人の不幸の上に神の国は絶対に築けない

 どんな宗教でも間違いを犯すことを知ってほしい

 旧統一教会に対して、宗教法人法に基づく「質問権」を年内に行使することを永岡文部科学大臣が表明しました。この調査で、解散命令に該当しうる事実関係が認められた場合には、裁判所に対して教団の解散命令の請求がおこなえるわけです。

 面倒な手続きに思えますが、粛々とすすめて、一日も早く解散命令が出てほしいと思います。

 ところで、このブログでは、キリスト教の歴史を取り上げています。一見、統一教会とは関係ない歴史を見ているのですが、それは「どんな宗教でも間違いを犯す」ということを知ってほしいからです。

 宗教というのは基本的に神を伝える手段であるため、完全なる神と同じように宗教も完全なものと思いがちですが、それは全く違います。宗教は人間が作ったものであるがゆえに、間違いだらけなのです。

 その間違いの結果が悲惨な歴史として現れます。

 歴史上、キリスト教ほど多くの人を殺した残酷な宗教はなかったと言っていいと思います。

 十字軍はその一例ですが、何よりも多くの人を殺したのは新大陸の植民地化でした。

 中南米の植民地化が招いた悲劇

 イベリア半島(スペイン)からイスラム教勢力を排除したカトリック両王の妻イザベラ女王の支援によってコロンブスが新大陸に到達すると、間もなく、スペインによるカリブ海諸国の植民地化が始まります。

 カリブの島々でのんびり暮らしていた先住民たちはスペイン人たちに捕まり奴隷労働に従事させられます。キツイ労働に慣れない人々は次々と死んでいき、そこにヨーロッパから持ち込まれた天然痘によって大半の人が死ぬという状態に陥りました。

 スペイン人たちは奴隷を求めてアメリカ大陸に渡り、やがてアステカ帝国やインカ帝国の支配層を皆殺しにして滅ぼし、中南米全域を支配しました。

 そこで発見した銀鉱山などの開発に奴隷化した先住民を用いたのですが、特に悲惨だったのはボリビアのポトシ銀山でした。

 標高4000mを超える高地にある、当時、世界最大の銀山では、数多くの先住民が奴隷労働に従事させられ、多くの人が劣悪な環境で次々に死んでいきました。その数は合計で数百万人に及ぶとも言われています。

 一方、このような銀山から算出する膨大な量の銀はヨーロッパ経済を潤し、スペインを「太陽の沈まぬ帝国」と呼ばれるほど、他に類のない大帝国に押し上げたのです。

 キリスト教にも虐殺の大きな責任がある

  これがキリスト教の過ちなのか、信者とは名ばかりの強欲な人間の過ちなのかは議論があると思います。しかし、こうした無慈悲な植民地支配によって生み出された富が壮麗なカトリックの教会群の建設に使われ、やがては世界にキリスト教を伝える資金になったのも事実なのです。

 それを黙認したキリスト教の聖職者たちにも植民地支配と虐殺の大きな責任があるのは間違いありません。

 もしこれを「神のためにしたことだから許される」と考えるのなら、神を知らない愚か者としかいいようがありません。

 人の不幸の上に神の国は絶対に築けないということを信仰を持つ人たちは知るべきです。

 先住民を擁護する活動を続けた司祭

 ただし、キリスト教はこうした過ちを生み出しただけではありません。

 歴史上犯されてきた人間の過ちに対しては、必ず反対する動きが起こります。

 そこに人間の持つ善の心が働くのです。

  やがて、スペイン人の無慈悲な植民地支配に対して疑問を持つ人が現れます。

 例えば、司祭であり植民者でもあったスペイン人のバルトロメ・デ・ラス・カサスという人がいます。

 彼は、当初は新大陸で植民者として領地を持ち奴隷を使っていたのですが、スペイン人たちが奴隷を虐殺するのを見て疑問を持ち、回心します。

 ラス・カサスは、所有する土地を返却し、奴隷を解放すると、先住民の保護に取り組みました。その活動はスペイン王室をも動かし、先住民を擁護する法律もできたのです。

 やがて彼は、先住民の弾圧を批判する文書「インディアスの破壊についての簡潔な報告」を発表。この文書によってラス・カサスは、近代の先住民擁護運動の先駆者として高く評価されるようになりました。

 ラス・カサスも重大な間違いを犯した

 今日、キリスト教が世界宗教として評価されるようになるまでには、こうした歴史的な数多くの間違いと、それを正す動きがあったことを忘れてはなりません。

 もう一度言いますが、宗教団体が間違いを犯すのは不完全な人間が動かしているのですから仕方がないのです。

 大事なのは、間違いに対して疑問を持ち、反対の声を上げることです。それこそが、真の信仰なのではないでしょうか。

 ちなみに、ラス・カサスも重大な間違いを犯しています。

 先住民を奴隷化しないと労働力が不足してしまうという植民者の批判に対して、「それならアフリカの黒人を奴隷にすればいい」と言ってしまったのです。

 アフリカの人々が数多く連れてこられ、奴隷化されているのを見たラス・カサスは、無知から出た自分の言葉を後悔したと伝えられています。

salamanca6s.jpgコロンブスも学んだスペインのサラマンカ大学の正面装飾



にほんブログ村 哲学・思想ブログ 家庭連合 批判・告発へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句(新宗教)へ
にほんブログ村

 

統一教会も作った十字軍の忌まわしき歴史

 映画キングダム・オブ・ヘブンの十字軍

 前回、映画「アレキサンドリア」の話をしましたが、今回も映画の話をします。

 2005年に製作された米国映画「キングダム・オブ・ヘブン」は、十字軍と聖地エルサレムをテーマにしており、キリスト教とイスラム教の関係や宗教を考えさせられる興味深い内容でした。

 十字軍と言えば、1973年に統一教会が組織した「世界統一十字軍」が思い起こされます。

 本来は、世界の献身者を米国に集めて創設した伝道組織でしたが、日本の各地方教会にも同じ組織が作られました。献身者は必然的にそのメンバーとなり、車体に世界統一十字軍と書かれたマイクロバスを使って、伝道や経済復帰に走り回ったものです。日本では、ほぼ経済活動に明け暮れましたが…。

  私は十字軍について名前くらいしか知らなかったので、「キングダム・オブ・ヘブン」という映画をたまたま見て、キリスト教徒が組織した十字軍というものに非常に興味を惹かれました。

 主演は人気俳優のオーランド・ブルーム、監督はエイリアンなどで有名なリドリー・スコットですから、普通の映画としてみても非常に面白い仕上がりになっています。タイトルの宗教臭さが、少し敬遠される要因になるかもしれませんが…。

 聖地奪回のために立ち上がったキリスト教徒たち

 そもそも十字軍は、1095年にローマ教皇がキリスト教徒に対して、イスラム教徒に対する軍事行動を呼びかけたのが始まりとされています。教皇は、多くのキリスト教徒が行動を起こすようにするため、参加者は「罪の償いが免除される」としたのです。

 これによって、多くのキリスト教徒が軍団を組織しイスラム教徒が住む地域へ侵攻。住民を皆殺しにするなど暴虐の限りを尽くしました。

 当初の彼らの目的は、聖地エルサレムの奪回でした。各地でイスラム勢力と戦った十字軍は、1099年、ついにエルサレムを占領しました。そして、この地にエルサレム王国など複数の十字軍国家が誕生したのです。

 しかし、イスラム教徒たちも黙っていませんでした。

 長年に渡り十字軍とイスラム軍の戦いが断続的に行われた後、1187年、アイユーブ朝の創始者でありイスラムの英雄であるサラディン(サラーフッディーン)によってエルサレムはイスラム勢力の手に落ちたのです。

 偉大なイスラムの英雄サラディン

  映画は、このエルサレム陥落の前から始まります。

 主人公は妻が自殺したことで苦しみ、妻の罪を贖えるということで十字軍に参加します。

 エルサレムに着いた主人公を待っていたのは、キリスト教軍を率いる好戦的な指導者たちを抑えるのに苦心するエルサレム国王と、エルサレム奪還を目論むサラディンでした。

 この映画で印象的なのは、キリスト教軍の指揮官たちの自信過剰で好戦的な性格と、イスラムの指導者サラディンの冷静な戦略家ぶりです。

 サラディンに関しては様々な逸話があるのですが、神の名に恥じぬよう正々堂々とした戦いを行い、破れたキリスト教徒の捕虜も丁重に扱ったというのです。女子供まで殺したという十字軍のキリスト教徒たちとは大違いです。

 このため、キリスト教徒の中にもサラディンを称える者が多かったようで、第二次大戦後にイギリスで作られた戦闘装甲車には「サラディン」という名前が付けられました。

 キリスト教軍が破れたヒッティーンの戦い

 エルサレムで国王が病死すると、キリスト教軍の指揮官はサラディンを挑発するため、人質になっていた彼の妹を殺してしまいます。

 そして、ついにキリスト教軍とサラディン軍が衝突。有名なヒッティーンの戦いが起こります。この戦いでキリスト教軍は壊滅し、エルサレムにサラディン軍が押し寄せます。

 主人公はエルサレムに残る一般のキリスト教徒たちに武器を持たせて懸命に戦いますが、とても守りきれません。

 そこで、サラディンと直接交渉を行い、エルサレムを明け渡す代わりにキリスト教徒たちがエルサレムから無事に退出するのを認めさせるのです。

 キリスト教の神もイスラム教の神も同じ

 十字軍の歴史から理解できる重要なポイントの一つは、「信仰のためなら何をしてもいい」わけではないということでしょう。

 元を正せば、キリスト教の神もイスラム教の神も同じです。ですからイスラムでも聖書は経典として認めています。

 キリスト教の側から見れば、「十字軍の行いは聖戦であり、例え多くの人を殺しても、神のためであるのだから許される」と考えるのでしょう。

 しかし、イスラム教側から見れば、「十字軍は多くの同胞を殺す許されざる侵略者であり、彼らに対抗する兵士は神が守ってくださる」と考えるでしょう。

 一つの神が、キリストとイスラムによって引き裂かれているわけです。

 このような状況を作り出したのは、キリスト教会とその権力を利用しようとする政治勢力にほかなりません。

 この時代は宗教や信仰を深く考えることが少なかったため、宗教指導者が命じたことを真に受けて多くの人が行動を起こしたのです。その結果、侵略されたイスラム教諸国はもちろん、十字軍に参加した人々も辛酸を舐めました。

 しかも、十字軍に参加した人々の多くが命や人生を失ったのに、信仰が強くなったわけでもなく、ほとんど得るものはなかったのです。

 信仰とは何か?

 映画の主人公は、虚しく砂漠に散った十字軍の戦士たちやエルサレムを去らねばならぬキリスト教徒の人々を見てサラディンに質問します。

「エルサレムの価値とは何か?」

 サラディンはこう答えます。

「無であり、全てでもある」

 これは「信仰とは何か?」という質問への答えでもあります。

 つまり、答えを他に求めるのでなく「自分でよく考えろ」ということでしょう。

   映画の結末では、主人公の勇敢な戦いがキリスト教世界に伝わり、第3回十字軍を指揮したイングランド王リチャード1世が彼を探しに訪れます。

 しかし、主人公は「そんな男は知らない。私はただの鍛冶屋だ」と言って去っていったのです。

 私は、この主人公の姿を統一教会の献身者たちに重ね合わせました。統一教会の無茶な野望に利用され、神も正義も見いだせない戦いを続けた結果、疲れ果て、虚しさのうちに脱会した人たちです。

 いまだに戦っている多くの献身者たちが、真実に目覚め、統一教会という虚構のエルサレムから離れることを願っています。

kingdamofj.jpg

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 家庭連合 批判・告発へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句(新宗教)へ
にほんブログ村

キリスト教にも暗黒の歴史がある

 宗教を知らない日本人の問題

 日本では、キリスト教というとなんとなく、洗練された上品な宗教というイメージがありますね。

 ですから、クリスマスのみならず、バレンタインデー(聖バレンタインにちなんだキリスト教の祭り)、カーニバル(謝肉祭)などの行事は何の抵抗もなく受け入れ、信者でもないのにお祭り騒ぎに加わるのが当たり前になっています。

 これは、明治維新後に日本に入ってきたキリスト教が主に上流階級に普及したためだという説があります。たぶん、本当でしょう。

   一方、日本には仏教徒が多いにも関わらず、花祭り(灌仏会)などがほとんど無視されているのは、明治維新後の神仏分離や廃仏毀釈によって仏教が影響力を失い、既存教団は葬式仏教化しているためだと考えられます。

 このようにイメージのみで人が動くのは仕方がないとしても、宗教の本当の姿を見ようともしない日本の状況は残念だと思います。

 日曜日のTBSの番組サンデージャポンでは、タレントの鈴木紗理奈さんが「日本人は宗教のことを知らないから、それを教えたり、学んだりする必要がある」というような趣旨の発言をしていました。

 まったくそのとおりですが、「先ず隗より始めよ(言い出した者から実行せよ)」という言葉が当てはまるのではないでしょうか。

 キリスト教とイスラム教のイメージは正しいのか?

 現在の世界ではキリスト教とイスラム教の対立が激しくなっています。

 日本人の多くはキリスト教徒ではないものの、キリスト教によって築き上げられた欧米の文化の洗礼を受け、キリスト教圏のメディアの影響を強く受けているため、キリスト教は正しく、イスラム教の考えは遅れていて危険というイメージを持っているのはないでしょうか。

 一部のイスラム教の国を見るとそのイメージが間違っているとは言えませんが、そういう先入観ですべてを見てしまうのは危険だと思います。

 そもそも、キリスト教というのは上品で理性的な宗教なのでしょうか?

 2009年に公開された「アレキサンドリア」というスペイン映画は、昔のキリスト教徒と人間の理性と学問を守ろうとする人々の対立を描いた興味深い内容でした。

 映画の舞台は、4世紀のエジプトのアレクサンドリアです。この時代、ローマ帝国においてキリスト教の国教化が進められますが、アレクサンドリアには世界中(ヘレニズム世界)から優れた学者が集まり、膨大な科学や哲学などの知識の集積が行われていました。これらの学問の成果は世界最大のアレキサンドリア図書館に収められていたのです。

 この地に女性天文学者ヒュパティアという人がいて(実在の人物)、当時常識とされていた天動説を疑い、地動説をどうにか証明できないかと試行錯誤していました。

 しかし、勢力を増すキリスト教徒たちは、論理的に証明できないいかがわしい話で人々を惑わし、キリスト教の教えに反する考え方を攻撃していました。

 そして、ついにキリスト教徒たちは実力行使に踏み切り、科学的な学問を学ぶ人たちを襲い、脅迫します。力のない研究者や科学者たちは脅しに負けてしまいますが、ヒュパティアは「真実は科学的に証明できる」という信念を曲げず、自説を撤回しませんでした。

 このため、彼女は殺され、アレキサンドリア図書館は膨大な蔵書とともに灰燼に帰してしまったのです。

 主役の女優は、ハムナプトラなどで知られるレイチェル・ワイズですが、凛とした佇まいがかっこよかったですね。一方で、狂信的なキリスト教の恐ろしさは強く印象に残りました。

 キリスト教世界は、このような行為により科学の光を失った暗黒時代に入ります。そのままであったなら、現在のような理性的なキリスト教世界は出現しなかったでしょうし、科学技術の進歩もなかったでしょうね。

 科学を失った世界を救ったのはイスラム教

 映画はこれで終わりですが、歴史は更に動きます。

 6世紀になるとローマ皇帝はアテネにあった二つの大学(プラトンやアリストテレスが創設)を閉鎖し、科学や哲学についての学びの場は完全になくなります。これも大きな勢力を持つキリスト教に忖度した結果でした。

 すると、大学で教鞭をとっていた学者たちは所蔵していた膨大な書物とともにササーン朝のペルシャに向かいます。ここに大学や図書館があったからです。

 7世紀になると、ササーン朝はイスラム教徒の勢力に滅ぼされてしまったのですが、イスラムの人々は学問を排除しませんでした。ただ、アテネから運ばれた膨大な知識がつまった書物を手に入れても、ギリシャ語で書かれていたため読むことができなかったのです。

 「なんとかして本を読みたい!」というイスラムの人々の熱意は、大々的な翻訳運動を起こしました。

 こうして、プラトンやアリストテレスにつながるギリシャの科学や哲学は滅ぶことなく、イスラム世界に伝わり、イスラム教徒の偉大な思想家や科学者を誕生させることとなるのです。

 やがて、翻訳された書物はイスラム世界に広がり、イスラム教徒が占領していたイベリア半島(現在のスペイン)にも到達します。

 11世紀になると、スペイン人のレコンキスタ(国土回復戦争)によって、トレドにあったイスラムの拠点が陥落します。ここに、アテネからペルシャに伝わり、イスラムの言語に翻訳された書物がたくさんあったのです。

 これを手に入れたカスティーリャ王(当時、まだスペインはない)が、本をラテン語に翻訳することを命じます。こうして、地中海世界を一周回ってギリシャの叡智はキリスト教世界に戻ってきたわけです。

 話が長くなりましたが、歴史を少し見ることで、キリスト教やイスラム教に対する感じ方が変わるのではないかと思います。

 野蛮なイスラム教徒と理性的なキリスト教徒という現在のイメージは、時代を遡れば全く逆になってしまうのですから…。

sanseba6s.jpg 暗黒の世界に光差す。サン・セバスチャンの海岸

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 家庭連合 批判・告発へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句(新宗教)へ
にほんブログ村

 

そもそもキリスト教とはどんな宗教なのか?

 海外でキリスト教に疑問を感じた

 旧統一教会は、霊感商法や先祖解怨など、土着信仰のような行為によって、何の宗教なのか分かりづらくなっていますが、キリスト教系の新興宗教であることは間違いありません。

 なので、私が教会で活動していた時には、教会の原理を書いた本とともに聖書もよく読んでいました。

 ただ、聖書の内容の解釈は教会が決めたように教えられ、そこに疑問を持つこともなく受け入れていたのです。

 しかし、海外の教会を訪ねる旅をしていた時に、現地でのキリスト教の歴史や現状をつぶさに見て、様々な疑問が沸いてきました。

 そこで、「キリスト教とはなんだろう?」という興味を持ったのです。今回は、このことを少し考えてみたいと思います。

 キリスト教はイエス・キリストから始まったわけですが、本人がキリスト教を作ったわけではありません。

 新約聖書の内容からイエスとは何者かと考えると、天啓を受けてユダヤ教の改革に立ち上がったユダヤ人の若者とみることができます。

 当時、エルサレムがある現在の中東はローマ帝国の支配下にあり、そこでユダヤ人たちは自身の宗教を守りながら生活していたわけです。しかし、どんな宗教でも時間の経過によって環境に慣れ、教えは形骸化、硬直化してしまいます。

 イエスはそういうユダヤ人とユダヤ教にノーを突きつけます。神とは何か、神と人との関係はどのようにあるべきかを訴えるのですが、豊かな生活を手に入れたユダヤ人の実力者たちは、聞く耳を持ちません。

 結果、イエスの弟子たちは社会の底辺で苦しんでいる貧しいユダヤ人が中心になりますが、少しずつその勢力を拡大していきます。ユダヤ人の実力者たちは危機感を持ち、イエスが危険思想を広めているとして排除しようとします。

 こうしてみると、イエスはイスラエルの民であるユダヤ人を導く預言者、つまり、箱舟を作ったノアやエジプトからユダヤ民族を救い出したモーセのような存在と考えられます。あるいは、カトリックからプロテスタントの出現のきっかけを作ったマルチン・ルターのような改革者であるとも言えます。

 キリスト教ではイエスは神と同じ

 しかし、キリスト教のほとんどの宗派ではキリストは神の子であり、神と同一と考えています。

 これは何かおかしくないですか?

 絶対的存在のはずの神が、なぜ捕らえられて殺されなければならないのでしょうか?

 「人間の罪を贖うためだ」などと、訳がわからない理由をつけていますが、私は、キリスト教会という組織が自分たちの権威を極限まで高めるために、どうしてもキリストを神の子としたかったのだと思うのです。

 実際、キリストは神ではないと主張する聖職者も現れました。

 起源300年頃、エジプトのアレキサンドリア教会のアリウスという司祭が「イエスは神ではなく、人の子だ」と主張しました。この主張は、教会の内紛にまで発展し、325年に聖職者を集めた第1回ニカイア公会議が開かれます。

 この時、アリウス説に真っ向から反論したのはアレキサンドリア教会のアタナシウス助祭でした。彼は「イエスが神と同一であるから、イエスに対する信仰が成立するのだ」といいます。

 これまた、「ちょっと違わない?」と思いますけどね…。

 さらにアタナシウスは、「神と、その子であるイエスと、母マリアに子を宿した精霊の3つとも神である」という三位一体説を展開します。

 ええ、「キリスト教は唯一神ではないの?」と思っちゃいますね。精霊まで神なら、あちこちに神がいることになるのでは…?

 しかし、この公会議で三位一体派が勝利し、イエスを人の子と言うアリウス派は異端になったのです。その後の公会議で三位一体説は正式に認められ、カトリックの常識になりました。

 キリスト教を世界宗教に押し上げた人物

 イエスが何者かはおいておいて、イエスが自分の考えを伝えた相手はユダヤ人でした。当たり前です、ユダヤ人でユダヤ教徒なのですから。

 ところが、キリスト教はすべての人類に対して布教を進めています。なぜでしょう?

 それは、イエスがユダヤ教の改革者から、神として祀り上げられることになる大事件があったからです。

 イエスの死後、残された弟子たちはイエスの教えをユダヤ人の社会に広めていましたが、これを迫害する勢力もいました。

 その中に、一人のユダヤ人迫害者がいたのですが、彼が突然改心しイエス・キリストに帰依したのです。パウロという人です。

 しかし、それまで迫害を受けてきたイエスの弟子たちは、彼を受け入れませんでした。パウロは仕方なく、彼らとは別のグループを作ってイエスの教えを広めます。彼はローマの市民権を持つユダヤ人のエリートだったため、宣教に使う言葉はユダヤ人の言葉ではなく、グローバルなローマの公用語でした。

 自然と、伝道の対象がユダヤ人からローマ市民などその他の民族に広がります。

 当然、イエスの正当な弟子を自認するユダヤ人グループからは批判されますが、論争の結果パウロ派が勝利を収め、キリスト教は世界宗教になっていったのです。

 ここまでの歴史を見て、イエスという人(神ではなく)を私は身近に感じました。一方、パウロという改革者の登場がキリスト教を誕生させ、その後の世界の歴史を大きく動かしたという事実は、「宗教の成立」という意味で興味深いものがあります。

 なぜなら、パウロ派は、まかり間違えばユダヤ人によって異端のカルト教団とされていてもおかしくなかったからです。

 次は、「キリスト教が何をしたのか」を考えたいと思います。


   参考文献:出口治明著「哲学と宗教全史」 sagrada10.jpg キリストの受難を表したサグラダ・ファミリア寺院の彫刻

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 家庭連合 批判・告発へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句(新宗教)へ
にほんブログ村

Profile

Seino.S

Author:Seino.S
1970年に統一教会に入信し、1982年に退会。以来、雑誌編集者、フリーの編集者・ライターとして仕事をしてきた。最近の統一教会問題を見るにつけ、未だに多くの信者が苦しんでいる現状に心を痛めながらも、何もできないもどかしさを感じる日々だ。

Search form

QR code

QR
  翻译: