あなたの症状は、あなたが死について考えているからではなく、死についてどういう考えをしているかが原因となっていることです。
M・スコット・ペック『平気でうそをつく人たち』
死というのは人間が諸行無常の理に便宜的にレッテルを貼っているものでしかない。
変化し続けるという過程の中で、肉体が生じ肉体が朽ち果て消失していく。
その一連の変化に人間が便宜的に区切りをつけ、その境なり区分を便宜的に「死」と呼んでいるだけでしかない。
今ある肉体はいずれ朽ち果て消滅していくという事実。
この事実には本来的に良いも悪いもない。
それは無色透明な事実にすぎない。
だがしかーし、私たちは本来無色透明な事実に対し自分なりの色付けをし、意味付けをしてしまう。
その色付けや意味付けは単なる自分だけの幻想にすぎないのだけれど、その幻想を事実や真実と錯覚し、そうした自分なりに色付けを施した倒錯した世界、無色透明な事実とはかけ離れた世界の中で一喜一憂している。
自分は自分なりの思い込みの中でしか生きられず、自分の思い込みは自分自身にとっては紛れもない現実としか映らないため、どうしても錯誤してしまうのは幾分仕方ないのかもしれない。
とにかく事実として自分の肉体はいずれ朽ち果て消滅していく。
それに伴い、その肉体に依存しているものも全て1つ残らず自分の手元を離れていく。
金、財産、地位、名誉、肩書、知識、能力、美貌、筋肉、思い出、経験、友人、恋人、家族、同僚、ファッション、マンション、パッション、パッションフルーツなど、肉体がなければ使うことができないもの、肉体がなければ保持しておくことができないもの、肉体がなければ会って時間を過ごすことができない人、今の自分を自分として規定してくれていると思われるもの、全てが肉体の衰退と消滅とともに失われていく。
まじでぴえん。
このようなことが薄々わかっているからこそ、私たちは永遠に自分の存在を証明してくれるようなものを手に入れようとする。
歴史的に名前を残せるよう偉業を成し遂げようとする、多額の寄付をすることによって神社仏閣に自分の名前を刻み込もうとする、自分の子孫を自分の分身(と錯覚して)を残そうとする。
しかし、自分の名前や偉業や子孫についての記憶や経験も全て肉体に依存し、肉体の衰退と消失とともに消え去っていく。
これは厳然たる無色透明な事実であって、そこに良いも悪いもない。
この事実を受け入れて、この事実を大前提して生きていくしかない。
(この事実をどうにかしようと超自然的な神や仏や自称聖人(この手の神や仏や聖人は自分にとって都合良く解釈された自分なりの神や仏や聖人でしかない)に祈ってもどうにもならへん、どれだけ宗教団体に献金をしてもどうにもならへん、期待しどうにかしようとする分だけ自分の生活が破綻し、人間関係が崩壊し、ただただ苦しむだけさかい)
自分の肉体はいずれ朽ち果て消滅する。そして、自分の肉体に依存しているものも全て自分の手元を離れていく。
この事実にどのような色付けをし、この事実をどのように捉え、実際にどのような世界(自分の色付けや捉え方)の中で生きていくのかというのは、完全に個々人の自由なのだけれど、このような色付けをしたら苦しむことになる、このような捉え方をしたら苦しみが減る、このような色付けをしたら幸福になる、このような捉え方をしたら不幸になるという原則はある。
結局、私たちは自分の色付けの中でしか生きられず、自分の色付けが自分の世界になっていくのだから、自分の色付けを幸福なものに変えていけば自分の世界は幸福なものになり、自分の色付けを不幸なものに変えていけば自分の世界は不幸なものになる。
幸福な世界の中では、心は穏やかになり平穏になり、落ち着いてくる。
不幸な世界の中では、心は強迫観念と不安と恐怖に満ち溢れ、荒れ狂ってくる。
そして幸福な世界は、自分自身を大事にすること、自分の身の回りのものを大事にすること、身近な人を大事にすることによって立ち上がってくる。
一方で、不幸な世界は、自分自身を粗末にすること、自分の身の回りのものを粗末にすること、身近な人を粗末にすることによって立ち上がってくる。
この原則も事実であり、どうしようもない。
この原則に沿って生きようとするか、この原則を無視して(自分は正しいという前提に立ち、自分なりの原則に沿って)生きようとするかは完全に個々人の自由だ。
私もかつて自分自身を粗末にし、身の回りのものを粗末にし、人を見下すために(人を粗末にするために)生きてきた時期があった。そしてその時期は本当に息苦しかったし、心身が荒みきっていた。
そして未だにその時の癖は抜けきれてはいないのだけれど(粗末にする、というのは癖や習慣でしかないため、徐々に変えていくことができる)、少しずつ自分自身や身の回りのものや身近な人を大事にする方向へシフトしてくと、本当に自分の心身や身の回りのことが落ち着いて、整ってくる、乱れても冷静に対処できるようになってくる。
という実体験を踏まえると、原則に沿った生き方を心がけたほうが無駄な苦しみ減り、賢明であるように思う。
繰り返すが、どのような前提、色付け、捉え方、原則で生きるかは各個人の自由だ。
自分なりに色々と試行錯誤してみるのは大事になことだと思う。
その際にどうやっても苦しみの無限ループにはまり込んでいると感じたら、上に述べた原則を思い出してしばらく試してみると良いかもしれない。
声出して切り替えていこう。