群衆心理

 

1972年〕118日の夜、早稲田大学文学部構内の自治会室で、第一文学部2年生だった川口大三郎君が、革マル派日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス派)という政治セクトの学生たちによる凄惨なリンチにより殺された。その遺体はパジャマを着せられ、本郷の東大附属病院前に遺棄された。

 その事件をきっかけに、一般の学生による革マル派糾弾の運動が始まり、私のその渦の中に巻き込まれていった。

 私たちは自由なキャンパスを取り戻すため、自治会の再建を目指したが、その過程で多くの仲間たちが理不尽な暴力に晒され、私も革マル派に襲われ、重傷を負うことになった。1年数か月続いた闘いの末、運動は挫折し、終焉を迎えた。……

 約半世紀前、東京の真ん中に、キャンパスが「暴力」によって支配された大学があった。

 あの時代の本当の恐ろしさを伝え、今の世界にも通ずる危うさを考えるため、私は自らの記憶を呼び起こし、かつての仲間や敵だった人々にできる限り会った。段ボール箱に詰め込んだままになっていた資料も読み返した。

 あの苦難に満ちた日々、私は、そして同世代の若者たちはどう生きたのか――。

 

 もしかしたら、筆者自身がこの暴力をもって帰らぬ人となっていたのかもしれない。

 用心してはいたつもりだったが、まさか、一般の学生が往来する構内のこんなに目立つ場所で襲撃されるとは思ってもみなかった。どこかに油断があったのだろう。

 男たちは私を取り囲むと、言葉を発することなく、羽交い締めにし、いきなり押し倒してきた。抵抗する間もない、一瞬の出来事だった。すぐに、「足を狙え」という声とともに、足首、膝、すねに一斉に鉄パイプが振り下ろされる。

 鉄パイプがすねに打ちつけられる度に、骨に直撃する鈍い音とともに想像を絶する激痛が走る。だが、彼らは無表情で黙々と鉄パイプがを振り下ろし続けた。……

 少しすると、男たちは業を煮やしたのか、「腕をやれ」の声とともに、今度は私の頭部と腕に鉄パイプを振り下ろし始めた。

 頭部から血がほとばしり、鉄柱を抱える腕に激痛が何度も走る。彼らは鉄柱に回した腕をほどこうとするが、それでも私は最後の力を振り絞って堪え続けた。

 やがて、男たちは連行することを諦めたのか、あるいはもう十分なダメージを与えたと考えたのか、その場から立ち去っていった。

 本書を読む中で、警察は何をしているのだろう、と幾度思わされたことだろう。

 つまり、そのとき私は待望していた、「正しい暴力」の発動を。逮捕や身柄の拘束という法手続きと、拉致監禁の何が違うというのだろう。取調や供述と、「自己批判」の何が違うというのだろう。

 本書をめくる体験は、そうした己のグロテスクを知る試みでもある。

 

 件の「早稲田で死んだ」彼の学生葬に、革マル派からただひとり、文学部の自治会委員長が参列を申し出る。姿を現すや、大隈講堂には怒号が飛び交う。級友たちは殴りかからんばかりに彼を取り囲む。発言しないことを条件に着席を許された彼は、その途中、被害者の母に歩み寄り、おそらくは謝罪のことばを述べる。その間も当然のごとくに彼に罵倒が注がれる。

 そして式は、「都の西北」の大合唱をもって締めくくられる。

 直接手を下したかすらも定かではないひとりの人間に対して、式場を埋め尽くす参加者たちがその敵意の限りを浴びせかける。そして最後には、一斉に声を揃えて「ワセダ ワセダ」とシュプレヒコールの嵐を起こす。

 この瞬間、ギュスターヴ・ル・ボンが説く「群衆心理」が紛れもなく立ち上がる。死者の犠牲を錦の御旗に、オーディエンスたちは一斉に顔も名前も持たない群衆と化して、ひとりの人間に牙を剝く。

 この委員長は、組織の決定に基づく代表者として、立ち会いを願い出たわけではない、おそらくは「自己批判」に基づいた決断主体となって、たったひとりきり、己が標的と化することを引き受けた。

 私はここに奇妙なねじれを見る。

 革マル派というヴェールにくるみ己のアイデンティティを埋没させた彼らは、「全労働階級人民」の輝かしき未来のために、むき出しの「正しい暴力」を一個人としてではなく、あくまでその名義において行使する。そして同様の図式が追悼の席でリピートされる。参列者たちは顔を持たない、名前を持たない、貴い犠牲を旗印に、燃え上がるその衝動を一気呵成にひとりに向けて解き放つ。

 奇しくも、革マル派がこの事件を受けて発表した声明にはこうある。

「こうした特殊な暴力をあえて行使しなければならない場合には、……まさに組織の責任の下に組織的に遂行されねばならない」。

 この瞬間、個人が「組織」へと解消される。

「群衆心理」とはすなわち、「正しい暴力」をいずこの「組織」へと帰属させるか、という問題に過ぎない。それぞれの「組織」がそれぞれの正史を構築する、ここにおいて正史とはすなわち、「正しい暴力」をいかに歴史に組み込むか、という問題へと解消される。

 事件を受けて、反革マル、非民青の学生活動も二極化する。つまり、「正しい暴力」をもって対抗するか、もしくはあくまで「寛容」の倫理を貫徹するか。

 カール・シュミット「友敵理論」に分断する世界の中で、対立を調停するための通わせるべきことばが消えたとき――「正しい暴力」が台頭する、「群衆心理」が台頭する。

 

 すべて彼らは、ただ動員されるためにのみ生まれ落ちた。

 マスを読み解くに、統計学マーケティング定量性の数字さえあれば足りる、彼らにはいかなる言語もなじまない。

 

 事件から半世紀、学内で革マル派の中枢を担っていた「暴力支配を象徴する」人物と対話する。彼はその後日本を離れ、北米を渡り歩き帰国後は、大学でも教鞭を取るスローライフ系の環境活動家となっていた。

 あまりにあっけらかんとした語り口から繰り出されるその告白におそらく多くの読者は当惑と苛立ちに駆られることだろう。彼は言う、「人間ってそんなにいつも筋道を立てて考えて、その通りに生きているわけでもないでしょう。だから僕は、残念ながら、そういう因果関係をうまく説明できないんですよ」。

 私はそこにこそむしろ、彼の「自己批判」の痕跡を見ずにはいられない。「群衆心理」の渦に飲み込まれるまま無思考に繰り出された暴力に対して、むしろ何かしらの思考のことばが紡ぎ出される方がおかしいのである。なんとなく彼は革マル派に在籍して、そのフレームの中でなんとなく「正しい暴力」を行使した。「組織」の出来事に対して個人として語るべきことばなど持ちようがないのである、それが「群衆心理」のかくある所以なのである。

 大日本帝国もそうだった、ナチスドイツもそうだった、米英にしてもおそらくは少なからずそうだった。マックス・ヴェーバーによって定義された「正当な暴力の独占主体」としての国家のパーツとして、凄惨なミッションを受け持った彼らの大半は、おそらくは戦後社会を平穏な一市民として暮らした。中には戦争PTSDに苛まれた者だってあったかもしれない、その末にDVやレイプに及んだ者もあっただろう、しかしほとんどの者は「正しい暴力」の行使主体であった過去を忘れてしまったかのように、時にニュース越しの殺人事件や他国の戦争、内乱に心を痛めながら、その一生を閉じていった。彼らはとぼけているわけでも、目を背けているわけでもない。

 しばしばジキルとハイドになぞられられるこの現象は、しかしいかなる比喩としての妥当性をも持たない、なぜならば、そこに人格はないのだから。

 それが「組織」なのである、それが「群衆心理」なのである。

 そこにもし責任なるものがあるとするならば、それは自ら手を下した「正しい暴力」に対してではない。「組織」にコミットしてしまった、「群衆心理」に身を任せてしまった、その点にこそ、その点にのみ、責任は発生する。

 

 その人物が、思考する個人を取り戻した契機を語る。

 僕は留置場に2回入っていますが、房内には人間的に魅力のある人が多いんです。……普通に生活していたら絶対に聞くことのできない話が刺激的で面白くて。……

 房内でヤクザが読んでいた『宮本武蔵』を貸してもらったら、これがマルクスレーニンの本なんかより全然面白かった。

 留置中、いつの間にか「もっとおいしいコーヒーが飲みたい」とか、「いい音楽が聴きたい」といったこれまでの学生運動とは無縁の欲求が生じるようにもなっていました。

 どうということのない無駄話が私を私でいさせてくれる、『宮本武蔵』が私を私でいさせてくれる、「おいしいコーヒー」や「いい音楽」が私を私でいさせてくれる。

 今は亡き指名手配犯、桐島聡の存在をつい連想する。世間から身を隠したこの爆弾魔は、酒とロックをこよなく愛する気のいい飯場のおっさんとしてその生涯を閉じた。関わった誰しもが彼の来歴に驚嘆を禁じ得なかった。刑事司法という名の「正しい暴力」は、拘禁反応を生ぜしめこそすれ、穏当な人柄を涵養しない。趣味や生きがいが誰からも親しまれたというそのキャラクターを培った。改心したわけもない、反省したわけでもない、コンテンツひとつで人間は不可思議なほどに変えられてしまう。

 日々のさりげないこうしたアイテムのひとつひとつをあるいは「寛容」という。誰かより賜りし高尚なおことばよりも、私が私でいることが、「群衆心理」を、「正しい暴力」を遠ざける。

 

shutendaru.hatenablog.com

shutendaru.hatenablog.com

shutendaru.hatenablog.com

  翻译: