのは基本的に淡々と同じことの繰り返しだ。ルーティンだ。
すると何事も自然にできるようになり、全てが「いつもの感じ」になり、周囲のものに煩わされなくなってくる。
そうして周囲のものに注意が奪われなくなると、自分の心が見えてくる。自分の内面が見えてくる。
(だから禅僧は日々単調な日課に励み、心を見えやすい状態にし、坐禅を組むのかもしれない)
そしてその心が不安や苦しさでいっぱいになっていて、不安や苦しさに満ちている心を見ること自体が苦痛で、その苦痛を誤魔化したくて、何らかの刺激が欲しくなる。
やったことがないことをやってみたくなる。
行ったことがないところに行ってみたくなる。
会ったことがない人に会ってみたくなる。
持っていないものを手に入れたくなる。
刺激物(中毒的有害物質)を身体に取り入れたくなる。
このような誤魔化しはちゃんとやったほうがよくて、ちゃんとやることで普通に飽きてくる。
非日常をきちんとやって繰り返すことでそれが日常となることがわかり、結局は誤魔化しがきかないということがわかってくる。
私も20代の時に取り憑かれたように国内外を放浪したが(つまり自分を誤魔化すことにきちんと取り組んだが)、行ったことがないところに行きまくるという非日常を繰り返した結果、その非日常は日常となり、しまいには旅行自体に特段の価値を見出すことがなくなった。
それは着ない服を買い漁ることもそうだし、映画やアニメを見まくることもそうだし、ゲームも漫画もそうだし、酒を飲みまくることもそうだし、とにかく非日常に飽きて、非日常を追求することが不毛であるということが段々とわかるようになってきた。
そして日常を整える方向、自分をなるべきごまかさずに見つめる方向に舵をきることができるようになってきた。
そのためにはやはりちゃんと非日常、つまり自分の欲望にもちゃんと付き合って上げる必要がある。禁欲をして欲を抑圧し、欲を起こす自分を否定したり、攻撃したりしても欲は消えない。
非日常を追い求める欲は、ちゃんと非日常を追い求めてその欲を満たしてあげて、いやーもういいや、きりないわ、というところまでいくと自然とぱったりと消える。
そうして段々と自分が楽しめる非日常が減ってきて、日々繰り返す日常に重点を置くことができるようになる。
しかし、それでも自分の心を見ることは苦しさをともなうことでもあるので(特に自分のことを純度100%の清廉潔白な人間、純度100%の正しい人間と信じ込んでいる人は、自分の心がクリーンなセルフイッメージにそぐわない感情や思いに溢れているので、それを受け入れたくなくてより苦しさが増すので)、非日常も時には必要になってくる。
非日常的な欲望は自分の心を見たくないための誤魔化しとして認識した上で、ある種の麻酔薬として活用することもできる。
麻酔というのはあくまでも手術をするための補助的な手段であり、麻酔を接種すること自体が目的ではない。
いきなり醜い自分、邪悪な自分といった都合の悪い自分と直面するのは危険すぎる。私たちは悪は徹底的に攻撃し、苦しめて消し去るべきだという思考パッターンがあるために、都合の悪い自分が見えた途端に自分を攻撃して、自分で自分を苦しめてしまうからな。
日常に軸足を置けるようになってきたら、非日常という麻酔薬を時としてうまく活用しながら自分の心を善良なところも邪悪なところも含めて徐々に受け入れていく手術に取り掛かる必要がある(この受け入れるというのは邪悪な部分を正当化して受け入れよとするのではなく、自分には確かに邪悪な部分がある、というように邪悪な分を邪悪な部分として受け入れるということだ)。
そうして自分の心を受け入れていく範囲が広くなればなってくるほど、日常において自分の心が見えても苦しくなくなってくるので、非日常の必要性が薄まってきて、非日常を求めることがなくなってきて、特に刺激的ではないけれど穏やかな日常が実現されてくる。そして非日常を求めない分だけ、経済的にも精神的にも余裕ができやすくなる。
声出して切り替えていこうと思う。