広瀬武夫と日露戦争、旅順口閉塞作戦6(ドラマ『坂の上の雲』)

本命(!?)回は来週ですねえ。
同じ事を繰り返し書いているような気がするのだけれど、昨日の『坂の上の雲』再放送を受けての雑多な感想を書いていく。

有馬良橘が…何だかえらい横柄な感じの人に…
いや、そんな感じの人ではないのよ。
海兵12期、関西のイントネーションで話していた有馬は和歌山の人です。
加藤雅也さんとてもかっこいいですね。

有馬良橘

私が一番好きなのは広瀬武夫が在籍した15期ですが、その次に好きなのが12期。
有馬良橘の他、江頭安太郎、山屋他人、林三子雄、上泉徳弥といった人たちがいます。


海軍兵学校12期


林は前出。
明治30(1897)年、広瀬がロシア留学生に選出された際、ドイツ留学生として選出された人物です。
第3次旅順口閉塞作戦に総指揮官として参加、戦死している。

江頭安太郎は12期クラスヘッド(首席)、作家江藤淳の祖父になる。
また皇后雅子様の曽祖父に当たる人物です。
江頭の長男江頭豊が山屋の五女寿々子と結婚していましてね、江頭と山屋は親友であると同時に姻戚でもある。山屋も雅子様の曽祖父である。中々すごい。
12期は総勢19名。
まだ生徒数の少ない頃で、しかも藩閥出身者がいなかった為非常に仲の良いクラスであったそうです。

江頭は早世した為江藤淳はこの祖父には会ったことがなかったけれど、有馬良橘から話を聞いていた。曰く、
「君のお爺さんは自分たちが束になってかかっても、とてもかなうもんじゃなかった」
ずば抜けて優秀な人物であったようです。

問わず語り(57)

問わず語り(57)

名士上泉徳弥、秋山真之@なんでも鑑定団、親族の輪


ドラマの本放送の際、有馬のご子孫様から「広瀬を閉塞に誘った有馬を嫌いかもしれませんが」と声をかけられ、滅茶苦茶驚いた記憶があります。
そんなこと、一度も考えたことなかった。
日露戦争で閉塞作戦に参加して戦死することが、残念であるけれど、本当に残念であるけれど、広瀬武夫という人の運命だったのだと思う。

広瀬武夫_広瀬神社_有馬良橘

因みに上写真、広瀬の故郷大分県竹田市の広瀬神社の参道に立っている石柱ですが、これは有馬良橘の筆によるものです。

**

開戦後、アリアズナからの手紙で広瀬はボリス君が旅順にいる事を知った風になっていましたが、広瀬、ボリス君から直接書簡をもらっています。
『広瀬武夫全集』に所収されているのだけれど、書簡の日付が1904年、明治37年1月9日。
しかしこれ、いつ届いたのか。
認められた日からは随分後、もしかしたら広瀬の死後では?という気がするけれど、どうだろう。
広瀬は第2次閉塞作戦直前、福井丸にやってきた森山慶三郎に対して、ロシア側からの返事が一向に届かない、検閲がやかましいのだろうと漏らしていたようですし(広瀬自身の書簡もつかないだろうとも)。

とまれ開戦の本当に直前で、その内容からボリス君は当時旅順艦隊のツェザレーヴィチ乗り組みであったことが分かります。
広瀬はボリス君の父にも手紙を出していたようですね。
またボリス自身も自分宛に手紙をいっぱい書いて欲しいと書いている。
しかも締め括りの署名には「君の弟であるボリス・ヴィルキツキイ」ですよ。
国境を越えた友情をそこに見ることができます。

今日はここまで。
小出しになってすまん…眠い…

拍手頂きました方、ありがとうございます。
思いの外沢山の方に読んで頂いているようで驚いています。ありがたい…
そして頂いたコメントに返信しております~。
wavebox(拍手)の画面からご確認くださいませ。「拍手」ボタンを押して下にスクロールすると確認できます。
身の引き締まる思いのコメントを頂きました…
にほんブログ村 歴史ブログ 近代 明治・大正・戦前へ wavebox_拍手拍手
関連記事
 0

COMMENTS

広瀬武夫
  翻译: