上古への情熱

徒然なるままに上古に想いを馳せて書きつくる備忘録

継体持統⑩:天智・天武は舒明天皇の子ではないかもしれない説

推古天皇崩御時に粛清された泊瀬王及び義兄弟の高向王には3人の遺児、葛城王、多智奴女王、漢皇子がいた。宝皇女とともに3人は生き残ったのか?

628年推古天皇崩御時にあったこと

  1. 推古天皇崩御時の政変についてまとめると以下の通りとなる。
  2. 推古天皇崩御を契機に、①蘇我馬子の兄弟の境部摩理勢、②聖徳太子第二皇子の泊瀬王、そしておそらくは、③泊瀬王の義兄弟の高向王の3人が排除された。皇嗣筆頭格であった茅渟王推古天皇崩御までに排除されたと見られる。
  3. 結果、蘇我蝦夷蘇我本宗家の地位、大臣家家督を獲得聖徳太子第一皇子の山背大兄王は上宮王家筆頭の地位を獲得③田村皇子が高向王妃宝皇女を娶って舒明天皇として即位した。
  4. 通説も日本書紀の記述も「田村皇子と山背大兄王皇嗣を争った」ことになっているが、大臣家蘇我馬子の後継)②執政王家(聖徳太子の後継)③祭祀天皇家敏達天皇推古天皇の後継)それぞれで争っていたと考えると理解しやすい。

泊瀬王と高向王の遺児

  1. 泊瀬王と高向王の遺児、葛城王、多智奴女王、漢皇子の3人は、宝皇女=皇極天皇と共に生き残った可能性がある。
  2. 年齢を分析してみると、聖徳太子(574年生まれ)の第二皇子である泊瀬王は590年代生まれで594年生まれの皇極天皇と同世代である。
  3. 従って、遺児3人は天智天皇、間人皇女、天武天皇と同じ世代と解釈できる。
  4. さらには628年当時はいずれも年齢一桁代であり成人ではない葛城王など名前が幼名でないことから、628年は生き残って成人になったと解釈できる。
  5. 人数も性別も世代も同じとなると、誰でも「ひょっとして」と思うだろう。

葛城王天智天皇

  1. 泊瀬王と佐富女王の息子は葛城王という。
  2. 天智天皇の名、葛城皇子と同じ名前である。
  3. 生年は不明であるが、聖徳太子が574年生まれであることから、第二皇子泊瀬王の子としては620年前後以降生まれとなり、天智天皇の生年626年と整合する。
  4. 同世代の同名王であり、同一人物の可能性はある。
  5. ただし、日本書紀天武紀に「葛城王」の薨去記事があり、どの葛城王かはわからないが、天智天皇と同世代の葛城王はいたことにはなっている。

多智奴女王=間人皇女説

  1. 泊瀬王と佐富女王の娘の名は多智奴女王という。
  2. 泊瀬王の娘が宝皇女=皇極天皇に引き取られて、皇極天皇の父の茅渟王の智奴の名を継いだという解釈は可能である。
  3. 天智天皇の姉妹で孝徳皇后の間人皇女に、智奴の別名は見られないが、皇極天皇の娘と伝えられるのは間人皇女一人であり、多智奴女王が間人皇女と解釈可能である。
  4. 多智奴女王は穴穂部間人皇女の孫であり、「間人」の名を継いでいたと解釈できる。

漢皇子=天武天皇

  1. 高向王の子の漢王子が天武天皇ではないか説は、巷でも数多いが、納得できる様な説明はなかなか無い。
  2. しかし、泊瀬王と高向王の遺児3人から選ぶとすると、消去法で漢皇子が天武天皇となる。

泊瀬王と高向王の遺児3人を天智天皇、間人皇女、天武天皇とする解釈は色々説明できて楽しいが、日本書紀の否定に繋がり、危険な解釈である。

空想と片付けておくのが無難ではある。

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